ー「新家の続者からの要望におこたえします 後編」⑫ー
(このシリーズは①からお読みください)
⑪からの続き
(清明寺)
・前身は南北朝時代に開創された新家庄前川(上村)所在の禅宗寺院興禅寺(楠木寺)。興貞禅尼(河内国錦部郡、出自、楠木庶流、「金遣山合戦」で一族滅亡)が亀岡(同庄下村)井出先氏を頼って止住、前川薮内寺(不詳)の空院に閑居し、興禅寺を開基したという。
・興禅寺二世の是雲が佐原直勝(大内義弘家臣)の喜捨を受け、応永7(1400)、仏堂を造立、同15井出先氏からも境内地(南北32間.東西21間余)を寄付された。
・延徳3(1491)根来寺光明新院の子院となって阿学院と改号し、以降、同寺は前川阿学院と称された。
・天正13(1585)3.27根来攻めの動乱で、阿学院坊舎や近隣民家が焼亡した。
・阿闍梨学道(月光院二世良阿覚道大円、謹蓮社保誉の法孫、竜円(三河武割)法弟)、焼け残った阿弥陀堂に寺基を据え、同17.3、坊舎再建の御免を受け、同19~文禄1(1592).2寺坊を再興、日輪山月光院と改め、謹蓮社保誉澄阿を開山とする浄土系寺院とした。なお、この際に浄願院万善和尚(松円山開祖等誉法孫、不詳)の助力があり、その縁故で浄願院末寺(預り寺)となったという。
・大誉祖玄(清明寺(月光院)六世、永禄3(1560)~寛永19(1642)10.6)、慶長17(1612).5の大風雨で荒廃した諸堂を元和9(1623)5.椿谷(新家上村内)へ移転、本堂(四間四方、茅葺)を造営して、翌10.11.8入仏供養を行い、寺号を清明寺と称した。祖玄は元和4(1618)夏に入寺以来25年、上記の業を含む諸功によって中興開祖とされた。
・寛文6(1666)大高寺五世暁誉(難蓮社暁誉生阿)が上村上野原(上之原)で新田開発を行い、田地四筆(二本松・六道堂付近)を清明寺へ寄付した。これを機に、清明寺13世心誉念西は、浄願寺末寺(預り)支配から離れ、正式に大高寺を本寺と定めて、本末格式を整えた。(1.5正月登山:來迎院・勝楽寺・了安寺・元法然寺並み。七月(盆登山):惣末山並み、開山忌:随意、両山・十七カ寺平分寺門中の中座)
・同7.12.20火災で諸堂・相伝什物等が焼失した。
・休三は厳蓮社生誉休三(寛永20(1643)~宝永3(1706).7.10、清明寺16世)。紀州有田郡下村出身、同野上郡(那賀郡野上組沖野々村)法然寺晃国和尚の法弟。貞享2(1685).5. 23に入院、20余年住職を務めた。元禄2~同7の7年間で諸堂を再興し、中興開祖とされた。
(浄福寺)
・「道連地蔵縁起」「宝治寺記」等の古記によると、前身は新家庄奥垣(高野村)に所在した宝治寺(宝治禅寺)と称する禅寺で、開祖は是興禅者という。
・応仁頃、「槙尾弥勒山」(槙尾山施福寺)の支流(末寺)となったが、根来寺結衆が代々住山しており、天台・真言兼学の寺院であったという。
・長享2(1488)頃、浄福院と称し、道連大士を本尊としたと「三谷笹岡之記」にあるという。
・永禄7(1567)頃、同院寺僧恵林が松永(久秀)方に同与、根来寺に反逆したため、元亀2(1571).2.22焼き討ちにあい、堂舎が焼亡して断絶した。
・天正2(1574)、仮の小堂が建立されたが、同13の根来兵乱で焼亡、元和1(1615)には藪垣外へ移転して奥垣・丈武両村の手で常福院堂舎を再興造立し、本尊を住人金五郎の持仏であった釈迦如来像としたという。
・浄福院(常福院)3世恵純が本尊を新たに造立、寛文7(1667).2.20大高寺5世暁誉(難蓮社暁誉生阿)を招き、開眼供養を行い、併せて寺号を慈雲山浄福寺と改めた。これにより、当寺は浄土宗に改宗して大高寺末寺となり、恵純は同寺中興とされた。
・同11、大高寺暁誉が同寺檀家17軒に五重相伝(在家五重)を行い、さらに同8、高野村藪垣外の荒野を開発、田畑2筆(常福寺堂田)を寄付し、本末の結束を強めた。
・玄長は、元禄6(1693)より本堂等の再興を企て、宝永4(1707)2には諸堂が落成、「慈雲山中興」玄長大徳と称された。なお、この時、田畑が永代修造料として寄付されている。
・「天保14泉州日根郡寺社覚」に寺除地198坪とある。
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