ー続・中庄大光寺と新家谷のかかわり④ー
(このシリーズは①からお読みください)
今回も、中庄大光寺と新家谷のかかわりの続きですが、谷の中で最も早く中庄大光寺の末寺になったのは、新家中村の宗福寺です。(市史史料編153P、代々記78P)寛永四(1627)年、清岸房は以前の亀岡理岳院を移して興行堂と合わせて一つの寺を興し、八月十四日「白露山宗福寺」と改め、中庄大高寺の末寺になりました。
理岳院が天正年間に断絶した後、文禄二(1593)年に月光院(清明寺)が再興されたので五か所の村の107軒が月光院(清明寺)を菩提寺にしていましたが、宗福寺の再興に伴って計56軒が宗福寺を菩提寺としました。残りの亀岡(中村)の家々も客檀家になった経緯がしるされています。(一部、計31軒は月光院と宗福寺の檀家を兼ねたわけです。)
さて、新家谷の各寺がそれぞれ復興され、大光寺の末寺になっていく経過を市史史料、代々記で見てきましたが、私は前回③で大光寺の教線拡大は新田開発など経済力の背景がないと難しいと思うと書きました。清明寺のところで見ましたが五世暁誉上人が開いたとされる新田の全部を清明寺に寄付したわけではありません。新しい田地は地元の小作か、あるいは他から入植させた下人に作らせたということでしょう。その一部を寺の田にして寺の経営にもあてたということではないかと思います。今流の言い方をすれば、大光寺スポンサードの新田開発ビジネスの一環でもあったのかと考えてしまいます。
それと同じようなことで、よく検討をしないといけない史料があります。市史史料編の185~191Pに紹介されている文書です。(代々記には見当たりません。)
市史史料編では、「山田新五郎田地買得由緒書 寛文四(1664)年十二月五日 山田美貞氏文書」となっていますが、これは中庄村新川八良左衛門が新家谷の先年之庄屋の財産を買い取っていることが伺える文書です。
売主は新家先年之庄屋 中村 久内(花押)、中村 九太夫(花押)で、それに続いて同所先年ノ年寄 孫左衛門(花押)、・・・と全17名の名前が連署されており、紙数七枚半で50筆を超える田地や久内の屋敷が記されているものです。高にすると51石を超えています。私が分からないのは「山田新五郎田地買得由緒書」であるのに買主がなぜ「中庄村新川八良左衛門」なのでしょうか?。
さて、この中庄村新川八良左衛門とは、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の詳細な研究によれば、大光寺開基大旦那三善(新川)盛喜の曾孫に当たる人です。
盛喜-盛政-盛明-盛重 中庄代官
市郎左衛門 将軍家御持筒与力直参御家人
権右衛門 中庄上出村分家
〇西金(八郎左衛門)※盛重の子の後見役
↓
※(中庄代官代理、八郎左衛門家(湊浦庄屋)初代、佐野新川家(ふるさと町屋館の家)初代の人)。ちなみに、西金(八郎左衛門)等の母は熊取、中左近女で子供たちは中盛吉の孫でもあります。
山田家は代々記でも記載されるとおり、正保四(1647)年に樫井村から「中村落合垣外江引越シ、此人山田丈右衛門と云、」とあるように、新家山田家の祖先にあたる人ですが、その「山田新五郎田地買得由緒書」に記されるのは、買得したのは上記、新川八郎左衛門西金になっているのです。その詳しい理由は未解明ですが、上記のような開基大旦那家の活動と大光寺暁誉の新田開発、教線伸長が軌を一にしていることは間違いなさそうです。
(6/9追加)
泉州湊浦新屋一統
盛重(権七)の子の盛喜(五佐衛門)が幼かったために、中庄代官代理を務めた西金(八郎左衛門)は、新川八郎左衛門分家の初代となる人ですが、17世紀中期以降埋め立てにより成立した、中庄湊浦の庄屋を務めます。そして、ちょうど新家中村旧庄屋、久内の財産を買い取った寛文年間(1660~)の初め頃から、中庄村に泉州湊浦を拠点とした「新屋(あたらしや)一統」と呼ばれる廻船集団が勃興してくるのです。
新屋一統は「食一統」同様に一軒ではなく、湊浦の「里井家」「中家」「新谷家」といわれる家々で構成され、新屋一統として情報共有して廻船業を営んだことが分かってきています。そして、新屋一統が全国の各湊・浦に入津する際の船往来手形は、小堀備中守の累代中庄代官「新川○〇」によって発行されています。このように見ていくと、食野・唐金が廻船業だけでなくそれで得た資金を金融業や新田経営など多彩なビジネスで活かしていく構図と同様なものがみえてきますが、中庄新川家が当該ビジネスに具体にどのように絡んでいったかは今後の研究を待つところです。
中庄の奈加美神社(旧、大宮大明神)も大光寺開基大旦那の三善(新川)盛喜が造ったといわれていますが、当神社には中庄湊浦、新屋一統が寄進した「北前船」模型が展示されています。)
0 件のコメント:
コメントを投稿