(「中世の根来寺と泉南」講演会2026/2/28(土))
⚫️新しい地平
私は当日、先生の講演終了後に「坂本先生の御講演は、『泉南市の中世の歴史』について、新しい地平を拓いてくださった」と申し上げました。参加者の皆さんの中には「何を大袈裟なことを言っているのか」と思われた方もおられるかと思います。
もとより泉南市の中世の歴史は、今日までも上皇や法王の熊野御幸や高野参籠に関わる文書群により解明された歴史を中心に語られてきました。
また、中世後期の歴史という点では、「政基公旅引付」(1501〜1504の九条政基の日根荘滞在日記)や「日輪山清明寺代々記」(新家上村清明寺)の記述を中心に語られ、昭和62年に刊行された「泉南市史通史編」もこれらの記録や文書群の上に立って編まれたものですし、昭和57年の「同史料編」はその関連史料をまとめたものです。
今回の坂本先生のお話は、これら市史発行から40年を経た今日、日本文献史学の新たな研究動向を踏まえたものだと思ったからでした。
それは配布された3種類の資料の全てに反映されていますが、例えば「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)は、160種類にもわたる関係史料を、年月日・史料名と「キーワード」を付して作成いただいており、これらの内容がスライド集や特出しの配布史料にも反映され、講演もこれらに基づいて進めてくださったからです。
例えば、「高野山文書」(御室御所参籠日記)は新家荘の中世史に関わる史料ですが、市史史料編への搭載はなく、通史編でもとりあげられていません(田尻町史では搭載)。また「醍醐寺文書」は史料編に搭載され、通史編でも取り上げられてはいるものの、内容はその後十分掘り下げられているとは言えないものです。
今回の先生のおはなしが、加納や上男保・下男保・新荘・本荘など「新鮮な話や固有名詞」がいっぱいだったのは、信達荘の荘園領主たる醍醐寺三宝院(大伝法院座主)の記録(「醍醐寺文書」)にスポットをあててくださったからなのです。お隣の日根荘については、若い研究者達による研究が日進月歩のように進んでいます。我が泉南市においても、応永の乱の信達荘への影響などとともに、今後の史学研究の進展を待ちたいところです。
(2026/3/8追加)
※「醍醐寺文書」とは。
※近年における「醍醐寺文書」に関する研究動向(論文)はこちら。
(2026/3/10追加)
⚫️信達弥勒堂(しんだちみろくどう)のこと
さて、私が一番に注目し、気になり、今後も究明したいのが、先生のスライド5枚目「信達荘の寺社と村を探る」中に出てくる「・信達の弥勒堂:林昌寺?(林昌寺縁起によるとかつて弥勒堂があった『市史』)」という1行です。弥勒信仰はこちらから。ここからも。
泉南市史通史編の第二章 和泉国における荘園制の展開、第五節 金熊寺衆徒の願文、175P末から176Pの「林昌寺の縁起」には、『林昌寺は躑躅山の山号をもち、最盛期には・・・・・の三院六坊があって、三院が学侶方、六坊が行人方に所属しているとしている(林昌寺霊像伝記)。学侶、行人の組織は高野山の寺院組織と同じで・・・・、林昌寺もミニ高野山の僧侶組織を採っているのである。』続いて、『林昌寺の縁起によると、・・・・・、三間四面の弥勒堂、・・・・・などの堂塔を構えた。』とあります。
その後の176P「行基伝説と泉南」のとおり、私もこれらは所謂泉州における(行基)伝承の一端と考えるものですが、今回の先生のお話に触れてこれら伝承の基となる林昌寺の歴史(もっと広く岡中(日根郡中村)の歴史)をさらに解明したい欲求にかられるのです。
先生作成の「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)には、No.21承安4.9.23、1174年、史料名「吉記」に「信達宿、信達宿弥勒堂」が出てきます。(吉記(きっき)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿、吉田経房(よしだつねふさ)によって書かれた日記です)。
また、No.29健保5.6.23、1217年、史料名「頼資卿熊野詣日記」((よりすけきょうくまのもうでにっき)にも「信達弥勒堂」が出てきます。(「頼資卿熊野詣日記」は藤原頼資(ふじわらよりすけ)自身が生涯20回にわたって行った熊野詣の日記ですが、頼資による「修明門院熊野御幸記」の承元4.4.24、1210年(先生の史料No.は27)では、長岡王子のあとに信達王子に参り、その後、雄山一ノ瀬(金熊寺川)で禊をした記述により、信達王子(信達一之瀬王子)が「岡中(中村)の字走り掛け」に存在したことを証明してくれた貴重な文献史料です。)(※これらのことをお知りになりたい方は、当ブログ「信達一ノ瀬王子のこと」を御覧ください。)
いずれにしてもこれらの史料からは、平安時代末期の源平合戦から鎌倉時代にかけての社会情勢がよく分かるものですが、この中に「信達弥勒堂」が登場する意味はまことに大きいのです。信達、中でも中村(今日の岡中)の中世まで遡る歴史は先生が最初に示された、スライド5枚目「信達荘の寺社と村を探る」中に出てくる「中村ヒシリ(聖)町:?」に関わる重要な歴史なのです。
さて、この「信達弥勒堂」に関わる情報が、市史通史編「林昌寺の縁起」だけでなく、「天保十四(1843)年、泉州日根郡寺社覚」にも存在します。和泉国日根郡中村(現、泉南市信達岡中)には、江戸時代の何時頃までか浄土宗の「法然寺」という寺があり、寺社覚には、『浄土宗、本寺、中之庄村大光寺、「今断絶」法然寺、除地寺平地七百六拾七坪、彌勤堂、鎮守、天照大神社』とあります。
寺社覚には続いて『真言宗、本寺、山州嵯峨仁和寺、地蔵堂守躑躅山 林昌寺、除地寺平地壱万千四百坪、地蔵堂、鐘撞堂、「一名岡寺」「寛永十八年中興」、薬師堂、愛宕山権現社、石鳥居』とあり、現代の林昌寺の記述となっているのですが、問題の「弥勒堂」は法然寺があった「ちんじゅさん」の一部であったことになっているのです。
(明治初年頃の「日根郡中村和絵図(村保管)」では、当地と横の墓地が「法念寺」となっています。)
法然寺墓地は平成29年に元興寺文化財研究所が調査しており、最古のものとして天正三(1575)年銘の五輪塔地輪が一点、その次が1621~1630年のものが三点判明しています。
一方、真言宗の「林昌寺」は信長・秀吉の焼打ち(雑賀攻め、根来攻め)にあって全山が灰燼に帰しましたが、歴史的な遺物がいくつもあり、本堂裏の駐車場から少し入った竹藪からは昭和63年に「林昌寺瓦窯跡」が発見されました。
この瓦窯跡から焼土や瓦片が大量に出土したのですが、ロストルとよばれる平窯で出土した軒丸瓦、丸・平瓦。なかでも平安時代末期の所産となる「複弁蓮華文軒丸瓦」は一度破断してしまった范型を接合しており、痕跡が瓦当面に明確に残る特徴を持つのですが、同范瓦は岡中遺跡(ちんじゅさん、ちびっこ広場)で出土しているのです。(泉南市文化財年報№1、1995.3泉南市教委)
その意味において、当該平安時代末期のちびっこ広場同范瓦は、法然寺の寺域(ちんじゅさん)にあった「彌勤堂」のものである可能性が大きくなってきました。
さらに、上記の考古学的知見と合わせて、当該「ちんじゅさん」と金熊寺川の間の地区は古くから「堂裏(どううら・どぶら)」と呼ばれ、この川辺は地元では「どぶら川」と称され、さらにその同業(どうぎょう(葬祭相互扶助組織))約20軒は今日でも「どぶらどうぎょう」と呼ばれるなど、民俗学的な視点からも「お堂」にまつわる地域の伝統が残っているのです。
今後も、「信達弥勒堂」に関する歴史探索が進むことを切に願うものです。
◼️この小文に関連するページを紹介いたします。
1.大師街道を歩く①
2.大師街道を歩く②
(2026/3/10追加)
⚫️私がなぜ信達弥勒堂のことにこだわるのか
当ブログを投稿して、読んでくれた読者から電話がありました。(その方はメールでなく何時も電話です。しかし熱心な読者です)。話の中身は二点、「応永の乱とは?」これについてはネット上に情報がありますので、リンクを張りました。もう一点は「私がなぜ弥勒堂にこだわるのか」という点です。それは単純に「(泉南市)信達にとって誠に古い歴史の証だから」故です。
弥勒菩薩で有名なのは、いわずと知れた京都太秦の広隆寺にある国宝指定第一号の「宝冠弥勒」でしょう。弥勒菩薩の仏像を祀るお堂や寺院は、古いものや比較的新しいものも含めてたくさんあります。これからでも作ろうとすれば作れます。
私が大切にしたい、また皆さんにも大切にしていただきたいのは、単なる「弥勒堂」ではなく、平安時代末期の承安4年9月23日(1174)に、吉田経房が書いた日記(「吉記」)に「信達宿弥勒堂」が出てくる、弥勒堂があったという事実なのです。
さらにその43年後、鎌倉時代初期の健保5年6月23日(1217)の、藤原頼資が書いた「頼資卿熊野詣日記」にも「信達弥勒堂」は出てくるのですから、これはもう鉄板の歴史的事実ということでしょう。
少し簡単に日本仏教の流れについてふれて見たいと思います。
日本仏教における信仰の変遷は、人々の「救い」に対する切実な願いの変化とともにありました。それは、その時代の歴史的な背景も大きく影響しています。
まずは、釈迦如来に対する信仰ですが、6世紀の仏教伝来から奈良時代にかけて、仏教は主に「国家の安寧(鎮護国家)」を祈るためのものでした。釈迦はこの世で悟りを開いた唯一の師として、国を導く聖なる存在とされ、飛鳥寺や法隆寺の本尊が釈迦如来であるように、まずは仏教の基礎として受け入れられたのです。
平安時代に入ると、釈迦の死後、正しい教えが廃れる「末法(まっぽう)」への不安が広がり始めました。釈迦が去った後の「仏のいない時代」を生きるため、未来の救世主である弥勒菩薩への信仰が盛んになったのです。弥勒は、56億7千万年後の未来に現れて人々を救う菩薩です。
空海が弥勒の住む「兜率天(とそつてん)」に上がったという伝承から、密教とも結び付き、修行者が「未来の救い」を待つ信仰として広まりました。
そして、11世紀、ついに「末法」の世が到来したと信じられ、さらに戦乱や飢饉が相次ぎました。「自力で悟る」ことが絶望的な状況のもとで、誰でも救われる教えが求められ、信じれば極楽浄土へ導く阿弥陀如来への信仰です。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで死後に極楽に行けるという、他力本願の教えが爆発的に広まりました。遠い未来を待つのではなく、阿弥陀は死後すぐの救済を約束したため、貴族から庶民まで広く浸透したのです。
私流の単純化した見方でみますと、この流れは仏教が「国を守るためのもの」から「個人の死後のためのもの(救済)」に変化していく流れでもあります。弥勒信仰はこの中間期、端境期ともいえると思います。(間違っていればお許しください。)(※なお、現世利益を求める「観音信仰」は別途、仏教伝来期から盛んでした。)
さて、泉州の(泉南の、信達の)歴史に戻りますが、初出の1174年といえば、上皇や法王達の熊野三山への参拝が絶頂期に達する頃ですが、実は白河上皇の初熊野詣(1090〜)とほぼ同時期から高野参籠も盛んになっており、以後皇族や公家達の高野参籠も盛んになっていきます。
とりわけ、私達が注視したいのは坂本先生が「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)でも取り上げてくれている、高野山文書(御室御所高野山参籠日記)、1147〜1150年の覚法法親王の高野山参籠です。これらは日根湊(現田尻漁港に比定される)から上陸し、御室仁和寺領新家荘で一泊ののち高野へ向かう記録ですが、「信達弥勒堂」の初出記録とほぼ同時期であることから重要なのです。
根来の歴史は、覚鑁(かくはん)が保延6年(1140)に高野山より弘田荘の豊福寺(後の根来寺建立地)に止宿したことにはじまりますが、後に頼瑜(らいゆ)が高野山から大伝法院を根来に移したのは正応元年(1288)なのですから、信達荘はもちろんまだ根来寺領ではありません。
その意味において、歴史軸、時間軸に照らしても「信達弥勒堂」は根来の影響下で出来たということでなく、それ以前の熊野御幸や高野参籠の歴史の中で存在したものと考えられるのです。
要は「信達弥勒堂」は根来寺の歴史よりさらに古いものなのです。
そして、泉南市の熊野街道を語る際、単純に上皇達の熊野御幸だけでなく、高野参籠の歴史もほぼ同時期、すこし遅れて存在したことを肝に命じておかなくてなならないと思い返したのでした。
※今回追加記事(3/10)と一部関連する記事(1147〜1150年の覚法法親王の高野山参籠の関係が載っている当ブログのページ)はこちらから。
(2026/3/11追加)
昨日、追加記事を書いた際に書き忘れていた重要なことがあります。
第四代御室門跡覚法法親王の高野山参籠の日記、久安三年(1147)から同六年までの四年間の五度にわたる日記ですが、
第一回目の行程は以下のとおりです。
※(往路)久安三年5月2日京都~窪津~住吉(泊)、3日住吉~日根湊~新家(泊)、4日新家~埴崎~名手(泊)、5日名手~慈尊院~高野山中院。
※(復路)久安三年5月21日高野山~名手(泊)、22日名手~新家(泊)、23日新家~日根湊~住吉~大渡(船中泊)、24日大渡~山崎(船中泊)、25日山崎~仁和寺
仁和寺領新家荘で一泊して次の日は埴崎を経由して名手で一泊。この埴崎とは「吐前王子」の吐前です(現在のJR和歌山線の「布施屋」駅付近)。(したがってルートは熊野街道です。当時、三畑越え(根来街道)はまだあったのか、無かったのかも分かりません)。吐前からは紀の川の川船に乗ったのでしょう。そして、名手からは慈尊院(九度山)を経由して高野山へという行程です。
私が何を言い忘れたのか。皆さんはお気づきでしょう。信達の「弥勒堂」が、慈尊院同様に今も残っていたら、間違いなく世界遺産に登録されていると思うのです。
(2026/3/14追加)
当ブログを読んでくれた読者から指摘(メール)がありました。皆さん結構たくさん読んでくださっていて嬉しいです。「吉記を書いたのは藤原経房の間違いでは?!」という内容です。
そうです。藤原経房、吉田経房です。同一人物です。藤原(吉田)経房は朝廷の日記を書く専門職の家に生まれました。詳しくは。こちらから。

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