2026/01/26

日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?(前編)

  


(1457年、和泉国日根郡国人等契約状。「ふるさとの中世〜日根荘の人々〜」より)

 上の「和泉国日根郡国人等契約状」(以下、「契約状」と略す。)は、康正三年(1457)六月廿六日に和泉国日根郡の九人の武士が一味する契約を結んでいる連判状です。名前を見ていきますと、


鳥取備中守         光忠(花押)
淡輪河内入道      沙弥道本(花押)
箱作肥前入道      沙弥道春(花押)
鳥取備後入道      沙弥寿枩(花押)
籾井(樫井)伊豆入道  沙弥道永(花押)
新家新二郎         影頼(花押)
籾井(樫井)幸持丸代    慶重(花押)
上郷二郎左衛門尉      光景(花押)
日根野加賀守        秀盛(花押)


 つまり日根野、上之郷から鳥取、淡輪まで日根郡の武士が「一味同心」の「一揆」を結んでいます。
 一揆といえば、近世の百姓一揆のような集団闘争をイメージしがちですが、ここでは英語の「アライアンス」=同盟のようなものと思ってください。この一揆を裏切ると神罰が下るという契約状です。
 私は以前からこの一揆の意味(何を一揆(同盟)したのか)について深い関心をもっていました。それは、一言でいえば我が「信達荘」の武士(国人)が含まれていないからです。


 この「契約状」を紹介してくれている「ふるさとの中世 日根荘の人々」(ふるさとの中世編集委員会発行=泉佐野市教職員組合と泉佐野の歴史と今を知る会で構成)という冊子は、今から約30年前に作成されたものですが、「全国に誇る日根荘遺跡を地元の小中学校でも教えられるようにと、「教材の手引となる冊子を」と作成されたものです。故郷の歴史を次代に伝える冊子として、「分かりやすいけれどきっちり専門性を備えている」その内容たるや全国でも屈指のものと言ってよいと思います。みなさん是非一度手にとって読んでみてください。


 さて、「ふるさとの中世」35Pでは、この「契約状」についてその具体的な契機や目的は不明ですし、彼らが共同で行った行動の記録は現在のところ見つかっていません。しかし戦国時代の前夜を考える重要な動きであることは間違いないでしょう。」と記されています。また、64Pの全体の「略年表」では、「契約状」が結ばれた前後の出来事は以下のようになっています。


1417 日根荘で百姓請が実現
1428 【正長の土一揆おこる】
1429 日根野村・入山田村が九条家の支配となる。が、部分的に押領される
1446 十二谷池の分水・管理につき日根野・井原・檀婆羅密寺村が契約
1457 日根野加賀守秀盛ら九人衆、一揆契約を結ぶ
1467 【応仁の乱が起こる(〜1477)】
1490 根来寺衆ら出陣し井原村を占領。九条家に日根野荘代官を要求
1500 泉佐野市域を中心に根来寺衆らと和泉国守護勢との戦闘続く(〜1504)


        
      
(「連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代」)

なお、廣田浩治先生は「和泉惣国一揆の展開」という講演記録(「連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代」(泉佐野の歴史と今を知る会・編)28P〜所収)の中で、同じく当該「契約状」(史料No.4)を紹介してくれており、

「・・・やっぱり幕府や守護に対抗するための一揆でしょう。・・・(中略)・・・鳥取氏は、これ以前に守護から討伐されて、たぶん何人か討ち取られていますので、まあ端的に言うと、鳥取氏を守るための一揆であったかも知れない・・・。」(37P下段)とおっしゃっています。


この「契約状」は、康正三年(1457)六月廿六日に作られていますが、この時期は京都を舞台に多くの武士が戦うことになった「応仁の乱」(1467〜)の前夜に当たる時代です。南北朝動乱がおさまって幕府や守護の権力が一応ととのってくると、守護に従っていた各地の武士(国人層)達は、「押領」した荘園の返還を迫られていきます。
 例えば日根荘でも荘園領主の九条家の訴えによって、将軍や守護何度も日根荘の回復措置をとるのですが、一時回復してもまた武士(佐竹和泉入道や日根三郎衛門入道)が抵抗、押領するという繰り返しが行われています。このような中で各地の武士と将軍・守護との対立が深まっていきます。一方、村人達もまとまりを強めて(惣村)、武士たちの支配を動揺させていくという極めて複雑な社会状況を生み出していたのです。
 

 このような社会の状況からみていくと、「契約状」は廣田先生がおっしゃるように幕府や守護(和泉国守護は細川氏)に対抗するため日根郡の国人達の一揆なのかも知れません。しかし、それ以外の可能性は考えられないのでしょうか?。



◼️私なりの検討
 今回のタイトルとした日根郡国人等契約状の謎。つまり一揆の目的は何なのか?、ということの私なりの検討・推論に入っていきたいと思います。
 なお、康正三年(1457)は年号が変わって長禄元年(1457)でもあります。まず、「契約状」で、一揆を交わした和泉国日根郡国人達の根拠地、勢力範囲と思われる地域を図示してみました。

 赤い線で囲んだア〜キまで、ア日根野、イ上之郷、ウ樫井、エ新家、オ鳥取、カ箱作、キ淡輪になります。(もちろん、各地域には其々の荘園等があり、荘園領主が存在します。例えば新家荘=仁和寺領、鳥取荘=伊勢神宮領、箱作荘=賀茂社領、等)




さらに、黒い線で囲んだ1〜6は根来寺領の荘園になります。1弘田荘、2石手荘、3岡田荘、4山崎荘、5直川荘、6山東荘。なお、和泉国日根郡の「信達荘」は建武四年(1337)に足利尊氏が大伝法院(根来寺)に寄進していますので、和泉国の中の唯一のオフィシャルな根来寺領荘園です。根来寺は⚫️です。


 そして、ピンクの線で囲んだA〜Fは根来寺の(オフィシャルな根来寺領荘園ではありませんが中世後期に獲得した(紀伊国内(紀北))の支配所領です。A池田荘、B田中荘、C丹生谷村、D名手荘、E小倉荘、F田屋荘、G栗栖荘、H和佐荘、I岩橋荘、J和田荘、K安原郷、L薬勝寺、M木本西荘、Ñ加太荘、Oカセ田荘、P渋田荘。(其々の獲得年代は不詳です。)

※根来寺の所領関係は、「歴史の中の根来寺 教学継承と聖俗連環の場(トポス)、山岸常人編」中の「五 中世根来寺権力の実像 「一揆」「惣国」「都市」再考」廣田浩治」の172P表3、根来寺関係紀伊北部地図地名一覧」によりました。
 なお、根来寺の西には日前宮もあり、東には粉河寺や高野山も近接していてそれぞれの寺社領もあるわけです。


◼️押さえておきたいこと(時代背景)
 戦国時代のはじまり(「契約状」のころ)から、終焉(秀吉の全国統一)までの歴史は、別の言い方をすれば「荘園制が崩れていく過程」といっていいと思います。
 「ふるさとの中世」36・37Pでは、

「もともと室町幕府は将軍と守護大名あるいは地方の武士との対立を含む不安定な政府でした。・・・・・。さらに守護家内部や将軍家での分裂も起こって、一層、政治が不安定になっていきます。1467年には京都を舞台に多くの武士が戦う応仁の乱が起こることになります。この事件を機に幕府の権威はますます地に落ち、戦乱は全国に広がっていきました。

 この背景には村の人たちが力をつけ、まとまりを強め、要求を掲げて土一揆を起こしていったことがあります。後には一向宗(浄土真宗)の信仰を基礎にした一向一揆もおこってきます。各地の武士のなかにはその村の人たちの力を利用して守護の支配を覆す戦いを試みる者もあらわれ、また逆に村の支配が困難になったために守護家に頼り村との戦いを進める武士もいました。・・・・・・、どのような荘園や領地であろうと村の人たちの一揆を軍事的に押さえ、村ぐるみ実力で支配する新しい戦国大名が伸びてきます。・・・・・・・・・・・・・」としています。


 さて、以上の時代背景を踏まえながら、上の地図に示した和泉南部、紀伊北部の地域を考えますと、守護大名(細川・畠山)から戦国大名になった者や、守護の被官や国人から下剋上して戦国大名に成長したもの(途中まででも)はいるでしょうか、どうもみあたりません。

 一つだけ思い当たるのは、日根野型兜で有名で、戦国末期に大名となった「日根野氏」ですが日根野弘就は庶流で、美濃の齋藤氏に仕えてその後、大名に成長しましたが、和泉国日根郡を本拠とした日根野氏は近世には農民として残ったようです。


◼️和泉南部・紀伊北部という地域性、特殊性
 「ふるさとの中世」52・53Pでは更に、「根来寺の動向」として
「根来寺(和歌山県岩出町)は南北朝内乱の初期の1337年に足利尊氏に信達荘(泉南市)を寄進されて和泉国に足がかりを得ています。その後の根来寺は、各村で成長する有力な人たちを信徒にすることによって発展していきます。ちょうど百姓たちの新しい村が成立し、領主への年貢などが固定化され(33P)(百姓請・地下請のこと、筆者)、経済力を持つ有力な村人(地侍)が生まれてくる時代と重なっています。
 

 熊取町の中家は、室町時代に成長し根来寺とかかわりをもった地侍のよく知られた例です。多くの土地を買い集めてそれぞれの耕作者から領主に収める以外の年貢(加地子)を得、また麹の販売権なども手に入れ、同時に一族の師弟を根来寺の「成真院」の代々の僧としています。また、・・・。これら根来寺の子院の僧も金融業をいとなみ、加地子を集めたり、荘園の代官となったりしていきます。

 根来寺は泉南地方や紀州の地侍が村のわくを越えて連携する拠点として成長し、経済力・政治力の維持・拡大をはかる一つの軍事勢力となっていきます。・・・」と。
 どうも、根来寺のこと抜きには「契約状」の意味の検討は難しいようです。


 そして、「戦国時代になると守護家の対立とも関連しながら根来寺は軍事行動を頻繁におこしていきます。1484年には粉河寺衆とともに水間寺(貝塚市)・神於寺(岸和田市)を攻撃し、1490年にも和泉国に出陣して井原村を占領しています。その時には九条家に日根野荘の代官職を要求し、後に根来寺閼伽井坊と東智院がそれぞれ九条家方・富小路家方の代官となったようです。

 根来寺のこれらの行動は根来寺僧や地侍の経済的権利や社会的地位を強め、逆に守護やその家臣となっている武士の荘園支配を弱めていきます。ですから1500年には守護方が軍事行動を起こし根来寺方は一旦敗北しますが、その後1501年から1504年にかけては日根野・上之郷・長滝・佐野・嘉祥寺などで守護方と根来寺方との戦闘がおきます。」と続きます。


 しかし、ここで見ておかなければいけないのは、根来寺の和泉南部での軍事行動は現在発見されている史料では、応仁の乱後(戦国時代になってから)であるという点です。根来寺は何時頃から大きな軍事力をもち軍事行動をとるようになってきたのでしょうか。


◼️和歌山県史の記述を中心とした検討



 「和歌山県史、中世」の386P〜『長禄の根来合戦』では、「・・・長禄元年(1457)(筆者注、「契約状」の康正三年(1457)でもある)ごろから、近畿地方はふたたび干魃の傾向がつづいた(熱田公「寛正の飢饉と大和」)。」と記されています。当時の日本社会では天変地異や戦乱がつづくと年号を変えて災いを断ち切ろうとすることが多々あったのです。


 続いて「根来寺と守護領八カ荘(当時の紀伊国守護は畠山義就、筆者)との用水相論(水論、筆者)がふたたびおこり、根来寺から、八カ荘の用水井を破壊するようなこともあったようである。永享五年か、その後いつかの時期に、岩手荘辺を取水口とする用水井が掘られていたが、干魃を前に根来寺側が実力行使にでたものであろう。」としています。

 実は、約20年前の永享五年(1433)には、既に根来寺領と守護領八カ荘の間で用水路をめぐる相論が起こっていることが「満済准后日記」に記されています。なお、同年(永享五年(1433))には、根来寺・粉河寺が連合して高野山を攻めてもいます。(「粉河寺旧記」)


 さて、和歌山県史の記述に戻りますが、
 「長禄四年(1460)五月、守護(この時は畠山義就)は、口郡守護代遊佐豊後守盛久、奉公人かと思われる神保近江入道、木沢山城守の重臣三人を使節として根来寺に派遣し、用水井を復すこと、および根来寺寺僧の中で、守護畠山氏の亡臣某に味方する者を、根来寺に退けるよう命じた。三使者は、多くの軍勢をつれていた。したがって守護からの三使者派遣は、用水相論の交渉といった性格のものではなく、武力による威嚇、あるいは攻撃であった。

 
 なお、亡臣某に味方する寺僧とは、当時すでに、守護家の家督をめぐる争いがはじまっており、当時の守護畠山義就の反対派を支持する寺僧をいうのであろう。用水問題にからめて、政治問題・軍事問題の解決をめざして、守護代らが根来寺におしかけてきたのである。」としています。(参考として「畠山家の内紛」をご覧ください。)


 和歌山県史はつづいて、「守護の武力に対して、根来寺も武力でこたえた。三使者は・・・切腹、余兵は紀ノ川を渡って敗走しようとしたが、・・・紀ノ川は増水しており、守護方の軍勢一千二十余人が溺死した。」(禅僧太極の日記「碧山日録」)と。


 そして、『長禄の根来合戦』の最後に、「・・・それぞれほぼ同時の記録であって、信頼度はかなり高い。」(※筆者注、ほぼ同時の記録とは「経覚私要抄」「大乗院寺社雑記事」「碧山日録」「粉河寺旧記」)

 「室町時代の紀州で戦われた最大の合戦であった。根来寺の大勝は、根来寺の武力を天下に知らしめることになった。そして、守護の大敗は、守護畠山家の分裂を混迷にみちびき、それが応仁の乱へとつながっていく・・・。一紀州史にとどまらない、日本歴史の転換点として、長禄の根来合戦は、大きな意義を有しているのである。」としています。


 以上、長禄元年(1457)ごろから、近畿地方に干魃がつづく中、根来寺と守護領八カ荘との用水相論に端を発した、守護畠山義就と根来寺に起きた長禄四年(1460)の『根来合戦』について、和歌山県史の記述を中心に見てきましたが、守護の武力を大敗させた根来寺の武力はいつ頃から醸成されたのでしょうか。またその武力は如何に構成されていたのでしょうか
 守護(畠山氏)の軍勢を700〜1000名も戦死させた『長禄の根来合戦』の時代以前から当然、当該軍事力は醸成されていたと見るべきでしょう。1433年には当該用水相論が一度起こっていますし、同年に高野山を攻めてもいるのです。

 わたしはこれらの点を検討することが今回の問題(契約状」の謎。一揆の目的)に迫ることに繋がるのではないかと考えています。(つづく・後編はここから

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