2025/07/18

泉南歴史トピックス6 幡代光明寺と大高寺は関係があるのか⑭

 泉南歴史トピックス6―幡代光明寺と大高寺は関係があるのか⑭

―幡代光明寺と大高寺の関係は⑭―

(このシリーズは①からお読みください)

 泉南市史通史編の「資料」35P、宗教法人一覧(昭和62年4月時点)における、仏教の「浄土宗」寺院は市内で14か寺であり、その中で当シリーズに名称が登場していない寺は、信達楠畑の大雄寺と幡代の光明寺だけとなりました。


今回は、幡代の光明寺を取り上げたいと思います。幡代光明寺については、向井俊生先生の先行研究があります。「幡代の民俗、Ⅱ民間信仰・社寺・講、一社寺、7光明寺」(「わがまちの歴史と民俗 歴研通信集成第一集泉南歴史研究会」所収165P~)です。

必要な部分についてだけ以下にそのまま紹介します。『浄土宗、摂取山光明寺。本寺は京都知恩院である。現存する古文書、寺の棟札・過去帳と古老の話しを総合的に解釈すると、以下のようになる。(中略)その後徳川の時代に至って寛永13年(1636)現在の光明寺の前身が造営中興されたことが次の棟札が光明寺に残っていることからわかる。

       大工棟梁 牧野村 作右衛門

            同   左太郎

 寛永十三年丙乙年造営

            同   喜三郎

            自然田 源太郎

 又古文書(泉南市史史料編P405)からも裏付けられる。その古文書に依れば現在の光明寺の境内には古跡があって、他の寺号が伝えられていたが、二十五、六年以前(寛永十三年(1636))に郡代並河庄太夫殿へ申し入れて村寺として寺を建立した。しかし、無本寺なので、知恩院の勝誉上人を頼んで直末にしていただくようお願いをした。その時「光明寺」という名号を書付けをもって頂戴したとある。換言すれば、「光明寺」というのはこの時点からである。続いて寛文六年(1666)には「無住につき小分の寺に似合う住持を仰せ願いたい」と頼んでいる。(以下略)』

(向井先生が引用している、泉南市史史料編P405、「光明寺住持・御着帳付願書」、寛文六年六月、宇野健次氏文書)

 ここで見なければならないのは「寛永十三年丙乙年造営棟札」と「光明寺住持・御着帳付願書」の二つの史料である。向井先生の解釈をもう少し精緻に見ていくと幾つか気付くことがある。それは、

①境内には古跡があって、他の寺号が伝えられていたとするのは、「阿□他寺号ばかり申伝候」をどう見るかという点である。私は「阿弥陀寺号」ではないかと考えたい。


②二十五、六年以前(寛永十三年(1636))に郡代並河庄太夫殿へ申し入れて村寺として寺を建立した。という点については「光明寺住持・御着帳付願書」が書かれたのは寛文六年(1666)であり、単純に25,6年前として計算すると1641年か40年で寛永十七、八年となるので、単純に棟札の年代と同一なのだろうか。


③無本寺なので、知恩院の勝誉上人を頼んで直末にしていただくようお願いをした。その時「光明寺」という名号を書付けをもって頂戴した。という点は、知恩院の勝誉上人(第35世勝誉旧応)の在任期間は慶安三年(1650)~明暦三年(1657)であり、光明寺という寺号はこの間の何時かについた寺号だろう。そして何らかの事由で無住となって、約9~16年後に本寺に住持派遣を要請した。


 さて、私がここまで本史料についての精緻な解釈にこだわるのは、やはり「幡代光明寺」にも寛永十六年、大(高)光寺の出入りに関わる何らかの歴史が関係、若しくは影響しているのではないかと考えてしまうからである。


「光明寺住持・御着帳付願書」をよく読み込むと、重大な点が浮かび上がってくる。それは上記③に関わる部分で、向井先生は触れられていないが、「御本山勝誉上人様御代二同国畠中村長平寺住持本誉を頼候て、御直末寺・・・」である。『畠中村の長平寺住持本誉に頼候て直末にしていただいた』と記されている点である。畠中村の長平寺とは後の「長楽寺」のことで、本シリーズの⑥で記したが、寛永十六年の出入り後、長老真誉に与して即末寺を離れた四カ寺の一つで、貝塚方面の中心寺院が長平寺(長楽寺)なのである。慶安三年(1650)から明暦三年(1657)頃の長平寺(長楽寺)は他の三カ寺を末寺にしていたようです。

 その意味では寛永十三年(1636)に造営された「阿□他寺、阿弥陀寺?」は畠中村長平寺(長楽寺)との間に何らかの法縁を持っていたのかもしれません。史料的な裏付けはありませんが、長平寺(長楽寺)末であった可能性も考えられるのです。

 あるいは貝塚方面四カ寺も信達庄四カ寺も結局大(高)光寺末を離れたのですから、所謂長老真誉グループであったわけで、信達庄の牧野浄岸寺との法縁で繋がっていた可能性も考えられます。寛永十三年(1636)の棟札は牧野村の大工棟梁のものなのです。

  そして、さらに考えなくてはならないのは、本シリーズ⑩で触れた六尾村、正安寺との関係です。⑩には「寛永十六年の出入で大高寺末から離れた正安寺が一旦廃絶し、その寺跡に阿弥陀堂を再建、改めて幡代光明寺触下で知恩院直末の浄土宗寺院として再興されたのではとのこと。」と記しました。


 江戸時代も幕府の寺院政策の変遷の中で寺院の新設が難しくなってきます。そんな中で幡代阿弥陀寺→六尾阿弥陀寺の流れがあったのかもしれません。幡代光明寺も中庄大高寺と無関係ではなさそうです。


          (幡代 光明寺)

(7/24追加)
・7/23にシリーズ⑮を書いていて考えたのですが、畠中村長楽寺の寺号は⑮のとおり称名寺→長楽寺で、「長平寺」だったことは他資料等を総合しても今のところ発見できません。確証はないのですが泉南市史史料編P405に登載されている「光明寺住持・御着帳付願書」原文の翻刻(古文書に書かれた文字を、現代の一般的な字体に改めて書き記すこと)の際に、「楽」を「平」と誤翻刻した結果ではないかと考えます。

(9/29追加)
・私の新しい知見となる郷土史資料を発見しました。「泉南市の神社・仏閣」(泉南中央ライオンズクラブ 平成9年4月)です。
 当資料の23P、「阿弥陀寺(六尾)」の由緒の記載では、『阿弥陀寺は、寛永元年1624年の開基と印されていますが、無住時代が長く、幡代の光明寺に依存していたとのことです。従って明治初年頃の光明寺の過去帳には、六尾の人の名前も見られるとのことです。今は京都の知恩院の末寺となっております。・・・』と記されています。
 このことから考えられるのは、六尾の「正安寺(当シリーズ⑩参照)」が開基されたのは1624年であり、寛永16年(1639)の大高寺出入で末寺をはなれ、無住状態になったのち、幡代光明寺の旧寺号である「阿弥陀寺」が寺基を六尾に移し、光明寺触下で復活したことが証明されたかたちです。
 
 もっというと、光明寺の「寛永十三年丙乙年造営棟札」と「光明寺住持・御着帳付願書」の両史料と今回の新知見を考え合わせてわかるのは、歴史軸に照らしてみていくと、①1624年六尾正安寺が開基、②六尾正安寺が大光寺出入で末寺を離れ無住化、③②の頃幡代阿弥陀寺が開基、④幡代阿弥陀寺が畠中村長楽寺住持本誉に頼んで「光明寺」となり知恩院直末に、⑤その後、無住化していた六尾正安寺を触下として六尾阿弥陀寺として復活。という流れとなるのではないか。

 中村(岡中)法然寺住持等が、男里法然寺として復活した可能性とともに、六尾正安寺住持等も幡代で復活し、幡代阿弥陀寺・その後光明寺となり、そして六尾に幡代光明寺旧寺号の阿弥陀寺を触下として復活。ということだろうか。

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