清左の論座 2
歴史語り部とは何か
―観光ガイド、案内人、語り部、発信する側の自覚とは―
泉南歴史トピックスの1-⑤で、王子社比定についての市民の意見に対する案内人の対応の問題を取り上げた。『「それは市に言ってください・・・」と返答したというのだ。私はそれを聞いてがっかりした。』と書いた。今回は「人が歴史を語るということの意味」の問題を掘り下げたい。その意味で「清左の論座」の話題とした。
人が「歴史を語る」とはどうゆうことだろうか、歴史とは過去の事実の積み重ねではあるが、タイムマシンのようなものが無ければ、自分の目や耳で直接確認することはできない。時を遡れないかぎり「(絶対的な)真実」は分からない。しかし、そのことを前提として、語る側は調査や研鑽によって自ら「(相対的にだが)本当のこと」と考え信じることを、自らの良心と責任において聴く側に語るのではないだろうか。
その意味では、「ガイド」「案内人」「語り部」といわれるような所謂素人も、学芸員や大学教員といわれるような専門家の方も、レベルの違いこそあれ「(絶対的に)正しい歴史」を常に発信できるわけではないということだ。戦後の自由な研究によって、従来からの「歴史事実」なるものが多く覆ってきているのは周知のことである。
何年も前にある団体で「土丸・雨山城」に登ったときに、あるガイドさんが「橋本正高(督)」(はしもとまさたか)の事績によせて、「一度は北朝側に寝返って、また南朝側に戻った」と説明されたのだ。私は『よく勉強されているな。勇気がある方だな。』と思ったが、怪訝な顔をしている人や何か言いたげな人も多くいたのだった。なぜなら橋本正高は明治以降の皇国史観によって「(和泉)橋本」の地名由来のとおり、貝塚・泉佐野では忠義の英雄で、土丸・雨山城を語る際の中心人物だからである。実はそのころ泉佐野市は、懸命に「新修 泉佐野市史」各巻をつくりあげる努力をしており、新しい市史では「史料実証主義」に基づく歴史記述を進め、先の事実も史料に裏付けされた「新しい歴史」であるからだ。そのガイドの方はいち早く新市史を勉強されていたにちがいない。
私が、「がっかりした」と書いたのは、説明の内容についてではなく、自分の責任において語らない姿勢についてである。意見の対立していることに対して、真剣に調査、研究する中で自分なりの考えも見えてくると思うのだ。観光ガイド等の活動に生きがいを見つけて参加することはすばらしいことである。だからこそ、私も含めて日頃の研鑽はなにより重要であることを肝に命じたいものである。
(上の画像は、筆者が8~9年前に市の展覧会で発表したもの)

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