泉南歴史トピックス2-⑨
鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎
その後の経過 (2)
その後も歴史好きの私は、泉南市民歴史倶楽部での活動をはじめとして、歴史関係の取組みを中心に忙しい日々を過ごしていました。「高城の宮」のことは何時も頭の片隅にあったのですが、錯誤問題も役所は放置したままで、「高城」の読みの問題も進展はなく、さらに約4年の日々が経過してしまっていたのです。
しかし、事態は意外な展開をみせました。令和4年10月の祭礼が行われている日、鎮守社のある老人集会所(祭りの詰め所)に居た知り合いから電話があって、私にすぐ来てくれというのです。先輩のY氏が私に詰め所に来てもらえと言っているとのこと。すぐにとんでいくと、Mさんという女性の方が馬場の「やぐら」について信達神社まで行った帰りに、岡中神明神社に立ち寄り説明板を見て老人集会所に来たというのです。私は全く初対面でしたが、話を聞きだしてすぐに「馬場産土社の元宮司家のMさん」の関係者だと分かりました。ご本人は平成28年9月に私が現地聴き取り調査を行ったM氏の娘さんでした。お父様は2年前に亡くなられたとのこと。
私はそれを聞き、M氏ご存命のうちに「説明板」問題を解決できなかったことを詫びましたが、私とMさんの当時のやり取りを具体的にはよくご存じない様子でした。調査結果やその後の経過を簡単にお話して、馬場のご自宅まで車でお送りした事をおぼえています。
その後、Mさんの娘さんは市教委に対して直接働きかけられ、本件問題の調査と善処方を促したことにより急に市教委は動き出しました。そして、「高城の宮といわれた」という説明板での情報発信を保留するどころか、岡中地区に「高城の宮」という表示を「天照大神宮社」に書き換えてくれるよう依頼し、翌年春(R5/春)には表示は書き換えられました。(別シリーズである、泉南歴史トピックス1-③でも示した、「元禄四年未二月十八日寺社御改帳控」に現岡中鎮守社のことも載っており、「天照大神宮社」と記載されているからだろうと思われます。)
(冒頭の画像は「葛城古道」で、数年前の市の展覧会で発表させていただきました。)
(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)
。

0 件のコメント:
コメントを投稿