2026/02/14

我らがヒーロー。根来小密茶(こみっちゃ)ここにあり!

 

(浮世絵:太平記英雄傅 根来小水茶(筆者所有の写))

 上の画像は、筆者所有の浮世絵「太平記英雄傅 根来小水茶」です。さて、みなさん泉南地方でお住まいの方で「こみっちゃ」をご存知の方はどれほどおられるでしょうか。
 まずは、「根来寺HP、根来寺ミニ知識」を御覧ください。
 また、ウィキペディアにも「コミチャ」として出ていますし、「根来小密茶」で検索すると多くのサイトで登場しているのです。


 昭和100年にもなると、地元(根来)でもほとんど語られなくなった小密茶ですが、世界的な博物学者・民俗学者である「南方熊楠」も「こみっちゃ」についての論考を書いているほど紀北や泉南では有名な存在だったのです。


 上の「根来寺ミニ知識」では、「地元では今から100年ほど前、近隣の子供たちに父母や村人がよく「こみっちゃ」の話を聞かせていた・・・・・」と紹介しています。こみっちゃはエライ坊さんで、根来焼き討ちの際に大活躍した地元の英雄です。だから紀北、根来地域には「根来小密茶」の子孫・親戚を自称する人達がたくさんいたのです。どうも「こみっちゃ」は実在の人物のようなのです。


 さて、ここまでは根来の話ですが、私は我が泉南市にも「こみっちゃ」の子孫・親戚を称する人達が大勢いることを知っています。主に信達地区の家(〇〇姓)の方が多いのですが、泉南での伝承も根来同様に今では忘れ去られようとしています。

(信達紀要)

 そこで今回は、泉南市(町)が合併で出来るまで存在した信達町(昭和16〜31年)が昭和28年に発行した「信達紀要(金田天絃編)」に掲載されている「根来寺と信達庄」(97〜99P)の記事をご紹介します。(◼️の『』内は原文のまま)
 

◼️『戦国時代。根来寺には俗に根来の小密茶と云われた豪勇無双の僧が居って本願寺と深いつながりを持っていた。境内に百余の寺坊があり、各寺にはそれぞれ屈強な僧兵が居住して其の数実に万余と云われた。その坊の一つ杉坊の法橋見加は牧野の人で、根来寺は織田信長の臣羽柴秀吉に攻め滅ぼされた際、牧野に帰って居住していた。』と、なぜか根来小密茶の話が牧野の法橋見加の話になってしまうのです。そして、

 『古書に曰く「根来山杉坊法橋見加は根来没落の後、旧里信達の牧野に住す。見加の弟左衛門、同じく牧野に住し、その子孫を左太郎と云う。左衛門に弟二人あり、一人は垂井に、一人は江戸に出て御旗本となり三百俵程賜る。その子孫を杉金蔵と云う。金蔵大阪御加番に来りし際、牧野へ尋ね来たり縁者と逢へり。」とある。「又根来合戦に有る牧野左門慶加は左衛門見加の事也。」』と。


◼️さらに、『素屋孫六 素屋孫六は根来方の一人として牧野に住んでいた。・・・(中略)・・・戦国時代から大阪方と紀州方の関所の一つとして双方から重要地視しられ、根来街道と紀州街道の分岐点である大鳥居付近には物見櫓が建てられて見張所が置かれた程である。だから根来寺の寺僧は信達庄内に幾人もの味方をもっていた事に不思議はなく・・・(中略)・・・その中の一人孫六は全身それ力と云った剛勇無双の豪士であった。・・・(中略)・・・』


 『・・・根来征伐の軍を差し向けるやこのことを聞いた孫六は、スワ一大事也と直ちに晒染(鉄分を含んで赤色を帯びた粘土とそこから湧く錆色の水で染めたもの)の鉢巻に、青竹を斬って足でしごきそのまま襷にかけ、角鋭き牝牛を引き出して其れに打ち乗り、根来街道を一目散に根来寺へ急を告げるべく駆け出した。然し、秀吉の兵は早くも納経山(お菊山)を越えて、磐回畑(つづら畑、今の葛畑)から風吹峠付近に・・・(中略)・・・獅子奮迅の勢いで戦い続け、やっと風吹峠の頂上に駆け上がり、・・・(中略)・・・悲壮な最期を遂げたのである。今尚孫六の墓は風吹峠旧道の頂上近くにあり、その子孫は大阪に居住して居る。現在の◯◯、◯◯(筆者変更)姓の中には素屋孫六の流れを吸む家が多い。』と紹介されています。

 そして、この物語を聞いた尾竹国観が書き残したとされる下の挿絵(素屋孫六)が文中に挿入されています。

素屋孫六


(2/18追加)
上の「根来寺HPの根来寺ミニ知識」中で紹介されている、「根来衆人物紹介・奥小密茶」というネット記事はこちらから。
(この記事を書いている方は誰でしょうか?、旧信達町の皆さんで子供の頃から知っている方は多いと思いますよ。)



               




 

 


 


 


 

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