泉南歴史トピックス3ー③
「ゆきりの祖」の史実性の検討
小平次を尊敬していた利左エ門
阿形賢一氏の「泉州むかし話・ゆきりの祖」をベースに、当該伝承の史実性を検討する場合、まずは馬場村に別途存在する「義民小平次伝承」との関連から見ることが必要である。「泉州むかし話・ゆきりの祖」では、
・利左エ門は若いころ父と同じ村役であった「小平次」を尊敬していて、医学の勉強のために江戸に旅立ったが、それが小平次との永の別れとなった。留守に起こった馬場の「藩の米蔵破り」の首謀者として処刑されたのである。とある。
・利左エ門が治療した岸和田藩主は岡部長備(ながとも)で、診療し回復させた褒美に岡中・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り、金熊寺川のなめんじょ橋分水(ゆ)から道光寺池への放流が許されるようになり、この取り決めはそれ以降つい最近まで続いた。というものである。
さて岡部長備(おかべながとも)は実在の人物で、宝暦13年3月4日(1763.4.16)生、安永5(1776)年に藩主を継いで、享和3年11月5日(1803.12.18)に没しており、岸和田藩第8代藩主である。
一方、馬場の義民小平次顕彰会が昭和10年5月6日に極楽(密)寺境内に建立した「義民小平次の碑」には、小平次は宝暦2年(1752)に郷倉を破って米を窮民に分け与えたことで捕らえられ斬首刑に処せられた。享年48歳であったとされている。
小平次の死亡は宝暦2(1752)年であり、利左エ門は小平次を若い頃に憧れ、その後成人し医者になって、何時かはさだかではないが長備公(1763~1803)の病気を治療した。このように見ていくと、どうも利左エ門が長備公の治療をしたことは、歴史軸(時間軸)に照らし合わせてもあまり矛盾はなく、その点では一定の整合性があるように思える。(一例:小平次死亡時に利左エ門10歳として→61歳時に1803年、長備治世と一致)
ただしこれは「義民小平次の碑」に記されている事件の内容が、間違いなく史実であった場合という条件つきではあるが・・・・。

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