2024/09/23

泉南歴史トピックス2ー⑤ 高城の宮の謎

 

泉南歴史トピックス2-⑤

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―小字地図による所在地の特定と実地調査-

  泉南市の郷土史研究は、多くの民間人の先学達によるすばらしい蓄積があります。私が最も驚くのは、小字を網羅した小字地図資料が存在することです。それを見ると馬場の高城神社があった「殿垣外(とのかいと)」が現在のどこなのかをほぼ正確に特定することができます。また、殿垣内の東側に「宮ノ前」、北側に「宮ノ下」、南側に「宮ノ上」という字名もみえます。小字の特定に基づき、現在の住宅地図に置き換えてその範囲を特定することもでき、結果として現在の「馬場老人集会所」の付近一帯のかなり広い範囲が「字殿垣外」に該当することが判明したのです。

平成289月の天気の良い日に、大字馬場、字殿垣内付近の実地調査と現地聴き取り調査を実施しました。

―現地聴き取り調査の概要-

  元、馬場産土社宮司の子孫、M氏婦人への聴き取り(後刻ご主人も同席)

・「この辺一帯は、「殿垣外」で、自宅の前は道を挟んで「宮の前」。昔この辺一帯は村の宮さんがあったところ。宮さんは土塀で囲まれており、鬱蒼とした森だった。」

・「当家の先祖はその社の宮司だった。今は社地の面影はないが、自分の祖母は神社関係の付き合いから、長滝「蟻通神社」から嫁いで来た人である。」

・「古文書もたくさんあったが、蔵を潰す際にみな処分した。屋敷内には大きな鳥居の石が残っていたが、家を新築する際に業者に引き取ってもらった。」

・屋敷内の家の左右と奥は畑であり、道から見て右側の畑の中に楠の大木がある。

「以前は3倍の大きさがあったが、危ないので幹も枝も切ってもらった。しかしまた切り口から枝が伸びて大きくなってくる。昔は、樽井、馬場、岡中の三大楠といわれ、もっと大木だった。」

・ご主人と奥さんに神社の昔の呼び名を聞いたが「村の宮さん」とのこと。文献により馬場の当地にあった神社が「高城神社」であったことを伝え、「高城」の読みを聴くも判明せず。

・同社の祠跡が近くにあるとのことでご案内いただいた。

 (M氏宅から祠跡が家のガレージ裏にあるK氏宅までは約百㍍近く離れている。)

  馬場の信達神社氏子総代K氏の婦人に聴き取り(後刻ご主人も同席)

・「この辺一帯は土塀に囲まれた元々宮地だった。老人集会所やこの前の道も昔はなく宮地の中だった。一帯は林と竹藪が輻輳したこんもりとした森で、今でも楠は何とか残っている。他の種類の木もたくさんあったが、昔にみな切ってしまったと聞いている。今は全て住宅が建っている。」

・K氏邸の右側に氏のガレージがあり、横の家との間に狭い通り道がある。そこを通ってガレージの裏手に入ると、旧の村社の灯篭や玉垣が今もあり、少し高くなっている石段の上に祠の場所だった跡も残っていた。(K氏が土地を買う際に、祠跡は残したらしい)

・K氏は現在(平成28年当時)、馬場地区の信達神社氏子総代を務めておられ、「岡中や幡代は戦後、村に分祀したが馬場は戻しておらず、馬場の「やぐら」は今でも毎年、金熊寺に宮上がりしている。」とのこと。

・K氏と奥さんに、神社の昔の呼び名を聴くも、「村の宮さん」で合祀後は「遥拝所」とも呼ばれていたとのこと。なお、当地にあった神社が文献では「高城神社」であったことを伝え、「高城」の読みを聴くも判明せず。

  K氏夫人の友人(ご婦人)

・合祀後、金熊寺の信達神社が遠いので、約五十年位前までは、ここに宮参りをした子供もいたと聞いている。呼び名は「村の宮さん」「遥拝所」と。「高城」の読みを聴くも分からないとのこと。

という結果でした。

(このシリーズは2ー①からお読みください。)(つづく)

 


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