2026/01/01

「童子畑」はワンダーランド(不思議の国)


        


(根来寺伽藍古絵図)

  往時南山の荒尾山に祇園天王の坊舎あり、荒尾谷天王と称して衆人崇拝せり。南山と言えるは、南方紀伊国岩戸の六角堂より、北は樫井川を限り、東は江川神通谷嵐山を限り、西は瀬口・二軒屋を限れる間の総称にして、荒尾谷とは其の山間なる今の東信達村 大字童子畑是れなり。(大正十一年、井上正雄大阪府全誌第五巻」大字新家種河神社の説明)



      (根来寺伽藍古絵図の拡大図、北方に「金剛童子社」)

 一ヶ月前(2025/11/30(日))に三度目の正直が成って、泉南市民歴史倶楽部の史跡探訪「根来街道の村々を巡る(童子畑・金熊寺・六尾) ―ここにある故郷を知ろう泉南市東地区―」が実施されました。


 今回の投稿では、この例会を機に私自身あまり詳しくは知らなかった「童子畑地区」の魅力について紹介したいと思います。


 まず、童子畑という地名の由来ですが、今回の例会までは根拠無しに「金剛童子」(金剛童子とは。こちら)からきているものとばかり考えていました。上に掲げた「根来寺伽藍古絵図」は岩出市の根来寺に残るものですが、約20年前に行われた根来寺文化講演会&シンポジウム「中世根来の実像を探る」のときの資料に掲載されていたものです。


 またこの古絵図は、平成14年に開かれた和歌山県立博物館の「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の図録集(155P)の中で解説されており、「本図には、根来寺が戦国時代の争乱で荒廃する以前の伽藍の様子が描かれていると考えられる。大伝法院や密厳院、円明寺などの中心となる伽藍のほか多くの子院が描かれ、その繁栄の様子が偲ばれる。」

 「実際の製作は覚鑁像を安置する堂舎の拝殿を「興教大師拝殿」と呼称していることから、覚鑁に大師号が贈られた元禄三年(1690)以降であることは確実であるが、描かれている内容は何らかの確実な情報を元にしていることは疑いない。中世の根来寺を類推することのできる唯一の絵画資料として貴重である。」とされています。


 私としてはこの「古絵図」の北の方(根来寺領の信達荘では?)に描かれている「金剛童子社」が近世童子畑と何らかの関係がある地名由来ではないかと考えていたのです。
(つづく)


(1/2追加)
 さて、童子畑の地区の方々が今も大切にしている「地名由来」については、後ほど説明することにして、秀吉の天正13年の紀州攻め(詳しい情勢はここから。見ておいてください)によって、古絵図」にしめされた根来寺テリトリー(南山)は、徹底的に破壊されてしまいました。
 

 投稿の最初に引用した「南山」や「荒尾谷」の説明のくだりは、大正十一年、井上正雄による「大阪府全誌」の第五巻、第二十六項新家村、大字新家「種河神社」についての説明の一部ですが、そのあとの説明をみますと  


 童子畑是れなり。天文十四年春当地に痘瘡流行し、病勢猖蕨なりしを以て祈祷したるに、護礼の効験著かりしかば、衆庶の崇敬益厚かりしも、天正年間の騒乱に際して兵火の為め社房消失せり。依て其の別當職たる坂口實蔵院の前主自信は、当地の山下・樫木の森付近に仮社殿を営みて移し奉ると共に、住民の避難地にも分霊せり。住民の避難せし所は今の東信達村大字葛畑及び同童子畑にて、両地共に祠を建てて八坂神社と称し、産土社として崇敬せり荒尾谷鎮座當時に於ける狛犬の、葛畑の八坂神社と当社とに各其の一個づつを残せるは之が為めなり。』と記されています。


 「大阪府全誌」の記述と「新家清明寺代々記」の記述を合わせて解釈すると、
 『元は荒尾山(童子畑)にあった荒尾谷天王(種河明神の前身)の仮社殿を新家に建てた時、天正年間の騒乱(〜大坂陣の騒乱時もか、1585〜1615頃か)時に住民が避難した葛畑と童子畑の両方に祠(八坂神社)を建てて産土社とした。葛畑の八坂神社と当社(種河神社)とに(荒尾谷天王の)狛犬を其々一個づつ残したのはこのためだ。』ということになります。

 ここで想定できるのは、葛畑と童子畑には天正や元和の騒乱時に、新家から避難した人達も住み着いた可能性が考えられるということです。一方「代々記」には、この間の三谷(新家村)は大変苦しみ断絶した家、他所に移る家が続出したことが記されています。


(近世、岸和田岡部藩時の村々・岸和田市史より、①地図)


(岸和田松井(松平)藩時代(1619〜1639)の代官庄屋制時の各支配村、「熊取の歴史」より、②地図)

 さて、上の二つの地図、①は村切後に整理された江戸時代の岸和田藩の村々(108ヶ村といわれる)の村名が記されている地図です。また、岡部岸和田藩領の中にも「卜半領」や「小堀藩領の飛び地」、「旗本領(岡部の分地)」が記されており新家村は「旗本岡部家領」となっていることがわかるのです。

 ②地図は岡部氏領となる前の、松井(松平)藩時代(1619〜1639)の代官庄屋制時における代官庄屋其々の支配村が分かります。特筆すべきは、信達庄の村々(葛畑、楠畑、金熊寺、六尾、中(岡中)、幡代、馬場、市場)の殆どは、瓦屋村の新川三郎衛門(佐野川新川家)の支配村であるのに対し、童子畑は新家村同様に熊取谷の中家の支配村となっている点です。
 ここから推定できるのは、中世「しんたち内畑村」=近世初頭「三ケ畑村」から村切で誕生した三村の内、童子畑だけが熊取中家の勢力下にあったという点と、新家村と童子畑の結びつきが大きかったということです。
(つづく)


(1/3追加)
 今回の投稿で最初から紹介している「大阪府全誌」ですが、郷土の歴史を探る際に忘れてはならないことがあります。それは、近代(明治以降)になってからの地誌(大正十一年に完成)であるという点です。
 歴史倶楽部の会員さんはご存知だと思いますが、寺社の歴史を調べる場合に明治維新とともに行われた「神仏分離」ということを理解したうえで、取り組まないといけないということです。


 千年以上続いてきた、「神仏習合」という信仰形態の撤廃が政府の手で断行されました。これによって寺社は大きな変容を遂げ、神仏分離に連動して起きた「廃仏毀釈」によって、神社に置かれていた仏像や仏具類の破却、あるいは堂塔・寺院そのものの破却などが行われたのです。(泉南市新家の「清明寺代々記」には、新家に吹き荒れた「廃仏毀釈」が、25世忍誉上人によってリアルに記されています。)


 また、明治初年に行われたのは神仏分離・廃仏毀釈だけではありません。1/2追加記事で大阪府全誌から引いた『・・・今の東信達村大字葛畑及び同童子畑にて、両地共に祠を建てて八坂神社と称し、産土社として崇敬せり。』との記述ですが、日本全国に明治維新以前に「八坂神社」という神社はありませんでした。神仏分離と合わせて「社号」と「祭神」の変更が広範に行われたのです。


 神仏が習合していた京都の「祇園社」は、八坂郷にあったことから「八坂神社」と改称されたのです。(古代インドの須達長者が釈迦に寄進した「祇園精舎」にちなんだ仏教的な名称だったので改称されたといわれています。)
 また、祭神は「牛頭天王(ごずてんのう)」から「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」に変更されました。
 (牛頭天王は、祇園精舎の守護神・疫病退散の神と信じられたのですが、仏教系の尊格だったために、同じ疫病除けの神ということで牛頭天王と習合していた素戔嗚尊が表面にだされたのです。)


 社号、祭神の変更は、「弁財天社」→「厳島神社」・「弁財天」→「市杵嶋姫神」等も同様です。また祭神の変更は、神仏習合前の祭神に戻すというのが建前なのですが現実に行われたのは、記紀神話や延喜式に出てくる神々に信仰対象を転換することも行われたのです。
 この辺のところが、明治維新以前の神社の歴史を難しくしているだけでなく、とりわけ郷土史における寺社の歴史調査を難しくしているのではないでしょうか。


 さて、祇園社は一般的に「祇園さん」、牛頭天王から「天王さん」とも呼ばれます。「荒尾山に祇園天王の坊舎あり、荒尾谷天王と称して衆人崇拝せり」とはまさに荒尾山に牛頭天王を祀る祇園社があったということです。そして、「両地共に祠を建てて八坂神社と称し、産土社(うぶすなしゃ)として崇敬せり。」ということは、「葛畑、童子畑に祇園社の祠を建てて、産土社(その土地に生まれた人を守護する守り神)として崇敬した」ということになると思います。
(つづく)


(1/4追加①)
 大阪府全誌」の第五巻、第二十七項東信達村、大字金熊寺「信達神社」の説明を見ますと、「・・・同(明治)四十一年二月五日大字童子畑の村社諏訪神社(建御名方命)・同下諏訪神社(不詳)・同厳島神社(市杵嶋姫命)・無格社上道祖神神社(不詳)・同下道祖神神社(不詳)大字葛畑字西垣外の村社八坂神社(素戔嗚命)・同大字字上の山の同山神社(大山昨命)を合祀せり。」となっており、両地区のこれらの神社は明治の神社合祀によって一旦、信達神社に合祀されています。(その後、二村に再度分祀されているのかと思われます。)


 大阪府全誌の新家種河神社の説明にでてくる、「葛畑の八坂神社」は信達神社の合祀説明で確認できますが、「童子畑の八坂神社」はどうなったのでしょうか。少なくとも明治の神社合祀の中には出てきません。

 諏訪神社)

          諏訪神社・本殿)







(下の三つは摂社)
 
 其々が古くからの歴史に耐えた、故郷のすばらしい文化財です。
 諏訪神社本殿の下の摂社に狛犬が一つありますので、これが「童子畑の八坂神社」かとも思いましたが、大阪府全誌の種河神社の説明での文脈では、「葛畑の八坂神社と当社とに各其の一個づつを・・・」となっているので、あくまで「葛畑と新家と」と考えるのが妥当かと思われます。


 一方、童子畑の「諏訪神社」は、大阪府教委の資料で「氏神神社(うじがみじんじゃ)(自分が住む地域を守護する守り神)」と表記されていたこともありますので、「産土社」とほぼ同義であることから、何らかの理由で八坂神社(祇園社)が諏訪神社になったのかもしれません。

 




 それにしても諏訪神社本殿は、私のような神社建築についての知識が乏しい者でも、その歴史的な価値がわかるすばらしいものです。それは、一言で言えば中世〜近世の神仏習合の色合いが強く出た建築ということです。


 左右と裏には「梵字」(古代インドのサンスクリット語(梵語)を表記するために使われた文字で、日本の仏教(特に密教)に伝来した一文字で神仏を表す文字)が意匠されています。そこには大日如来を表す梵字も含まれていると思います。これらは明らかに南山(根来密教)の影響があるのではないでしょうか。
(つづく)


(1/4追加②)
 慶応四(明治元)(1868)年三月に神仏分離は行われましたが、その25年前の天保十四年(1843)にまとめられた「泉州日根郡寺社覚」(村から寺社奉行宛ての届出の覚え)を見ることによって、江戸時代の葛畑村と童子畑村の寺社の状況を知ることができます。(改行等はそのままに、縦書きを横書きにのみしています。)

葛畑村(小名堀河村(ホリガワ))
 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺       極楽寺
  除地寺平地、三拾壱坪五合
 牛頭天王社氏子之内年老壱人、神主一代回り持
 除地社山、二百七拾九坪五合、住吉大明神社
 観音堂、弁財天社、地神社、行者堂
 道祖神、石小社、除地小社平地、二合五勺
 辻堂、除地堂平地、三坪「経之松」

童子畑村
 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺       地蔵寺
  除地寺平地、百六拾坪四合弐勺五、地蔵堂、観音堂
 観音堂、除地堂平地、五百九拾八坪三合
 童子畑村、楠畑村、両村之支配、鎮守、権現社
 諏訪明神社、除地社山、二千三百六拾八坪九合
 氏子之内年老壱人、神主一代回り持
 末社、妙見、八王子蔵王権現、天照大神宮、八幡大菩薩
 一社之内、井垣、表華
 下諏訪社、除地社山、九坪
 道祖、石小社、除地、小社山平地、弐坪
 道祖、石小社、除地小社平地、弐合五勺
 弁財天、除地社山、四千五百三拾八坪三合、


※なお、「除地」とは(年貢免除地)、「井垣」とは(神社の垣)、「華表・表華」とは((日本では)鳥居)のこと

 以上の泉州日根郡寺社覚をみましても、葛畑村には「牛頭天王社」(八坂神社)がみえますが、童子畑村には見当たりません。
 しかし童子畑村には、200年近く前の「寺社覚」に記された大小の寺社が、(村の入口と出口の)道祖神に至るまで、現在においてもことごとく残っていて、祀られているのは奇跡的といっていいのではないでしょうか。
(つづく)


(1/5追加①)
 それでは、寺社覚に載っている寺社の現在について見ていきましょう。

 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺       地蔵寺
  除地寺平地、百六拾坪四合弐勺五、地蔵堂、観音堂


観音堂、除地堂平地、五百九拾八坪三合
 童子畑村、楠畑村、両村之支配、鎮守、権現社



諏訪明神社、除地社山、二千三百六拾八坪九合
 氏子之内年老壱人、神主一代回り持
 末社、妙見、八王子蔵王権現、天照大神宮、八幡大菩薩
 一社之内、井垣、表華






下諏訪社、除地社山、九坪


道祖、石小社、除地、小社山平地、弐坪


道祖、石小社、除地小社平地、弐合五勺



弁財天、除地社山、四千五百三拾八坪三合、



※以上、慎重を期して調査しましたが、間違っていましたらご容赦ください

 諏訪神社の末社(摂社)が、寺社覚では「妙見、八王子蔵王権現、天照大神宮、八幡大菩薩」の四社になっていますが、現在は三社しか見当たりません

 なお、祀られている祭神は、「泉南市の神社・仏閣(泉南中央ライオンズクラブ、平成9年4月)」によれば、
 「・・・祭神主名は諏訪大明神で諏訪神社と呼ばれている。他に多くの神々が合祀されている。天昭皇大神宮、春日大社、八幡大神、蔵王権現、八王子大神、妙見大菩薩、その他にも八神が祀られている。」とされています。

 また、「泉南市域の年中行事(泉南市成人読書連合会、昭和61年8月22日)」の「童子畑地区」の記載には、「12月、道ぶしん 正月前に七宮廻りの道ぶしんをする。」とあり、註2として、
{八幡宮・天照皇大神・春日社・諏訪神社・蔵王権現・八王子社・妙見さん}

「童子の七宮は明治の合祀にも金熊寺へ合祀せず村でこっそり祀った。上の図のような順に小社が五つ並んでいて蔵王権現・八王子妙見さんは一つの社に祀っている。」
「この後観音・八大龍・牛滝・弁才天(村の入口)に参り、次に下の諏訪神社に参って半日かかる。」と記載されています。

 当該資料は、昭和61年に向井俊生先生を中心に、泉南市の女性たちが協労して残してくれた宝物のような民俗資料です。忘れさられていく各地域の民俗の記憶をできるかぎり残していきたいものです。
(つづく)


(1/5追加②→ここからは単なるエッセーです。内容に全く根拠はありません。

なぜ「童子畑は不思議の国」なのか(最終回)

 冒頭1月1日に、童子畑の地名由来は「金剛童子」からきていると思っていたと書きました。実はいろいろ童子畑のことを勉強してからも、その思いは変わらないのです。まずは、童子畑地区の方々が今も大切にしている「地名由来」をご紹介いたします。


 それは、先程紹介した童子畑の「観音堂の由来」と密接に関連しています。

(石に線画で書かれた観音像を安置)

観音堂の表示塔の裏に「うた」が・・・・。)

   ありがたや ふちにまします
      みほとけを 童子がおうて(背負って) あがりたまえ
         
    


(線画観音像を安置しているお堂の中に地区の説明書きが・・・)


「金熊寺川の観音淵で童子(子供)が光り輝く、石仏を見つけ背負って山(現観音堂)に祀ったのが始まりと言う。・・・今回の新築にあたって旧観音堂の千手観音の奥から言い伝えられる石仏が安置されているのが見つかりました。・・・」と。

 何という不思議な言い伝えでしょうか。しかし、最初に説明した金剛童子は、金剛杵(ダイヤモンドのように堅固な武器)をもった少年で、仏様を守る任務を持つすごい力の童子です。重い石仏を見つけて、背負って山まで上がるのは金剛童子にしかできません。

 そして、上の線画で書かれた観音像を拡大してよく見てください。母親が子供を慈しむ慈母観音のように穏やかなお姿です。
 わたしはこの線画で書かれた観音像を見て、国宝のマリア観音像を思い出しました。下見も含めて童子畑に何回かお邪魔して、童子畑の不思議な魅力をより強く感じるようになっています。



(童子畑のお墓で見つけた古い観音菩薩石像)

 そして、それは童子畑の方たちの優しさにも裏打ちされています。11月30日の例会当日、墓地にお参りしていた地域の方(参加者の誰もが知らない村の方)が、私達に袋一杯の「柿」を差し入れしてくださったのです。



 倶楽部の例会も数十回を数えますが、探訪先の地域の方にこんなに親切に、優しくしていただくのは初めてです。参加者一同御礼申し上げます。地域の魅力とは、つまりは人の魅力なのだと思った1日でした。

(おわり)


(1/8追加)
  熱心に読んでくれる読者の方から、連絡・質問がありました。
1/2記事にある(大阪府全誌)天正年間の騒乱に際して兵火の為め社房消失せり。依て其の別當職たる坂口實蔵院の前主自信は、当地の山下・樫木の森付近に仮社殿を営みて・・・』となっているけれど、仮社殿を建てて移したのは、清明寺代々記では「月光院の前住職の浄月清花入心師」だったのではないですか?との質問意見です。


 そのとおりです。私も別の記事のなかでそのくだりは引用しました。大阪府全誌では坂口實蔵院の前主自信、清明寺代々記では月光院の前住職の浄月清花入心師になっています。
 新家の種河明神をつくった方のことですので、極めて大事なことですが、どうも浄月清花入心師(代々記)と坂口實蔵院の前主自信(大阪府全誌)は同一人物のようなのです

 それは、代々記(新家古記の世界65P)の「四世・浄月清花入心」の中で『浄月清花とハ全ク実名にあらず、元来荒尾谷、天王の別当、坂口法蔵院の前主なり』という記述があります。私も同じ疑問をもったのですがこれで納得したのです。


 それにしても、大阪府全誌で記される「荒尾谷」(童子畑)にも建てたとする祠(八坂神社)のことは不明なままです。また何か手がかりがあったら報告いたします。


(1/15追加)
 本日ある図書館で、「日本地名大辞典27、大阪府(角川書店、昭和58年)」を見ていて「わらずばた 童子畑<泉南市>」を調べていましたら、私としては初見で重要な情報に出会いましたのでご紹介いたします。(下記は当該大辞典のそのままの記載です。)


 「和泉山脈が金熊寺川と支流堀河川とによって、侵食されたY字型の谷筋をはさんで位置する。かつて当地に荒尾谷天王の社があり、住民の尊崇が厚かったという。当地は山間の深奥部であるため、天正年間、泉南地方を兵火に巻き込んだ織田信長の根来攻略の際には新家地区の住民の避難地にもなった(全志5)。

[中世]童部堂 戦国期に見える地名。和泉国日根郡のうち。「旅引付」甲の巻末に「和泉国中之所名之内・・・・童部堂<根来領シタチノ内也>」と見え、「ワラウツハタ」と仮名を付してあり、同郡信達荘内にあったことが知られる。」(以下略す)
となっています。


(全志5)とは、大正十一年、井上正雄大阪府全誌第五巻」のことと思われます。
旅引付」とは、所謂「政基公旅引付(まさもとこう たびひきつけ)」のことで、1501〜1504年の間、日根荘に滞在した前関白、九条政基の日記のことですので「童部堂<根来領シタチノ内也>(ワラウツハタ)」という地名を政基が記すということの意味(史料的価値)は決定的に大きいといえます。

 さらに童部堂とは、何らかの建物を意味すると考えられ、その建物名が地名になっているということです。その意味において、私が冒頭に引いた「根来寺伽藍古絵図」の北方に描かれた「金剛童子社」との関連を究明することが、今後の課題といえます。




 















 






 




 



 









 

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