2024/11/21

泉南歴史トピックス3ー②辻井利左エ門


泉南歴史トピックス3ー②

馬場、極楽蜜寺の二つめの碑「ゆきりの祖」

小平次を尊敬していた辻井利左エ門

 阿形賢一氏の「泉州むかし話 第2集」の「八、ゆきりの祖」を読んでいただいたものとして話を進めたい。私なりに要約すると、

  馬場は水利に恵まれない土地だったが、江戸時代中期に辻井利左エ門という医師がいた。遠方からの往診の依頼も絶えなかったので、金持ちたちはもっと町に出て活躍するよう勧めるほどだった。

  実は利左エ門には信念があった。若いころ父と同じ村役であった「小平次」の「村のために働く」という姿勢に感銘を受けて、同じように村のためになる立派な人になりたいという思いだった。

  やがて利左エ門は医学の勉強のために江戸に旅立ったが、それが小平次との永の別れとなった。留守に起こった馬場の農民一揆(藩の米蔵破り)の首謀者として処刑されたのである。学問を修めた利左エ門はこれを知り、小平次の遺志を継ぎ微力ながらも村の人たちの役に立とうと馬場の地で開業した。

  当時の岸和田藩主は岡部長備(ながとも)公だったが、この時相当労咳の病が重く、日に日に悪化していた。陰陽師の占いにより「日根郡信達馬場の利左エ門という名医に診せればよい」ということで、家臣が迎えに来て利左エ門が岡部の殿様の診療をした。

  殿さまの病気は薄皮を剝ぐように日に日に回復した。「辻井利左エ門とやら、此度は大儀、その方希望があれば何なりと申してみよ。必ず叶えて取らせようど」と上機嫌。利左エ門はならば村の水利に便宜を図ってくださるよう、村の窮状を切々と訴えるのであった。

  その結果、岡中(明治17年までは中村)・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り、金熊寺川のなめり橋(誤り、「なめんじょ橋」)の分水(ゆ)から道光寺池への放流が許され、この年以来豊作が保証された。この取り決めはそれ以降つい最近まで続いていた。

  1972年の堀河ダム完成からは、ほとんどこの水(水利)問題は解決された。辻井利左エ門の功績を称えるために、馬場の人達は極楽密寺境内の義民小平次の碑の横に顕彰碑を建立したのであった。

こんなところだろうか。

私も地元の百姓の子孫として、実に興味深い伝承である。顕彰碑のことは知らなかったが、中学生か高校生の頃に馬場の友達からむかし話として聞いた覚えがある。次回からこの伝承を少し掘り下げてみたいと思う。


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