2024/10/24

清左のいいはなし 3 東叡山寛永寺二世公海とは誰か 


清左のいいはなし 3 

東叡山寛永寺二世公海とはだれか

 冒頭の画像は、まぼろしの海岸寺寺宝の一つ「公海上人坐像」。

桜で有名な現在の東京上野「寛永寺」は、寛永二年(1625)天海大僧正により創立され、家康はじめ歴代将軍の帰依をうけて徳川家安泰と万民平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された天台宗の寺院である。

貝塚市半田の海岸寺山にあった「海岸寺」は、岸和田藩主岡部家初代宣勝が第三代将軍徳川家光をとむらうために建立した寺院で、東叡山寛永寺の末寺であり、江戸時代の樽井南泉寺は海岸寺の末寺だったのです。寛永寺二世公海は海岸寺の造営に尽力されたのです。

実は貝塚の「ぼっかんさん」、願泉寺四代了周以降、歴代住職は東叡山寛永寺で得度剃髪を受けています。そして寛永寺の二世公海(日光山ほか天台宗一宗を菅領)から「真教院」の院号と「金涼山」の山号を下賜されています。願泉寺は本願寺東西分派以降も両本願寺と本末関係を保ち、昭和の戦後まで両派に属すという、真宗寺院でも極めて特殊な歴史を有しますが、その願泉寺がなぜ天台宗の東叡山寛永寺の「御支配」寺院に位置付けられていたのでしょうか。   

それはこの「公海大僧正」こそ、願泉寺初代卜半斉と同じく、新川家出身の女で、生涯にわたって本願寺教如の寵愛を受けた「おふく」(教寿院如祐)の外孫、幼名「熊丸」(花山院忠長に嫁いだ教如とおふくの娘の子)であることは、泉南市民歴史倶楽部の貝塚寺内の例会に参加された方は覚えておられるにちがいありません。

各地の史跡をめぐり、その歴史を深堀りしていくと、意外なところで歴史と歴史が繋がっていきます。これも史跡探訪の楽しみの一つなのです。







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