2024/09/18

泉南歴史トピックス2ー③ 「高城の宮」の謎


 

泉南歴史トピックス2-③

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―連想される仮定―

今から思えば考え過ぎなのですが、私なりに「高城の宮」のことについて、いくつかの仮説を立てて考えてみました。その一つ目は、雨山の「意賀美神社」との関連での錯誤・ 混同の可能性です。前記2-①のとおり共に明治四十三年に信達神社に合祀され、その後、大楠の根元に戻っているのですが、祀神の「タカオガミ」の「オガミ」という漢字は極めて難しく、一般人ではなかなか読めないことから、何らかの原因で「タカギ」に変化してしまった可能性です。

また、二つ目は、当地区の林昌寺行基創建伝承に「西南に行基、小社を営み伽藍の外護となしたると伝う。」とあり、寺の外護としての雨山の「高い城」(タカシロ)と観念された可能性があるかもしれないというものです。(なお、雨山とは泉南・阪南市境の阪和道雨山トンネルのある山で、有名な熊野街道「琵琶崖」の頂のこと)

さらに三つ目は、意賀美神社との関係ではないのですが、記紀の神武東征伝承に「菟田の高城に鴫罠張る わが待や 鴫は障らず・・・・」と日本最古の城といわれる「菟田の高城」(タカギ)が登場するのですが、泉南もまた神武東征伝承の地であることから「高城の宮」と呼ばれたかもしれないというものです。

そんな中、私の義兄(姉の婿)が金熊寺地区の寺役や宮役をしていたことから、信達神社の宮司さんを紹介いただき、義兄とともに以前合祀されていた岡中神明神社が、「古くは高城の宮と言われた」という故事について教えていただく機会をもったのです。当時の宮司さん(先代)は、お父様(先々代)が急に亡くなり、神社の事の引継ぎを全くしてもらえなかったため「全く知らない」ということでした。そこで、市の教育委員会に直接指導を仰ぐのが一番だと思い、文書による照会を行いました。

市教委からは、非常に丁寧に正式の文書(平成2884日、泉南教委生第219号)で回答をいただきました。その回答文書では、元々の説明板は市(教育委員会社会教育課)により平成二年に作られ表示されたが、今のものはそれが古くなって平成二十三年に岡中区が作り直したもので、記載されている内容の根拠については、関係文書が残っていないために判明せず、これについては今後も調査していきたいというものでした。

一方「高城の宮といわれた」と初めて表示された、平成2年当時の村役員は皆さん亡くなられており、調査はこの時点で暗礁に乗り上げてしまいました。

(冒頭の画像は、市教委からの回答文書に添付されていた平成2年の表示板。)

(以上のとおり「高城の宮と言われた」という表示は、今から約35年も前に市が表示したものであり、古くなった表示板を更新した平成23年当時の関係者には、関わりが無いことを先におことわりしておきます。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 

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