ー「六尾村 正安寺」「馬場村 安養寺」のこと⑩ー
(このシリーズは①からお読みください)
六尾村には現在も浄土宗寺院の「阿弥陀寺」がある。最近は無住になったので葛畑村極楽寺住持が兼帯されている(童子畑村地蔵寺も同様)。近藤孝敏先生の調査によれば、寛永十六年の出入で大高寺末から離れた正安寺が一旦廃絶し、その寺跡に阿弥陀堂を再建、改めて幡代光明寺触下で知恩院直末の浄土宗寺院として再興されたのではとのこと。(天保十四年泉州日根郡寺社覚では堂守が管理する阿弥陀堂として搭 載あり)
馬場村の安養寺に関しては、私が以前「泉南歴史トピックス2 鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎⑤」で続者に馬場の小字地図資料によって馬場の「高城の宮(高城神社)」があった「字殿垣外」を示したが、当該「字殿垣外」に属する、現馬場老人集会所の右横に「安翔寺跡上地(アンヨウジアトカミチ)」という字表示が示されている。上地(かみち、じょうち)とは、幕府や藩が没収した土地のことなので、かつて当所に寺院があり、除地(じょち・年貢や諸役が免除された土地のこと)であったが、その後いつか上地となったと考えられ、寺号の漢字が違う点はあるものの、近世までは寺と社が近接する例が通常なので、当所が元安養寺跡と考えて差し支えないと思われる。(天保十四年泉州日根郡寺社覚では除地平地825坪とあり、中村(岡中)同様に寺社全体での面積と思われる。)
ただし、今後の課題としては、俵屋新田村の同名の「安養寺」との関係を調査・研究していく必要がある。馬場村、樽井村、牧野村はその村領が俵屋新田として開発されており馬場は「俵屋新田国市場」に隣接している。新修泉佐野市史によれば俵屋の安養寺は慶安四(1651)年に佐野村上善寺末として中興造営されており、法然寺の連続性の問題と同様の点を今後究明していく必要がある。
以上、寛永十六年の出入り以降、本寺大高寺不帰依という状態になってしまったとされる信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)について見てきたが、この事件が結果としてこれらの村が新しい檀那寺に変わるきっかけとなってしまったわけである。本シリーズを締めくくるについて、寛永十六年にあった新川盛明と長老真誉の紛争の内容について明らかにしておく必要がある。だだし、⑥の冒頭に示したのは開基大旦那側の言い分の史料なので、この内容が全ての原因かどうかはわからない。
(新川盛明が松井氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状下書き)
盛明が作成した長老の過失や末寺分断の状況を書き上げた箇条書きですが、近藤先生が翻刻してくれている内容をまとめますと、「くじこのミのゆへニて候」「朝暮のごんぎゃう(勤行)をもしかと不被仕候事」「魚鳥寺中へ被入候事」「ろう(牢)人かか(抱)へ置き被申、此ろう人いたつらもの(徒者)ニて候事」「寺のくりの内あらし被申候事」・・・
やはり盛明が怒るほど僧としては問題行動が多かったようです。寺の庫裏でなにをしていたのでしょうか。近世初期の僧たちをめぐる諸相はどのようなものだったのでしょうか。筆者が一番気になるのはやはり「くじこのミのゆへニて候」の点です。「くじ」とは「賭博」のことです。そして「寺銭」という言葉の語源は、江戸時代に寺社を賭博を行う場として選んで、賭博による儲けの一部を寺社に寄進したことからきているといわれています。
最近歴史家として注目をあつめる河合敦氏の考えさせられる「河合敦のコラム」を紹介して本シリーズを終了いたします。
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