泉南歴史豆知識 1
根来赤井坊少納言
戦国時代の根来寺
戦国時代の根来寺には、多くの坊院、坊舎がありましたが、真義真言宗の修行場・学問所である学侶(寺に所属する僧侶)の坊院と、周辺の土豪、地侍、惣村の有力者などが寄進して寺内に建立した行人方坊院の2種類の坊舎がありました。
元々、行人方坊舎は学侶を世話する寺男等の詰め所という建前だったらしいですが、戦国期の行人方坊舎の実態は本来の行人の定義から外れて、周辺土豪の一族子弟が門主(住持、坊院主)となり、一族郎党等を集めて寺内に惣分(惣の軍隊)を形成して力を蓄えたといわれています。
いわゆる「根来衆」と呼ばれる根来寺戦闘集団は、根来寺に数百もあったといわれる行人方坊院の惣分のことなのです。
熊取町の中家は一族の子弟を根来寺の「成真院」の僧としますが、戦国時代は「根来大納言坊」を名乗り、根来寺敗北からは家康に仕えて関ケ原、大坂陣に参戦して和泉国(天領)代官となり、江戸時代は所謂「根来同心」を統括した旗本根来家3450石(滋賀県近江八幡市安土町東老蘇に陣屋跡あり)として幕末までつづきました。
根来閼伽井坊少納言
閼伽井坊(赤井坊)も行人方坊院の一つで、戦国時代初期からいろいろな文献にその名が登場します。例えば日根野荘では1504年に九条政基が帰京する際には代官職となっています。秀吉の根来攻めから江戸初期の頃(中世末~近世初め)の話は石橋直之の「泉州志」(1700年)の記述で有名です。また、熊取の中盛彬の「かりそめのひとりごと」でも馬場村の子孫のことが記述されており、子孫の方々は現在も馬場にお住まいになっています。



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