泉南歴史豆知識 2
岸和田藩七人庄屋
岸和田藩の郷中支配
松井(松平)氏時代 代官庄屋制(1619(元和5)~1640(寛永17)年)
まだまだ中世の色合いを残す近世初期でしたので、「八人之代官庄屋」が置かれました。(それぞれが、大きな権益をもっていた村々を管轄したようです。)
瓦屋村 新川三郎衛門
代官庄屋 岸和田村 久左衛門(岸)
土生村 荘左衛門(小門)
脇浜村 久左衛門(佐々木)
筆頭庄屋 佐野村 十郎太夫(藤田)、 久左衛門(吉田)
岡部氏の支配 七人庄屋制
入部した1640(寛文17)年の高札に掲げられた「定」には、「8人の代官庄屋制度は今年限りで廃止する」と記されていますが、本当は何時からかは疑わしいのですが、これにかわって採用されたのが「七人庄屋」制です。一般の庄屋は村から藩に願い出て許可される手順になっていましたが、七人庄屋は「御上」から仰せつけられる存在で、世襲による任命でした。
熊取村 中左近、 中(降井)左太夫
佐野村 藤田十郎太夫、 吉田久左衛門
岸和田村 岸六右衛門
樽井村 脇田右馬太郎
畠中村 要源太夫※ (※1789年までは市場村 小川信左エ門)
岸和田市史等、各市市史はここまでの記述になっているのですが、貝塚市が発行している「かいづか文化財だより「テンプス」40号」では、上記6家の次に信達市場村小川信左エ門を掲げ、1789(寛政元)年からこれに代わって畠中村要源太夫となったことを紹介しています。
さらに、七人庄屋に準じるものとして、江戸時代後期に4名の「七人格」が設けられ、藩内に重大な問題が生じたときには協議に参加し、七人衆の補佐・代役として郷会所への参加を求められました。信達市場村の角谷彦兵衛もその一人であったとされています。



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