2024/09/30

泉南歴史トピックス2ー⑪ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2―⑪

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

「高城神社」がなぜ地元民に定着し、認識されていなかったのか

 

これを考えるためにはいい資料があります。泉南歴史トピックス1-③でも紹介した「和泉国寺社覚」(天保十四癸卯年)です。天保14年(1843)、江戸時代末期ですが、これに搭載されている神社(当時そのような呼称は無かった、いわゆる社(やしろ))は、中村(岡中村)では法然寺鎮守と思われる「天照大神社」、林昌寺の「愛宕山権現社」、雨山の「雨明神」、それと「王子庭、瓦小社」であり、馬場村では安養寺末社と思われる「三宝荒神社」、「住吉明神社」、「小社」と、あえて言えば「国市場除地平地」(金熊権現祭礼の国市座が行われた場所のこと)でしかありません。(中村法然寺も馬場村安養寺も近世初期に断絶した寺で、この件はまた別機会にふれることとします。)

つまり、江戸時代の末でも、馬場の「高城神社」という神社名は無かったのであり、同じく中村でも「意賀美神社」という神社名は無かったのです。それぞれの基になる社はあったのでしょうが、これらは明治維新後に新政府の宗教政策、神社政策によって名称がつけられた神社であると考えられるのです。これには「泉南市史」の「寺と社」に関する記述(450454頁)が参考になるので、ぜひ一度ご覧いただきたいと思います。

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 

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