泉南歴史トピックス2―⑩
鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎
本件問題が残したもの、そして高城の宮の謎は?
令和6年の秋、今なぜこの問題を話題として、私のブログで発信しようとするのか、それには二つの理由があります。
私が平成28年に資料としてまとめた文書に「今後の対応案」や「今後への教訓」として書いた諸点が本質的には進展、解決していないと思うからです。やむを得ないことではありますが、いまでも検索すれば旅行社のHPなどに出てきますし、図書館にある案内人の会の冊子(加除式)では今も「岡中鎮守の杜に「高城の宮」があった」となったままです(R6/8月現在)。市教委としては表示を訂正したことの発表すらしていないのですから当然のことでしょう。大事なのは同様の事態を引き起こさない様にする努力とその仕組みづくりです。
それと全く次元が異なる話ですが、私なりの研究の到達点を示しておきたいという思いからです。文献史料からは明確に「高城神社」となっている馬場産土社が、実地調査時に地元の元宮司家子孫のMさんをはじめ他の人達からも、「村の宮さん」「遥拝所」と呼ばれていたとしか聞けなかったのはなぜなのか。もっと踏み込んで言うと、当時の一般的な馬場の方達が「高城神社」という社名をどれほど認識していたのかという問題です。次でこのことを考えてみたいと思います。
(冒頭の絵は、筆者が5年くらい前の市の展覧会で発表したもの)
(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

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