ー「新家の続者からの要望におこたえします 前編」⑪ー
(このシリーズは①からお読みください)
本シリーズは一応⑩までで終了したのですが、新家の続者の方から「新家の「宗福寺」「清明寺」「浄福寺」の歴史が記事ではあまり分からない。」という声をいただきました。本シリーズはあくまで中庄大光寺(これらの寺の本寺)との関係で寺や村に関係したことを記すことを目的としたため、ご意見は当然だと思います。
新家谷の寺と対比する形で、信達庄の方は古い歴史がほとんど分からないと書きましたので、新家谷の古い歴史に期待されるのももっともだと思います。(本当は、ご自身で「日輪山清明寺代々記三谷古記」を読んでいただきたいのですが。・・)
そんなことから、またまた当シリーズ②で紹介した中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている「11 宗福寺 」「12 清明寺 」「13 浄福寺 」の「備考」に記されている文言の要約をご紹介する形でご要望にお応えすることにいたします。(大サービス)
((惣)宗福寺)
・前身は新家庄亀岡(下村)の理岳院蓮乗坊(高野山理岳法師開基、波岡蓮乗寺(不詳)を移転させたと伝わる)という真言宗寺院で、文明15(1483)9には、同寺僧が海会宮寺等の目代に就任、下って永正中頃(1509~17)に至ると、根来寺普照光院末寺(支流)となっていたという。
・天正13(1585)年の根来攻めの動乱で、三谷(新家庄)が「追い武者(返し武者)」のために放火され、理岳院を含む寺坊・地下が焼亡した。
・天正の兵乱で焼亡し、本院が断絶した理岳院空地に、慶長3(1598)、清岸房慶伝(宗福寺開山清誉、井出先氏末孫)が草庵(仮屋)を結び、約30年の間、籠居した。
・寛永3(1626)慶伝が土手岡(中村)の興行堂(興教堂)を「新切り通しの辻」(中村)へ移転させ、興行山惣福寺と称した。
・寛永4慶伝、理岳院を惣福寺へ移転、興行堂用材と合わせて堂舎一宇を造営して、同、8.14寺号を白露山宗福寺と改め、正式に大高寺末の浄土宗寺院として開基した。
・貞享3(1686)。3世秀誉回岩が宗福寺を再興し、大徳 と称された。
・宝暦9(1759)。棟札によって、宗福寺の現本堂が再興されたことがわかる。
・大阪府全志(大正11)では、清月院と院号を示し、佐野上善寺末とあり、当時は大光寺末を離れていた。
●「12清明寺」「13浄福寺」は次回とします。
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