2026/01/30

日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?(後編)


「日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?」は「前編」からお読みください。 

(根来寺坊院復元模型 和歌山県立博物館。「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」図録集より) 


 前編では、「契約状」の時代が、同時に経済力を持つ有力な村人(地侍)が生まれてくる時代と重なっていることを示し、熊取町の中家を例として一族の師弟を根来寺の「成真院」の僧としていたことをあげ、「根来寺は泉南地方や紀州の地侍が村のわくを越えて連携する拠点として成長し、経済力・政治力の維持・拡大をはかる一つの軍事勢力となっていったことを紹介しました。


(「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」71P下より、「根来寺伽藍復元図(14世紀)より)1300年代


(同71P上より、「根来寺伽藍復元図(16世紀)より)1500年代


◼️根来寺の武力はどのように構成されていたのか
 さて、和歌山県立博物館の図録集「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の68Pからは、『三 根来寺坊院の生活』として、

 「室町時代後期頃から、根来寺の山内には僧侶たちが暮らす坊院が増加しました。その総数は四百五十を越えていたようです。これは根来寺が地域の巨大権力となり、周辺の土豪たちが寺内に基盤を持つことで、根来寺の力を背景に権益を守ろうとしたことによるものです。この坊院での暮らしを彷彿とさせる資料が近年の発掘で続々と見出されています。・・・」と紹介しています。


 上記の伽藍復元図では、1300年代の様子と1500年代の様子が復元されていますが、下の16世紀(1500年代)のものでは、大伝法院を取り巻く平地だけでなく、根来寺の北に広がる和泉山脈の谷だにの奥深くまで、その坊院が大きく広がっている様子がうかがえるのです。根来寺に残る「根来寺伽藍古絵図」は、近世になってから描かれたものですが、描かれている内容は中世の根来寺を類推することのできるものです。


(根来寺伽藍古絵図。「根来寺文化講演会&シンポジウム「中世根来の実像を探る」の掲載資料

 以上のことは、和歌山県立博物館「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の図録集(平成十四年(二〇〇二)十月五日発行)の大河内智之先生による巻頭論考の「二 根来寺の隆盛」内(7P上段)で、


 「・・・十六世紀ではこの総数は四百五十を越えていたようである。先に見てきたように根来寺の経済基盤が安定し、地域の巨大権力になるにつれて、紀北及び泉南地域の土豪勢力が相次いで根来寺に寄りそい、自らの勢力維持のための後楯としていた。たとえば日前宮領荘官の林家に関する資料(林家文書・和歌山市立博物館蔵(33))では、根来寺院家が加地子の集積を行ったり、高利貸を行っている様子がよく分かる。
 
 荘園制の解体期にこういった盛んな経済活動を行って頭角を現した新興勢力が寄り集まったことで、根来寺総体としての性格は、かつての学問寺院ではなく、戦国的な領主へと変化していく。こういった新興勢力は根来寺では行人方と呼ばれる身分におかれ、学侶の下位におかれていたが、軍事力と経済力をもっているが故に、次第に実質的な経営を握るようになったいわゆる根来衆・根来僧兵とはこの行人たちのことであるが、彼らは基本的に修験道の行者であり、戦時には長髪で鎧・兜を身につけていたのであって、一般に喧伝される頭巾をかぶった黒衣のイメージは誤ったものである。」と説明してくださっています。「根来寺の武力は如何に構成されていたのか?」その答えがこれなのです。

(参考)
 ※以前に当ブログで書いた「閼伽井坊少納言」も参考として御覧ください。


◼️根来寺の所領(勢力範囲)


「根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」図録集45P参考ー3 「根来寺領荘園の推移」より。【凡例】として、🟢当初からの根来寺領、 🔵元弘の勅裁によって失われた寺領、🔴南北朝期以降、増加した所領」


 上図の解説が、153Pに載っています。「参考ー3根来寺領荘園の推移  根来寺の所領は、大伝法院・密厳院に付属する荘園として、その成立の当初から立券されていた・・・・・の諸荘園と、南北朝期以降、大般若経の四季転読料として寄進された信達荘(現泉南市)や、加地子名主識(かじしみょうしゅしき)の集積によって地主的な支配を強めていった諸荘園とに大別される。・・・・後者の荘園への進出は時期的にそうした荘園の喪失(元弘の勅裁によって失われた荘園、筆者)と入れ替わりに、根来寺が獲得した新所領であった。ただし、こうした所領は耕地片からあがる加地子米を取得する権限を集積したもので、年貢・公事を賦課しうる荘園領主としての権限を持ち得ていたわけではない。しかし、根来寺が豊かな経済力を背景に泉南地域に進出していったことは、この地域の政治情勢にも大きな影響を与えた。」と説明してくれています。


 ※ここで面白いHPをご紹介します。中世も時代が進み後期になればなるほど、生産力も上がってきて、「荘園領主の年貢」よりも、加地子名主識の集積」の方が大きくなってくる例もあるのです。


 地図で分かりにくかったらいけませんので、和泉南部の「🔴南北朝期以降、増加した所領」を明示しておきます。北から🔴近木荘(貝塚)、🔴麻生荘(貝塚)、🔴鶴原荘(泉佐野)、🔴熊取荘(熊取)、🔴日根荘(泉佐野)、🔴佐野荘泉佐野)、🔴長滝荘(泉佐野)、🔴吉見荘(田尻)、🔴信達荘(泉南)、🔴箱作荘(阪南)、🔴深日荘(岬)

 康正三年(1457)六月廿六日に、和泉国日根郡の九人の武士が一味する契約を結んだ和泉国日根郡国人等契約状」にでてくる九人の武士達の根拠地、勢力範囲と思われる地域の多くは根来寺が獲得した新所領になっています。


 もちろん上記の和泉南部の荘園が、根来寺新所領になっていった時期は、「契約状」を結んだ時期よりも下ることが多かったのではないかとは思いますが、それぞれの地域の内部では、それ以前から頭角を現してきた新興勢力が、根来寺という強力な結集軸を持つなかで、それまでの守旧勢力(守護被官や国人)に対峙する勢力として成長してきた時期と重なると思えるのです。

 「契約状」を結んだ年代と、史料に残る和泉南部への浸出の時期の単純比較ではなく、和泉南部荘園内の村々における新興勢力の台頭こそ着眼しなければならない点だとおもいます。前編で紹介した略年表を見てください。

1417 日根荘で百姓請が実現
1428 【正長の土一揆おこる】
1429 日根野村・入山田村が九条家の支配となる。が、部分的に押領される
1446 十二谷池の分水・管理につき日根野・井原・檀婆羅密寺村が契約
1457 日根野加賀守秀盛ら九人衆、一揆契約を結ぶ

 百姓請の実現や正長の土一揆、村々による十二谷池の分水・管理契約など、「惣村」の成長こそが、村々における新興勢力の台頭につながっているのであり、これらの拠り所、結集軸が根来寺だったのではないでしょうか。


◼️「知の拠点」としての根来寺
 そしてそれは、単なる軍事力、経済力という点だけでなく、宗教勢力としてのイデオロギーや学問、技術、文化といった様々なことが紀北・泉南地域に大きく浸透してきた時期だと思うのです。中世の寺社、とりわけ僧侶の活動は多岐にわたり、社会基盤の構築に不可欠な存在でした。

○土木・建築技術
 寺院や神社の造営・修復には高度な建築技術が必要でした。僧侶(「大工」と呼ばれる役職)は、木造建築の構造設計、資材調達、現場監督といった役割を担っていました。また、大規模な土木工事にも関わりました。
・治水事業:洪水対策のための堤防建設や、灌漑用水路の整備
・架橋技術:橋の建設、維持管理
・港湾整備:交通の要衝となる港の整備

○知識と教育
 中世では文字の読み書きができる者が限られており、僧侶は貴重な知識人でした。大陸から伝わった最新の学問、天文学、数学、医学などの知識は、寺院を通じて流入し蓄積されました。建築や土木工事の計算、暦の作成などに不可欠でした。

○金属加工・鋳造技術
 仏像や梵鐘の鋳造には、高度な金属精錬・加工技術が必要でした。これらの技術職人集団と寺院は密接に結びついていました。

○社会経済活動
 僧侶は「勧進」と呼ばれる手法で広く寄付を集め、橋や寺院などの公共事業の資金を調達する能力も持っていました。

 以上のように、中世の寺院は単なる信仰の場ではなく、当時の最先端技術と知識が集まる「知の拠点」であり、彼らの活動が社会基盤や文化を築くうえで大きな役割を担ったといえるのです。
 私は、少し時代は下りますが、鉄砲の伝来が根来寺からということは、その象徴的な出来事だと思っています。「契約状」を結んだ九人の武士達にとって、根来寺は様々な意味で恐怖と魅力の新興勢力であったに違いありません。
(おわり)


 


 















 





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