2025/06/14

泉南歴史トピックス6 中村(岡中)の法然寺と男里の法然寺について⑧

 ー中村(岡中)の法然寺と男里の法然寺について⑧ー

(このシリーズは①からお読みください)

(男里の法然寺「おのさと第三集」から)
 筆者は郷土史好きで、定年退職前から「泉南市史」は自分で買って読んでいたし、その中で紹介されている「和泉国寺社覚」に中村法然寺は出てくるので、昔に村にあったとされる寺が「法然寺」という名称だったことは早くから知っていた。  

 また、男里に同名の寺があり、中村同様「浄土宗」のお寺なので、「まぼろしの法然寺」と現在もある法然寺に何か関係があるかもしれないと漠然と思ってもいた。しかし、私以外の泉南市民で何人の方が現「男里の法然寺」とは別に中村(岡中)に「法然寺」いう同じ名前の寺があったことを知っているだろうか?。

 いつか本格的に「岡中法然寺」と「男里法然寺」のことを研究したいとは思っていたが、他の研究課題が多く今までほとんど手を付けられずにいたのだった。唯一勉強したのは、泉南市史通史編に出てくる男里の法然寺に関するわずかな記載と、男里の郷土史家、谷美光先生の「おのさと第三集」所収「おのさとの各寺院ー法然寺」53~59Pについてのみである。

 谷美光先生によれば、(男里の)法然寺は華憧山勢至院と号し、龍誉上人の開基と伝えられるが開基年代は不詳、中世中頃ではとなっており、二世以降は不詳で九世天誉上人(慶安五(1652)』年、七十一歳没」)の中興から僅かながら記録が残されているようである。とされ、

・「照蓮社寂誉上人大和尚の位牌法然寺にあり。何世に当たるか不明」

・「法然寺で一番古い墓は寛永八年(1631)という(雄信達村誌稿)」

・「法然寺で一番古い墓は先年大阪府の方が調査にこられた時、高さ六十糎の砂岩製五輪塔で刻み文字も分からないが、三五〇年位前と推測されるとのこと(先住藤田簥然師談)」

・「法然寺の本山は、元禄以来山城国伏見竹田村観音寺であったが、明治十一年総本山知恩院に転末している。この間のいきさつについてはわからないが何でも市場村の真如寺と一緒に転末しているようである」

・「同村宝蓮寺が法然寺の触下にあった」

という点が述べられている。


 さて、以下紹介するのは、当シリーズ②で紹介した中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている「21  法然寺 泉州日根郡(信達庄)中村(泉南市信達岡中)」の「備考」に記されている文言である。

 「中村法然寺に関連して、同じ信達庄内の男里(小野里)村所在の法然寺が注目される。元禄9(1697)「浄土宗寺院由緒書」では知恩院末の山城竹田村観音寺の末寺として書き上げられているが、起立・開基由来は不明とされている。・・・・開基年代は不明ながらも僧龍誉を開山とする(P972)。同庄内近隣で、同じ寺号を有する寺院が無関係であることは考えられず、或いは寛永の出入りで大高寺末から離れた法然寺住持らが寺基を男里に移し、縁故を頼って知恩寺末の竹田村観音寺末寺になったのではなかろうか。」と。

 今回紹介した近藤先生の研究は「私も違いないと考える」といいきれるほどの水準にまで私の今の認識は達していない。それは、谷先生が紹介してくれている「法然寺で一番古い墓は寛永八年(1631)という(雄信達村誌稿)」という記述の問題である。これが、「寛永十八年」ならば中村法然寺と男里法然寺の連続性が整合することになる。さらに、天保十四年泉州日根郡寺社覚には「宝蓮寺」の説明として「浄土宗、本寺、触頭男里村法禅寺、」との記載はあるが、触頭が「法禅寺」となっており、さらに肝心の「法然寺」の搭載がないのである。(泉南市史通史編451Pの「表33各村の寺と社」(天保14年「泉州日根郡寺社覚」より作成)にはなぜか搭載あり)このあたりの謎を今後も追及する必要がある。

 大高寺シリーズの中で「中村(岡中)法然寺」にスポットをあてた機会に紹介しておこうと思い紹介させていただいた次第である。

(6/15追加

天保十四年泉州日根郡寺社覚は「和泉志」(昭和32年2月1日、和泉文化研究会の発行で、和泉国神社寺院史料集の1.和泉国寺社覚の中に「泉州日根郡寺社覚天保十四癸卯年」)として61P~82Pまで収録されているが、男里村はなぜか2度掲載されており、一度目の63Pは「男里村の 法然寺、光平寺、浄泉寺、宝蓮寺、神宮寺」が掲載されているが、二度目の78P「男里村の 浄泉寺、神宮寺」、79P「男里村の 宝蓮寺」が掲載されており、なぜか内容を異にする。

・宝蓮寺の説明としては63Pは「浄土宗本寺同村法禅寺八幡社僧」となっており、79Pは「触頭男里村法禅寺」となっている。2度の説明中では共に寺号は法禅寺となっているが、しかし、二度目の掲載ではなぜか「法然寺?法禅寺?」そのものが搭載されていない。

・男里村が「天領、私領の入り組み支配地」となっていたことが混乱の原因と思料されるが、法然寺の中村→男里の連続性の研究とあわせて、男里村の現法然寺の寺号の歴史的な確認及び泉州日根郡寺社覚の二度記載の問題を探求、確認する必要がある。

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