2025/07/23

泉南歴史トピックス6―大高寺と貝塚方面四カ寺のその後⑮

 泉南歴史トピックス6―大高寺と貝塚方面四カ寺のその後の歴史⑮

―大高寺と貝塚方面四カ寺のその後⑮―

(このシリーズは①からお読みください)


 寛永十六(1639)年の大高寺長老(真誉)と大旦那中庄新川家(新川盛明)の紛争が起こったのは丁度、岸和田藩主が松井(松平)氏から岡部氏に変わる前年になります。盛明(岸和田藩外の小堀藩中庄代官)が岸和田藩の奉行に事情報告したシリーズ⑥の文書は、「岡田内匠(久次)」と「石川善太夫(間隆)」宛てとなっており、両人は松井(松平)岸和田藩の奉行であることが判明しています。


 この文書で記される、盛明の主張では長老真誉は、傲世(驕り高ぶること)で籤好み(博打好き)、魚鳥を放し飼いにして浪人を抱えたうえ、朝夕勤行を怠慢、寺庫裡を荒らしたことで檀那側と亀裂が生じたと報告しています。また、長老が籤好みだったことは、寛永十五年以前の泉州湊浦の一得斎という人物の書状によって、大坂の籤出来の情報がもたらされていることが判明しており、この点については一定の裏付けがあるようです。 


 なお、シリーズ⑨の文書は、盛明がこの一件で動揺する信達庄に赴き、浄岸寺をはじめとする諸末寺・惣旦那衆に対し、真誉への心付(援助)や当面身を寄せた木積村への立入(見廻り)を行わないように勧告しています。


 さて、この時長老と行動を共にして、すぐに大高寺の末寺から離脱した畠中村称名寺(のち長楽寺)、木積村観音寺、橋本村安楽寺、脇浜村浄雲寺はその後、どのような歴史をたどったのでしょうか。寛永十六年(1639)以降、四カ寺は12年間の無本寺期間の後、慶安四年(1651)に畠中村長楽寺と他の三か寺が本末関係を結んだようです。


 実はこの畠中村称名寺(のち長楽寺)は、本山知恩院の第35世勝誉と縁故をもつ本誉旧悦(勝誉の直弟)が住持となり、他の三か寺を末寺化したようなのです。(前回⑭で示したとおり、知恩院勝誉(第35世勝誉旧応)の在任期間は1650~1657年)


 しかしことは複雑ですが、寛文元年(1661)にこれら四カ寺間にも本末紛争が発生してしまい、結局それ以降それぞれが知恩院直末寺院として、別々の泉州触頭の下に編成されたようです。(長楽寺、安楽寺は岸和田の光明寺触下。孝恩寺(木積の観音寺の後身)は春木の西福寺触下。浄雲寺は堺の超善寺・遍照寺触下。)


シリーズ②で示した「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」の24カ寺にこれら貝塚関係の寺の名称がないのは、当該末寺帳作成以前に知恩院直末寺院になっているからなのです。信達庄の四カ寺の名称が元禄9年(1696)の中庄大光寺の末寺帳に搭載されているのは、その実態は別として正式に大光寺の末寺から離れたことにはなっていなかったからと思われます。


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