2024/11/29

清左の歴史深堀り 2 国市場にある神社の名称は


 清左の歴史深掘り  2   

根来街道筋、国市場にある神社の名称は

「岡前神社」の読みは?(オカマエ?、オカゼン?・・・・)

少し昔の昭和30年代、40年代頃、今の「市立くすのき幼稚園」の場所は「済生会泉南病院」だった。そしてその前、まだ病院が無かったころ、当時の地図に記された南海バスの停留所名は、「岡前(おかまえ)神社前」と表示されていた。

そして現在はというと、市販の地図やネットマップでは、「岡前神社」と漢字表記されているだけが多く、私が検索した中では唯一「マピオン」で「おかぜんじんじゃ」となっているのみである。さて、泉南市樽井2丁目5-2にある当該神社は何という名称の(何と読む)神社なのだろうか?。もちろん、当神社は今も「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」を祀る「岡前神社」なのだが・・・・・。かなり以前になるが、市に問い合わせても分からず図書館2階の郷土史本コーナーを調べても分からなかった。

近世から近代初期に、3000人規模の巨大な庄宮座・国市座がもたれた場所に近い関係から、信達庄13カ村、金熊権現宮の国市座との関わりを考えていたが、いくら調べてもこれとの関わりは無かった。そのようなことで、根来街道筋に今もたたずむ当社の謎を、私は何時か解きたいと思っていた。


何年か前、ある団体の街歩きで、私は泉佐野市の日根神社拝殿に至る境内社群の中に「岡前神社」を発見した。そして、社務所に駆け込んで頂いた「日根神社由緒略記」を見ると、「合祀社」として、明治41年の一村一社令によって日根野村の集落毎にあった五つの社が、今も日根神社内に本殿をもつ境内社として存在し、それぞれの神社ごとに現在も宮座行事を行っていることを知った。五つの社の中に『「岡前神社」、旧俵屋村の神社。祭神は素戔嗚命。』と記されているではないか。


私の長年の疑問は一挙に晴れた。若いころは「俵屋新田」に関する知識に乏しかったが、そのころは「国市場」は俵屋新田村であったことの知識があったためである。そして、(日根神社の)岡前神社の場所に戻ってみると、神社前の手水鉢に古くなって読みづらいものの「牛頭天王」とはっきりと記されているではないか。私の心の中は新しい発見をしたことの満足感で一杯だった。


その時は「岡前神社」の読みや呼び名までは分からなかったが、後日、日根神社の宮司さんに聞いたところ、詳しくは分からないが、古くからの俵屋の人たちは「オカザキさん」と呼んでいる人もいるとのことであった。「岡前=オカザキ」とは・・・・、私に更なる疑問解決の大きな課題が発生したのであった。

 明治維新による社名・祭神変更

さて、俵屋新田村について、詳しく解き明かしてくれた「新修泉佐野市史、通史編、近世」の57ページの記述では、「村民の紐帯としての社寺」として、「牛頭天王社は正保41647)年に古社を再興したとする。」と記され、俵屋新田村の草創期から存在していたことが分かる。また、国市場の岡前神社にも、「牛頭天王」を祀っている石の磐座(いわくら)があるため、おそらく俵屋の「牛頭天王社」を江戸時代に勧請したものと推定されるのである。

その後、明治維新による「神仏分離令」は京都祇園社を「八坂神社」とし、祭神を牛頭天王から「素戔嗚尊」に変更するなど、社名と祭神を変更することを広範に行った(例:大苗代、祇園牛頭天王社→一岡神社)、俵屋の牛頭天王社も「岡前神社」と変更され、分社たる国市場もそれにならったものと思われる。その後、俵屋の岡前神社は明治41年に日根神社に合祀されたが、同年に国市場は樽井村に編入されたため、神社合祀の対象からもれたものと思われる。少なくとも樽井にあった他社のように茅渟神社に合祀された記録は見当たらない。

そして重要なのは、俵屋の宮座は今も日根神社内の岡前神社で営まれており、国市場の岡前神社においても、座株をもつ人たちによって今も運営されていることである。(この点は地元の方から聴取り。)

うららかなある日、旧俵屋新田村の中心地である泉佐野市俵屋を探索した。そこには岡前神社(江戸時代の牛頭天王社)の跡地に「俵屋町会館」が建ち、その向かいに合祀後残った灯篭等が保存されている。今も泉州16カ村に飛び地を持った俵屋新田村のレガシーが残っており、付近の旧家の人らしい男性に「岡前神社」の読み方、呼び名を聞くと「オカザキ神社というんや」と返って来た。確かに「前」は「さき」とも読む。オカザキの謂われまでは分からないが、「オカザキジンジャ」に違いないのである。


(令和7年5月10日追記)

岡前神社の読みが「おかざきじんじゃ」であることを証明できる文献を発見しましたので追記いたします。

『ふるさと探訪』(「昭和60年3月発行」「原稿執筆者 溝端常次郎」「編集と発行 泉佐野市市長公室 広報広聴課」「印刷 (株)近畿出版印刷」)です。市広報に掲載したものを編集した冊子のようです。この冊子の50P、下段、「岡前神社と安養寺」のなかに「氏神は「岡前神社」と呼び、・・・・」とあり、岡前に(おかざき)とのルビが付されています。

今から40年前に発行された冊子ですが、私の気持的には「史料」と呼びたい一冊です。






2024/11/21

泉南歴史トピックス3ー②辻井利左エ門


泉南歴史トピックス3ー②

馬場、極楽蜜寺の二つめの碑「ゆきりの祖」

小平次を尊敬していた辻井利左エ門

 阿形賢一氏の「泉州むかし話 第2集」の「八、ゆきりの祖」を読んでいただいたものとして話を進めたい。私なりに要約すると、

  馬場は水利に恵まれない土地だったが、江戸時代中期に辻井利左エ門という医師がいた。遠方からの往診の依頼も絶えなかったので、金持ちたちはもっと町に出て活躍するよう勧めるほどだった。

  実は利左エ門には信念があった。若いころ父と同じ村役であった「小平次」の「村のために働く」という姿勢に感銘を受けて、同じように村のためになる立派な人になりたいという思いだった。

  やがて利左エ門は医学の勉強のために江戸に旅立ったが、それが小平次との永の別れとなった。留守に起こった馬場の農民一揆(藩の米蔵破り)の首謀者として処刑されたのである。学問を修めた利左エ門はこれを知り、小平次の遺志を継ぎ微力ながらも村の人たちの役に立とうと馬場の地で開業した。

  当時の岸和田藩主は岡部長備(ながとも)公だったが、この時相当労咳の病が重く、日に日に悪化していた。陰陽師の占いにより「日根郡信達馬場の利左エ門という名医に診せればよい」ということで、家臣が迎えに来て利左エ門が岡部の殿様の診療をした。

  殿さまの病気は薄皮を剝ぐように日に日に回復した。「辻井利左エ門とやら、此度は大儀、その方希望があれば何なりと申してみよ。必ず叶えて取らせようど」と上機嫌。利左エ門はならば村の水利に便宜を図ってくださるよう、村の窮状を切々と訴えるのであった。

  その結果、岡中(明治17年までは中村)・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り、金熊寺川のなめり橋(誤り、「なめんじょ橋」)の分水(ゆ)から道光寺池への放流が許され、この年以来豊作が保証された。この取り決めはそれ以降つい最近まで続いていた。

  1972年の堀河ダム完成からは、ほとんどこの水(水利)問題は解決された。辻井利左エ門の功績を称えるために、馬場の人達は極楽密寺境内の義民小平次の碑の横に顕彰碑を建立したのであった。

こんなところだろうか。

私も地元の百姓の子孫として、実に興味深い伝承である。顕彰碑のことは知らなかったが、中学生か高校生の頃に馬場の友達からむかし話として聞いた覚えがある。次回からこの伝承を少し掘り下げてみたいと思う。


2024/11/17

泉南歴史トピックス3ー① 「ゆきりの祖」

 


泉南歴史トピックス3ー① 「ゆきりの祖」

馬場、極楽蜜寺の二つめの碑「ゆきりの祖」

「ゆきりの祖」なのか?

 泉南市馬場極楽蜜寺の義民小平次の碑の隣に、一回り小さい碑が立っている。小平次の話は、古くは「かりそめのひとりごと」のほか小説「和泉国馬場村騒動 義民小平次」、「泉南市史」その他多くの郷土史本に取り上げられて泉州の郷土史家や歴史好きには有名である。今回は隣の「ゆきりの祖」の碑にまつわる話を少し掘り下げてみたい。

まずは、小平次のように有名ではないので、話(伝承)の概要を紹介しておきたい。当該伝承は、阿形賢一氏の「泉州むかし話、関西新空港の地 第2集」に「八、ゆきりの祖」としてとりあげられている。この本は著者自身が記しているように確実な史実を取り上げたものではなく、むかしばなしや言い伝えにスポットをあてて、フィクションも交えて構成されている。まずはこれをご紹介することにしたい。

泉州むかし話第2集 ゆきりの祖 (「八、ゆきりの祖」は101ページから)