(かいづか文化財だよりテンプス9号。平成12年10月31日発行)
⚫️重要なのは考古学と文献史学の統合!
わたしは前回の投稿「2026/2/28坂本先生が拓いてくれた地平とは」で、昭和63年(1988)に泉南市信達岡中の「林昌寺」の本堂裏駐車場から少し入った竹藪から「林昌寺瓦窯跡」が発見されたことを示しました。
この瓦窯跡からは焼土や瓦片が大量に出土したのですが、ロストルとよばれる平窯で出土した軒丸瓦、丸・平瓦。なかでも平安時代末期の所産となる「複弁蓮華文軒丸瓦」は一度破断してしまった范型を接合しており、痕跡が瓦当面に明確に残る特徴を持つと報告されています。
つまり、発掘調査での出土は前後しているのですが、「ちびっこ広場」(岡中遺跡中心地)から発見された瓦片は「林昌寺瓦窯跡」で焼かれたものであり、中世の寺院跡らしき遺物に使われていたものと推定されるわけです。これが泉南市(役所)における埋蔵物調査の結果です。
そして、前回投稿で示したとおり、今回(2028/2/28)の坂本先生の御講演によって、承安4.9.23(1174年)の「吉記(きっき)」(吉田経房によって書かれた日記)と、健保5.6.23(1217年)の「頼資卿熊野詣日記」(藤原頼資によって書かれた日記)に「信達弥勒堂」が出てくることをご紹介しました。(先生作成の「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)ではNo.21とNo.29)
さらにわたしは、天保十四(1843)年の泉州日根郡寺社覚の日根郡中村(岡中)に『浄土宗、本寺、中之庄村大光寺、「今断絶」法然寺、除地寺平地七百六拾七坪、彌勤堂、鎮守、天照大神社』とあることから、吉田経房や藤原頼資が熊野詣の時に立ち寄った弥勒堂が「ちんじゅさん」内の「ちびっこ広場」にあったのではないかと推定しました。
⚫️貝塚市の「加治・神前・畠中遺跡」の発掘調査
さて、冒頭の画像は「かいづか文化財だよりテンプス」の第9号、平成12年10月31日発行の表紙です。
テンプス第9号の2ページには、「貝塚市初!平安時代後期の瓦窯を発見!」として、貝塚市役所近くで畠中長楽寺からスグ、府道貝塚中央線左側の発掘地を図示しています。
発掘調査の詳しい内容は、表紙から2ページ、3ページに写真、地図、図示で紹介されているのですが、結論としてこの瓦窯跡は「平安時代後期の瓦窯」であると結論付けされています。
大切なのはこれだけでなく、テンプス第9号4ページの記載です。(これがさらに重要です)
拡大して読めない方のために、左側から右側にかけて記されていることをそのままご紹介します。
(左側)
瓦窯で焼かれた瓦はどこで使われていた?
「今回の調査では、大量の瓦が出土しており、平安時代後期の瓦が大半を占めます。当時、瓦を使用する建物は寺院であり、大量の瓦は寺院の屋根に葺かれていたと考えられます。調査地周辺には「コギ堂」という字名が残っています。これは、古文書に記述のある「近義堂(こぎどう)」という寺院のことと考えられます。発掘調査で「近義堂」と考えられる建物の遺構は発見されていません。しかし、当時の瓦窯は寺院の建立や修理の時につくられることが多いことから「近義堂」が調査地近くに存在したことが確実となりました。」
(右側)
「近義堂」とは?
「藤原経房の日記「吉記(きっき)」、承安4(1174)年9月23日の条に「古木堂」、藤原定家の日記「明月記(めいげつき)」建仁元(1174)年10月7日の条に後鳥羽上皇が昼食をとった「コ木ノニ王堂」が記録されており、皇族や貴族等の熊野詣の宿泊・休憩所として利用された寺と考えられています。字名は残っていますが発掘調査では発見されていない、まぼろしの寺です。」
※筆者注、①藤原経房と吉田経房とは同一人物。②藤原定家「明月記(めいげつき)」とは有名な「後鳥羽院熊野御幸記」と同一文書。
※筆者注、貝塚市は畠中の瓦窯跡の発見により、付近の字名地や発掘地周辺を近義堂推定地に比定しています。泉南市では林昌寺瓦窯跡と、その瓦片が岡中遺跡中心地(ちびっこ広場)から出土していますが、その後の解明がなされていません。
⚫️泉佐野市、日根荘の長福寺跡
わたしがもう一つ近くの例を紹介するとしたら、お隣泉佐野市の日根荘に九条政基が滞在した現在の下大木、「長福寺跡」の例です。泉佐野市では早くから官民が活発に「政基公旅引付」(1501〜4年の前関白、九条政基の滞在日記)の文献調査・研究が行われてきました。そのなかで下大木の「字チョークジ」が「旅引付の長福寺」ではないかと言われてきました。
しかし、平成10年(1998)の日根荘の国史跡指定時には、「長福寺跡」はその構成文化財ではありませんでした。その後、「字チョークジ」付近の発掘調査が行われ、みごとに「長福寺跡」が出現したのです。
そして、現在「日本遺産 日根荘」を構成する16の構成文化財の一つとなっています。
以上、貝塚市や泉佐野市の事例を紹介しましたが、ここで重要なのは発掘調査し結果を残すだけでなく、その文化財の(歴史的)意味を総合的に明らかにしていく作業です。そのためには「発掘調査」だけでなく「歴史学(文献史学)」の知見・機能が統合してあってこそ、貴重な歴史遺産を後世に残していけるのであり、それが結果として「都市格の向上」(例:世界遺産、日本遺産)にも活用することが出来るのです。
泉南市にはこのような機能が欠けていたことが残念でなりませんが、今からでも遅くはありません。欠けている機能を補う方法は、個々の自治体による人の採用だけでなく、高いレベルでの歴史学(文献史学)とのネットワークによる方法論で対応することも出来ると思うのです。



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