2024/10/01

泉南歴史トピックス2ー⑫ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2―⑫

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

明治維新による宗教政策、神社政策

 

明治維新後、全国の神社は国家管理のもとにおかれ、社名や祭神が変更された例は全国各地で広範にあります。記紀神話や延喜式等によって権威付けられた神々に信仰対象を転換する作業も広範に行われたのです。個別に史料で確認できた内容ではありませんが、馬場の産土社も祭神の中心に「彦五瀬命」をすえて「高城神社」という社名となり村社として位置づけられたのだと思われます。その後、神社政策の変更で整理統合化が進み、明治41年には信達神社に合祀されてしまいました。わずか340年足らずの社名が一般の地元民にはあまり定着しないまま合祀となり、その後の時代の村民にも十分継承されなかったのではないかと思われます。

岡中の「意賀美神社」という神社名もこれと同様に、村の人々には全く定着していなかったと思われます。少なくとも私は「雨山の神さん」(一般村民にはこう呼ばれていた。)のことは聞いていますが、神社名が「意賀美神社」とは祖父母、父母、本家の叔父叔母等から聞いたこともないし、村の古老たちからも聞いたことはありません。むしろ江戸時代からの言い伝えで、雨乞い神事の時に岸和田藩の役人が馬を繋いだ「馬つなぎの三本松」の伝承の方が有名です。私がたまたま歴史、民俗好きで、雨、水の神様は龍神で「高龗」(タカオカミ)、よくある神社名が「意賀美神社」という知識があるから違和感がないだけで、村の人たちは「雨山の神さん」と思っているのと同じことだろうと思うのです。一方、泉佐野市上之郷の「意賀美神社」も江戸時代は全く別名でしたが、明治以降ずっと続いているため、今では有名な神社になっています。

(なお、余談ですが「雨山の神さん」は合祀後の今でも岡中、幡代、山中新家、自然田等の付近村民に崇敬されており、山中新家が近年新調した「やぐら」には「雨山の雨乞い神事」がきっちり彫り込まれています。)

(上の画像は、絵を描き始めたころの練習のスケッチ。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


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