ー信達庄中村(岡中)の浄土宗法然寺と真言宗林昌寺⑦ー
(このシリーズは①からお読みください)
筆者は定年後、本格的に郷土史をやるには古文書の翻刻、読み下しが必須であることから、これの勉強に挑戦してはいるが、その技量はいっこうに向上しない。当文書だけはと取り組んだが、翻刻・読み下しを一応成し遂げるまでに三か月以上をついやした。しかし内容には全く自信がなく、古文書学を習得した専門家のかたに指導・訂正いただいて何とか完成をみたものである。
上記文書の内容からは、中村(岡中)の当時の檀那寺、浄土宗法然寺は寛永16年の大高寺の紛争以降、本寺大高寺に不帰依となってしまった後、寛永18年に別途以前からあった地蔵堂をもとに、真言宗無本寺の林昌寺として『中興』することによって、これを村の新しい檀那寺としたことが、明らかとなるのである。
なお、先輩H・Y氏による林昌寺住持の歴代の調査によって、一世と二世の住持は金熊寺観音院に兼帯願っていたことが判明しており、筆者の義兄が観音院寺役を務めていた関係から調整いただいて、数年前に岡中先輩H・Y氏、同後輩N・K氏、筆者、筆者義兄の四人で観音院前住職から林昌寺一世及び二世住持の位牌を見せていただき、墓(金熊寺墓地にあり)にも案内していただいて、その事実を確認している。
法然寺の開基は「年号相知れ申さず候、文禄二癸巳(1593)年中奥造営仕り候」としかわかっていない。また、法然寺がいつから無住となったかは正確にはわからないが、寛永16(1639)年の大高寺の紛争を機に、法然寺に代わって林昌寺を村の檀那寺としたのは寛永18(1641)年以降であることがわかるのである。
信長・秀吉による天正年間の災禍により、壊滅的な打撃を受けたであろう林昌寺(岡寺?)は、寛永期以降徐々に近世寺院としての形を整え、現本堂の建立や四国八十八か所を山中に勧請するなど、近隣諸村からも崇敬される弘法大師信仰の地となるが、一方では中世に属する「補陀落渡海碑」や「庫裏地下の閼伽井(聖水井戸)跡」、平安時代に遡る「寺院瓦窯跡」など、前史としての貴重な歴史的遺物が数多く存在し、今回分った近世の歴史とは別の古い歴史があったことは想像に難くない。その意味では、新家谷のような中世にまで遡った歴史が全く未解明なことを改めて記しておきたい。
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