歴史はロマンと追憶の対象ではない。 歴史は未来への指針である。 私達の町や村がどのような歴史をたどって来たのか、歴史大好人間の清左とともに 覗きにいきましょう。
2024/12/27
泉南歴史トピックス3ー⑤ 続々、ゆきりの祖の史実性の検討
2024/12/25
泉南歴史トピックス3ー④ 続、ゆきりの祖の史実性の検討
続、「ゆきりの祖」の史実性の検討
「ゆきりの祖」伝承の史実性の検証は、「義民小平次」伝承の史実性の問題に飛び火したかたちとなりましたが、小平次伝承の方は昭和10年に顕彰碑が建立され、同年に岡部子爵や斎藤元首相が来泉し新聞等で大々的に報道されて以降、様々な形で泉州の郷土史の中で語られ研究されてきました。
昭和53年には、当該伝承を題材にした中野光風作の現代小説「和泉国馬場村騒動 義民小平次」が書かれ、小説の中で主人公が史実を探求するという形で検討がなされました。
さらに昭和62年の「泉南市史通史編」や、昭和64(平成元)年の郷土史家、谷美光氏の「おのさと第3集、馬場村小平次考」では、市内各所に眠っていた「古文書」の翻刻、読解を通じて、実は主人公は「小平次」ではなく小平次の先祖の「久助」であり、事件があった時代も「宝暦」年間から大きく(約120年も)遡った「寛永」年間であったことが明らかにされたのです。この二つの歴史研究は今日では当たり前になっている「史料実証主義」に基ずく研究として高く評価できるものです。(久助が村人の名代として犠牲になったことは事実ですが、その原因とされる事実は「出入」としか分っていないのです。)
以上のように、ゆきりの祖伝承における「若い頃に尊敬した同時代人の小平次」という物語構成要素が、小平次伝承の研究結果と整合しないことになり、ゆきりの祖伝承の創作性を現す結果となってしまっているのです。(久助の子孫の小平次は宝暦当時に実在しています。)
なお、ゆきりの祖伝承に関係する辻井利左エ門と岡部長備に関係する事績を、「岸和田市史」と「泉南市史」でも調べてみましたが、私が調べたかぎりにおいて関連する記載はありませんでした。
2024/12/24
泉南歴史トピックス3ー③ ゆきりの祖の史実性
泉南歴史トピックス3ー③
「ゆきりの祖」の史実性の検討
小平次を尊敬していた利左エ門
阿形賢一氏の「泉州むかし話・ゆきりの祖」をベースに、当該伝承の史実性を検討する場合、まずは馬場村に別途存在する「義民小平次伝承」との関連から見ることが必要である。「泉州むかし話・ゆきりの祖」では、
・利左エ門は若いころ父と同じ村役であった「小平次」を尊敬していて、医学の勉強のために江戸に旅立ったが、それが小平次との永の別れとなった。留守に起こった馬場の「藩の米蔵破り」の首謀者として処刑されたのである。とある。
・利左エ門が治療した岸和田藩主は岡部長備(ながとも)で、診療し回復させた褒美に岡中・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り、金熊寺川のなめんじょ橋分水(ゆ)から道光寺池への放流が許されるようになり、この取り決めはそれ以降つい最近まで続いた。というものである。
さて岡部長備(おかべながとも)は実在の人物で、宝暦13年3月4日(1763.4.16)生、安永5(1776)年に藩主を継いで、享和3年11月5日(1803.12.18)に没しており、岸和田藩第8代藩主である。
一方、馬場の義民小平次顕彰会が昭和10年5月6日に極楽(密)寺境内に建立した「義民小平次の碑」には、小平次は宝暦2年(1752)に郷倉を破って米を窮民に分け与えたことで捕らえられ斬首刑に処せられた。享年48歳であったとされている。
小平次の死亡は宝暦2(1752)年であり、利左エ門は小平次を若い頃に憧れ、その後成人し医者になって、何時かはさだかではないが長備公(1763~1803)の病気を治療した。このように見ていくと、どうも利左エ門が長備公の治療をしたことは、歴史軸(時間軸)に照らし合わせてもあまり矛盾はなく、その点では一定の整合性があるように思える。(一例:小平次死亡時に利左エ門10歳として→61歳時に1803年、長備治世と一致)
ただしこれは「義民小平次の碑」に記されている事件の内容が、間違いなく史実であった場合という条件つきではあるが・・・・。


