2025/06/11

泉南歴史トピックス6 寛永十六年にあった大光寺をめぐるある事件⑥

  寛永十六年にあった大光寺をめぐるある事件⑥ー

(このシリーズは①からお読みください)

新川盛明が松井氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状下書き

 以前筆者は本シリーズ③で、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の研究によれば、「ある出来事を機に大高寺の寺勢が大きく衰えた時期がありました。」と記しましたが、これは信達庄の村や末寺にも大きな影響を与えた出来事でした。それは、寛永十六(1639)年の大高寺長老(真誉)と大旦那中庄新川家(新川盛明)の紛争に端を発した事件でした。以前書いた新家谷への教線拡大より20~30年くらい前の話になります。岡部氏が岸和田に入部したのは寛永十七(1640)年ですので、信達庄の村々は松井(松平)岸和田藩領であった時代になります。

 上に示した画像は開基大旦那家の新川盛明(九兵衛、有名な新川盛政の息子、開基大旦那三善(新川)盛喜の孫)が松井(松平)氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状(の下書文書)ですが、紛争の内容、原因は後程説明するとして、この事件によって新川盛明は長老真誉を大光寺から追放しました。

 この紛争で、大高寺の諸末寺には大きな動揺が走り、もともと長老びいきだった末寺や模様眺めの末寺、開基大旦那家に従う旨を表明する末寺などに分断したようです。追放された長老真誉はその後、木積村観音寺(事件当時は大高寺末)で暮らしたようですが、新川盛明は事件の直後から、諸末寺の現地に赴いたり書状を出すなどして動揺を抑える努力をしたようです。

 下記の四カ寺は、その時長老と行動を共にして、大高寺の末寺から離脱したようです。畠中村称名寺(のち長楽寺)、木積村観音寺、橋本村安楽寺、脇浜村浄雲寺。(その後、これらの四カ寺については、ある段階で帰参の話があったようですが結局は実らなかったようです。)

 また、信達庄の村々に関しては、長老に積極的に加担したということではなかったのですが、新川盛明が直接信達庄に赴き動揺を抑えようとしましたが結局収拾できず、やがて信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)は本寺大高寺不帰依という状態になっていったようです。上記四カ寺のように即座に末寺を退く形はとらず、長老・本寺大旦那方とも距離を置き、次第に末寺から離れたようです。これらについても後の時代に大高寺から関係修復の動きがあったようですが、結局は寺院自体が退転し、檀中こぞって転宗してしまうほどこの事件は後世に影を落とす結果となったようです。(六尾村正安寺は後世に同地、阿弥陀寺という形で幡代光明寺触下で知恩院直末寺院として再興されています。)






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