2025/08/31

泉南歴史トピックス6―大光寺末の信達庄三カ寺のその後⑯

 泉南歴史トピックス6―大光寺末の信達庄三カ寺のその後⑯

―信達庄三カ寺のその後⑯(今回こそ最終回)―

 当シリーズは、元々が⑩で終了予定だったのですが、続者からの質問や要望にお答えしたり、いろいろ調べていくうちに更に書きたいことが増えたりと⑮までも延長してしまいました。この辺で当シリーズを本当に終了いたします。なお、①~⑮記事で更に新しい事実が判明したときはまた追加をする扱いにしたいと思います。

 さて、前回のシリーズ⑮で、シリーズ②で示した「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」の24カ寺に貝塚関係の寺の名称がないのは、当該末寺帳作成以前に知恩院直末寺院になっていたからで、信達庄の四カ寺が元禄9年(1696)の末寺帳に搭載されているのは、その実態は別として正式に大光寺の末寺から離れたことにはなっていなかったからと思われると書きました。

 その後、これら信達庄三カ寺(「阿弥陀堂(寺)」として、幡代光明寺触下で知恩院直末として復帰した六尾正安寺は除く。)について、大光寺は復帰への努力をしなかったのでしょうか。これまた中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の研究成果をご紹介しておきたいと思います。

元禄9年(1696)の全国末寺調査の際には牧野浄岸寺、中村法然寺、馬場安養寺は「出入り以来、村ごと改宗退転」となっていました。本件はその後も問題になり、元禄14年(1701年)4月14日に大光寺は退転した三カ寺に関して、知恩院に岸和田藩寺社奉行衆に対処を求める書状を出すよう要請したようですが、支障(藩領内干渉になる)があって実現しなかったようです。

  また、本件に関し宝永五年(1708)2月に、尊統法親王(知恩院門跡三世)の坊官・家老中から、春木西福寺へこの件を仲介するよう依頼されたのですが、関与できない旨を本山と協議のうえで断りの返答をしたことも判明しています。

  本年6月1日にはじめて投稿した本シリーズですが、以前から私の研究課題であった「まぼろしの中村(岡中)法然寺問題」が、京都の本山知恩院や岸和田藩も巻き込んだ歴史の一幕であったことが分かって本当に驚くばかりです。

(寛永十六年(1639)の出入り時に、大光寺開基大旦那新川盛明が信達庄現地から、旦那衆中や信達庄の浄岸寺をはじめとした諸末寺に書き送った書状の下書き(再掲))

(2025/9/29追加)
・六尾正安寺と幡代光明寺に関して、新知見があり追加記事を載せましたので、シリーズ⑩及びシリーズ⑭の9/29追加記事をお読みください。