泉南歴史トピックス2―⑬
鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎
最後に、高城の読みは? 二つの可能性
やはり最後に、この究極の謎問題に触れないわけにはいかないと思います。私が今のところ一番の「読みの比定」候補と考えているのは、以上のように「高城神社」の社名が登場してきたと思われる経過から考えて、本シリーズ2-③でも記したように、高城神社の主祀神が神武天皇の兄である彦五瀬命であり、彦五瀬命の「雄たけび」が地名(雄信達)由来となっていることを考えれば、同じく神武東征伝承に登場する「菟田の高城(たかぎ)」から、「たかぎのみや」と呼ばれたと比定したいと思っています。
しかし、その後重要な点に気づいたのです。それは、貝塚市に「高城」(たかじょう)が存在したという事実です。「日本城郭全集9」(人物往来社1967)には「高城(たかじょう)、貝塚市三ツ松。三ツ松に古城跡がある、天文から天正(1532~1591)の頃、紀州根来寺の衆徒が築いて拠った城砦という。」とあります。泉南市馬場は、泉州の郷土史家に広く知られる「紀州根来、閼伽井坊(あかいぼう)少納言」の本貫地なのです。そして、高城神社は馬場の「殿垣外」(殿の屋敷に繋がった土地)に存在し、そしてそこに今も関係者の方もお住まいになっています(分家とのことです)。また、先に紹介した馬場の字名地図には「殿垣内」を囲むように、点々と「城ノ前」という字がいくつも存在しています。江戸時代初期に赤井坊少納言とともに馬場に帰農した人たちの過去のレガシーによって、この名が復活してきた可能性も否定できないのです。
貝塚市教育委員会でも「高城」(たかじょう)の詳しいことは分かっていませんので、読者からの関係情報をお願いする次第です。そして、貝塚市の高城(たかじょう)と根来閼伽井坊少納言の関係がもう少し具体的になれば、私の読みの比定を「たかじょうのみや」と訂正する可能性を保留して、本シリーズを終了いたします。
(下の画像は、中盛彬の「かりそめのひとりごと」の「信達庄馬場村の辻右衛門」と石橋直之の「泉州志」の紹介。)(※資料として切り貼りした、泉州志、石橋直之の出身地が間違っています。正しくは「下出(しもいで)の文人」です。)
(このシリーズは2-①からお読みください。)(おわり)

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