ー大光寺と信達庄のかかわり⑤ー
(このシリーズは①からお読みください)
(天和年中(1681~83)の岸和田藩領信達庄部分(歴史館いずみさの所蔵))
さて、日根郡信達庄の中村(現、泉南市信達岡中)にあった浄土宗法然寺のことからはじまった当シリーズ。いよいよ中庄の大光寺(中本寺)と中村法然寺を含む信達庄の村々にあった末寺とのかかわりについて、近年の近藤孝敏先生による「中庄新川家文書」の研究によって判明してきた歴史と、筆者が以前から調査・研究した結果分かってきた歴史をご紹介したいと思います。
当シリーズで書いてきましたように、新家谷には、新家上村「日輪山清明寺代々記三谷古記」というすばらしい史料があり、大光寺と清明寺をはじめとする新家の寺の歴史は、それより古くからの新家谷の(寺や社の)歴史の中に、きちんと位置付けすることができます。大光寺の末寺化以前は根来寺の教線が新家谷を支配していた、もっと言えば根来(寺)からの進出が本格的な新家三谷の歴史の幕開けだったことがわかるのです。
では信達庄はといえば 、平安時代は「摂関家領信達荘」が存在していたことは文書で判明していますが、それ以外はなにも分かっていないというのが現実です。室町時代になって足利尊氏が建武四(1337)年に紀伊国伝法院(根来寺)に「信達荘」を寄進していますので、それ以降は徐々に近隣地域(現在の貝塚、佐野、泉南、阪南等)が根来寺の勢力下になっていくのですが、寺の直轄地だったわけですから、仏教の教線という点では「根来寺真言宗」が支配的であったことは容易に想像できます。しかし、南泉州の各地域が同様にそうであるように、天正十三(1585)年の秀吉和泉・紀州攻めによって、村々の寺はほとんどが焼かれており、それ以前の歴史がほとんど分からないという現状にあるのです。
なぜこのことに最初に触れるのかは、続者の誤解を回避するためです。今から語る歴史それ以前の村々に、新家谷同様の村や寺の歴史があったであろうことは当然考えられるのですが、分かっていないために語れないのだということを理解したうえでお読みいただきたいと思います。例えば私の檀那寺である寺やその他の村の寺にも、それぞれの前史があったこととは思いますが、伝承の域を出ないこと(例えば行基や道昭の創基伝承)をもって「歴史」とは言えないのです。
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