清左の歴史深掘り 1
樽井の浜街道にある道標
「根来街道道標」なのか?
泉南市樽井2313番地先(現在の樽井5丁目32番)にある、所謂「根来街道道標」なるものは本当に浜街道と根来街道の分岐道標なのか?。私は、30年以上前からこのことに疑問を抱いていた。
この道標を初めて知ったのは市図書館で、泉南市教育委員会による平成2年3月発行『泉南市の石造物』をみて、現地を見学して以来である。この本自体には「根来街道道標」という表示や説明はなく、私の郷土史研究でお世話になっているとてもよい本である。問題は、本にも書かれているし現地でも判読できる
正面「すぐ大川かた 左紀州いセきごゑ」
左面「右大坂」
裏面「天保十巳亥年十月吉日」
という表示から、それの意味するところ、つまり根来街道の分岐案内表示であるということが理解できないのである。市は「根来街道の道標」としてパンフやリーフ、HPで案内しているがこれらを作成している人は本当に納得しているのだろうか。
まず、①岡田側から来た人が見て、正面記載の『すぐ大川かた』を「すぐに大川峠・加太方面」と理解しても「すぐ大川(男里川)の方」と理解しても、道自体が和歌山方面に向かっているので矛盾はない。
次に②『左紀州いセきごゑ』であるが、問題はこれである。通常、浜街道から井関越街道への分岐は、現在の南海尾崎駅、難波側踏切を海側に下って浪速酒造の横の道を海側に下った浜街道交差が起点である。それが何故、岡田側から来た人に「左へ曲がったら井関越えですよ」と案内しているのだろうか?。道標を建てた人の推奨なのか?。(もしそうなら御上は許すのだろうか)
次に、③右面に書かれた「すぐ大坂」であるが、この右面を見るのは、当時の埋め立て前の海岸(樽井漁港側)から来た人である。この人が急坂を上って少し左に曲がるが、これは三畑越え(根来街道)であり、国市場で信長街道を左に行ったり、大鳥居で紀州街道を左に行けば確かに大坂に行ける。
さらに、④左面の「右大坂」を見るのは逆に三畑越えから降りてきた人で、確かに右に曲がれば浜街道で岡田(大坂)方面である。現在は当該起点に至る(和歌山側)崖下の車道ができて複雑になってしまっているが、江戸時代は家も少なくもっとシンプルであっただろう。しかし、問題は②である。何故『左紀州いセきごゑ』なのだろうか?。長年疑問だったことが、今回の深掘り調査で判明し納得できた。腑に落ちたのである。それは・・・・・。
浜街道(孝子越街道)は新旧2本あった
少なくとも明治時代中期以降は、通常私たちが「浜街道」と考えている道が浜街道であり、泉南記要(明治42年版)で根来街道起点とされているのは、当該道標地点である。しかし何時頃までだったのかは判然としないが、これより古い江戸時代の浜街道が存在し、通常この古い方の道が「いわゆる浜街道」だったのである。それは、掲げている地図でマーキングしているように、岡田の陸側を通り、座頭池の海側を通って樽井に至っては根来街道と交差して南泉寺横から道祖神を経て男里に至り、男里川を渡って下出に至る道が古い「浜街道」なのである。(男里川を渡るのはこちらが容易かったのだろう。)
「根来街道道標」は、三畑越え(根来街道)を教えるというよりも、「樽井」から「男里」を経由して「下出」にいたる、江戸時代浜街道・井関越街道ルートを教える道標だったのである。そのように考えれば、③右面に書かれた「すぐ大坂」の表示も、国市場や大鳥居まで行かなくても南泉寺横の「いわゆる浜街道」との交差点を左に曲がれば「すぐ」に大坂(岡田、陸)方面にルートをとれるのである
道標建立当時の浜街道は?
道標が建てられたのは裏面にあるように「天保十巳亥年十月吉日」(1839)年であり、実はこの前年(天保9(1838)年)には幕命により全国規模で作成された、天保国絵図が完成しており、その一部である「和泉国絵図」には明確に古い方の「いわゆる浜街道」が記されている。
国立公文書館デジタルアーカイブ「天保国絵図-和泉国絵図」はこちらから。(拡大できます。)天保 和泉国絵図
建立当時の当該道は「いわゆる浜街道」よりもっと浜に近い生活新道だったのである。その意味において、当該道標を歴史的に正しく位置づけるならば「浜街道・井関越街道に至るための(後世に浜街道となる道上の)村中道標」というのが正しいのではないだろうか。明治になってから当該道が浜街道になり、あくまで結果として三畑越えを示す「根来街道道標」になってしまったのである。(天保和泉国絵図では三畑越えは紀州(熊野)街道の「大鳥居」が起点になっていることからも、当該道標の役割が分かるのです。)
最後に
実はこの「井関越街道」は、「樽井町」や「阪南町」にとっては、幕末の歴史を揺るがす大事件の舞台となった道なのだ。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い(慶応4(1868)年)で敗れた会津・桑名を中心とする幕軍敗残兵は、大坂を経て泉州から紀州徳川家に逃れるために、大挙して雄山越えや井関越えに向かったのである。「樽井町誌」や阪南町「町史こぼれ話」にはその時のリアルな史実が詳しく記されている。脇田家に来た桑名の武士たちも、この「道標」を見て井関越えに向かったのだろうか。
※追記(2024/11/4)
以上、考えていくと①正面記載の『すぐ大川かた』は「すぐ大川(男里川)の方」と理解する方が妥当と思われる。「大川峠・加太」だったら、「すぐ」とは表現しないだろうし、「(左)いわゆる浜街道」ルートを案内したと思われるからである。これらを考えるポイントは「新浜街道」における、男里川渡河の問題を歴史軸(時間軸)で見ていく中で解決していくと思われるのである。


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