2025/09/27

清左の歴史深堀り5 六尾村は宿駅(宿場)だったのか~?

 

  以前、当ブログの別の話題の時にもとりあげましたが、「・・・根来方面から泉南側への近世初めのルート(三畑超え)は、金熊寺から六尾を経て直接新家に至るルートだった」と書きました。(トピックス4 信達市場唐金新田の謎にせまる③)

 R7/10/11の史跡探訪は六尾村までいきますので、この辺のところをはっきりさせておきたいと思います。まずは「和歌山市史第五巻、浅野長愛氏所蔵 諸事覚書(抄)」です。

写真ではよくわからないのでその部分を下に記します。

〇紀伊国 和泉へ出ル道筋覚

一、 きやうし長尾越 但下貴志平井谷 和泉之内ふけ淡輪口へ出ル

一、 井関越 但直川 いつミノ内とつとりノ市場へ出ル

一、 鬼山口越 但山口 和泉ノ山中へ出ル

一、 きんにやうし越 但根来坂本 和泉ノ内新家へ出ル

一、 大木越 但粉川しのぢんず いつミの内大木へ出ル


次に、新家清明寺代々記所収の「永禄元亀の絵地図」です。

 新修新家古記の世界「解説・清明寺文書について」(松本芳郎氏 144P、(抄))

「①中世における三谷の集落の発展と人々の関心の方向は、現在のわたしたちが考えるような新家川の本流の方向ではなく、その支流の柳谷川沿いの川筋、つまり本文の「永禄元亀の絵地図」にある「大道」にそった方向であったということです。このことによって、この方向の三笠になぜおびただしい寺社があったかということが理解できます。

②人々の関心がなぜ「大道」にそった方向であったかというと、この大道は現在のイヤカサ池付近を通り六尾から根来寺に通じた、和泉国と根来寺を結ぶ主要道路であったからです。この大道を通して根来寺の支配が貫徹し物資の輸送が行われたことでしょう。絵地図には大道の沿道に舞子茶屋、七軒家、岩坂茶屋、牛馬屋、御茶屋という地名が記されていますが、大道の理解によってはじめて可能な地名です。・・・(以下略)」


 現在においても、その道の痕跡はゴルフ場のなかにも残っています。図右上の欠けている池が佐野池、その右が椋谷池、その右がイヤカサ池へとつづきます。六尾村側は近年の「耕地整理事業」で、圃場のありようが大きく変わりましたが、この道の痕跡は残っています。

 さて、以上のことは一つ前の記事(清左の歴史深堀り4)でも紹介した「ひがしの歴史」の81P、「六尾地区」の1行目で「名称起源・・・六つの尾根に由来する。根来街道の宿駅であった。」と記されていることでもわかります。
 さらに、大阪府教委が昭和62年に出した「熊野・紀州街道 歴史の道調査報告書」には、「集落の入口には六尾橋がかかっている。・・・集落に入って130mほど行くと左折する道がある。新家に行く道で、往時佐野の湊から新家に入りこの道を通って紀州にぬけたといわれている。」(9 三畑越(根来路)109P)と記されています。

 なお、極めて古い話になりますが、「田尻町史」には第四代御室門跡覚法法親王の高野山参籠の日記が紹介されています。(「御室御所高野山参籠日記、久安三年(1147)から同六年までの四年間の五度にわたる参籠日記)(「田尻町史」35P~所収。中世日根湊が現在の田尻漁港に比定されることから論及している)。
 第一回目の行程は以下のとおりです。
※(往路)久安三年5月2日京都~窪津~住吉(泊)、3日住吉~日根湊~新家(泊)、4日新家~埴崎~名手(泊)、5日名手~慈尊院~高野山中院。
※(復路)久安三年5月21日高野山~名手(泊)、22日名手~新家(泊)、23日新家~日根湊~住吉~大渡(船中泊)、24日大渡~山崎(船中泊)、25日山崎~仁和寺

 当時新家荘は仁和寺領であったらしいので往復とも、あるいはどちらかは必ず新家で一泊しているようです。この時のルートについて以前私なりに考えたことがあります。今回取り上げている三畑越え(新家ー六尾・金熊寺ー三畑ー根来)なのでしょうか?。そのようにも思えます。

 しかし、新家~埴崎の「埴崎(はんざき)」は皆さんも歩いて知っている「吐前王子」の吐前です。吐前からは紀の川の川船に乗ったのでしょう。三畑越えならば根来からわざわざ船に乗るために吐前まで戻ることはないと思います。根来には「船戸」という河湊があったのですから。(蛇足ですが、船戸とは古い時代に船を綱で引いた人やその人達がいた場所のことのようです。)やはり雄山越え(熊野街道)だったのだと思います。

 そしてもう一点、「根来」の歴史の第一歩は、保延六年(1140)に覚鑁(かくばん)上人が高野山より弘田庄豊福寺(後の根来寺建立地)に止宿したことに始まりますが、後に頼瑜(らいゆ)上人が高野山から大伝法院を根来に移したのは、正応元年(1288)なのです。
 根来街道(三畑越え)は根来寺の歴史と切り離すことは出来ません。歴史軸に照らして考えていくと、御室門跡が高野に参籠した頃は、三畑越えがあったのかどうかは疑わしいのではないでしょうか。(あったならば近いのですから使うはずです)

(9/26追加)
・吐前はJR和歌山線の「布施屋」駅付近ですが、「船戸」駅の二つ和歌山市寄りの駅になります。位置的には吐前は雄山峠を抜けた山口のちょうど南に位置します。また、船戸は風吹峠を抜けた根来のちょうど南に位置します。

(9/27追加①)
・新家と六尾をつなぐ道が昭和10年代くらいに描かれた「砂川案内図(阪和電鉄)」のパノラマ絵図に残っています。


写真を拡大してご覧ください。図の一番上の道がそうだろうと思われます。高倉山の奥が現ゴルフ場ですから、六尾→六尾梅林→椋谷池→笠山(の裾)に至る道が所謂、六尾の方たちが今も言う「しんげみち・みずまみち」だと思われます。

(9/27追加②)
 陸軍が明治18年~22年頃に測量して作成した地図です。マーカーで記しましたが、六尾ー新家をつなぐ「しんげみち」です。新家の宮や野口、高野等をへて水間にもつながっていたのだと思います。

明治や江戸時代には「自動車」はありません。人の移動は徒歩もしくは馬(そして船)での移動しかなかったのです。移動の機会も今では考えられないほど少なかったでしょう。六尾ー新家ー佐野ルートが盛んだったのは何故だったのでしょうか?。六尾ー牧野(オンドリ)が主流になるのはいつ頃からなのでしょうか?。

 私はいろいろ考えてしまいますが、やはり早い時代から「佐野」という町場のポテンシャルが「樽井」に比べて圧倒的に高かったからかもしれません。また、阪和電鉄の信達駅(現和泉砂川駅)ができたのは昭和になってからなのです(昭和5年)。

 根来街道の牧野(オンドリ)より海側の道が、永寿下池の堤道でなく付け替えられたのはいつ頃なのでしょうか?。おそらく自動車(トラック)が街道を走るようになってからだと思うのです。その頃には「しんげみち」の役割は終焉を迎えたのではないでしょうか。

2025/09/20

清左の歴史深堀り4 童子畑の手前に「楠畑」、楠畑川上流に「奥楠」の絵図の謎


(天和年中(1681~83)の岸和田藩領絵図写の信達庄部分)

 童子畑の手前の金熊寺川・楠畑川分岐付近に「楠畑」の表示があり、また、楠畑川上流に「奥楠」の表示があるこの絵図。一度「何故なんだ・・・」と思いだしたら調べたくなります。この絵図(史料)の表示を考えていくための二つの資料を発見しましたのでご紹介いたします。


 一つ目は、「ひがしの歴史」という郷土史本です。(「ひがしの歴史」刊行会、 1995年(平成7年)3月、東小学校・東幼稚園)この郷土史資料の81P、「楠畑地区」の1行目には「伝承・・・昔、戦いに敗れた武士が移住し畑を開いた。」、2行目に「楠畑=奥楠畑、童子畑=口楠畑、楠畑から童子畑に移住した人を口楠(くちくす)と呼んだ。」という記述があります。


 二つ目は、「泉南市信達童子畑地内 童子畑遺跡・童子畑北遺跡 主要地方道泉佐野岩出線道路整備事業に伴う埋蔵文化財調査報告書」(2006年2月 財団法人大阪府文化財センター)です。

 当該報告書の序文では、「街道沿いの字名「大門」は根来寺の門であったなどという伝承も残ります。したがって、今回調査では、根来寺との関わりがあった時代の遺跡が検出されるのではないかと推測されていました。ところが、・・・・・」

 根来街道の道路整備に伴って行われた遺跡調査。結論から言いますとこの調査では古い遺構や遺物は検出されていません。しかし、当該報告書の「付章 第2節、童子畑のその他歴史資料 2.他集落の地番」で報告されている箇所が重要です。その部分をそのまま紹介します。

(報告書11P、図9 泉南市信達童子畑 調査区周辺字名図)

(報告書13P、上から12行目以降)「童子畑の楠畑地番は、とくに丸山の西側・東南側に多い。図9東南側に続く東南部中心集落、また、西北部小集落も、中心を占める居住地は楠畑地番である。さらに、楠畑地番居住家は、基本的には同姓のようである。図9南側に大字楠畑が続くことになるので、ある時期に楠畑から童子畑は分村(むしろ村切り)されたとの推測ができるのかもしれない。」とあります。


 たしかに楠畑には郷土史家には有名な大雄寺境内の「六十六部石碑」正平22年(1367、正平は南朝年号)が残されているし、葛畑の八坂神社「供養塔」は応安7年(1374、応安は北朝年号)と、中世南北朝時代にさかのぼる遺物が残されていますが、童子畑には今のところ近世遺物しか見つかっていません。その意味で楠畑、葛畑に比べては新しい村なのかもしれません。


 話は変わりますが、先に紹介した「ひがしの歴史」の81P、「堀河地区」の2行目には「南北朝時代に両軍がこの地を通り交戦した。」と記されています。楠畑・葛畑両地区の石碑の時代には、正平24年(1369)に楠木正儀(正成の子)が北朝に降伏しているし、康暦元年(1379)には、幕府(北朝側)の南征軍が橋本正督の土丸城を攻略しています。この地区にはまさに南北朝合戦の痕跡が刻みこまれていると思われるのです。それにしても他市に比べて歴史研究が遅れている泉南市、急がないと重要な歴史遺物も保存できなくなってしまいます。

 さて、童子畑の話が楠畑の話になってしまいましたが、「楠畑」の楠はひょっとして「楠木」の楠からきているのではないかと考えたりしたら、皆さんから笑われてしまうでしょうか。

(9/21追加)
・すぐに読んでくれた続者から、「「村切」とはなに?聞いたことない。」と質問を受けました。以前に例会で説明した記憶があるのですが・・・・。すみません。
「村切り」はこちらから。    また、参考として「村請制」はこちらから。
 

 

2025/09/02

清左の歴史深掘り3  新家の交差点にある古い「歴史街道」カンバン。

 

(新家駅から海側におりた「交差点」にある古い「歴史街道」看板。ローソン駐車場横)


上は新家地区の泉南市民歴史倶楽部の会員さんから「連絡・質問」を受けて、現地に赴いて撮った写真です。看板のある場所が分かりやすいように下に地図を示しました。

 会員さんの質問は3点、①「歴史街道」とは何なのか?(歴史的な街道の説明表示なのだと思うが・・・)②随分古くなって、説明表示が欠落してしまっているが、何を書いていたのか?。③この「歴史街道」は何という街道だったのか?(熊野街道?、紀州街道?、それとも山側に行く粉河街道?)というものだった。

 実は私もこの場所を通る度に気にはなっていたが、自動車で通り過ぎることが多くついそのままになってしまっていたのだった。

 まずは「歴史街道」の取り組みについて「ネット」で調べてみた。歴史街道のHPの中で「歴史街道とは」を開けてみると、以下のとおりで少し長いがそのまま紹介する。

『「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋をつくり、内外に発信していこうー    

 国際社会のなかで自国の文化や歴史を語れない、という問題意識のもと、1988年「歴史街道づくりの提言」が発表されました。この提言を受け経済界、行政、民間企業の賛同を得て、1991年、歴史街道推進協議会が発足。現在、官民および歴史街道計画を応援する「歴史街道倶楽部」会員の支援をいただき各種事業を進めています。「歴史街道計画」は、先人から受け継いだ豊かな歴史文化を次の世代につなげていく、まさにSDGsの取り組みです。」』となっている。

 関西の経済界(関経連)と府県(行政)や学識で組織された協議会が推進主体であり、30年以上経ってはいるがHPは更新されており、「歴史街道」というタイトルのTV番組やPHP社から出ている同名の歴史雑誌もみかけたことがある。

 ということで、①の「歴史街道」とは何なのか?、については上記のとおり、関西財界と行政が協力した推進協議会が進める「「広い意味」で先人から受け継いだ豊かな歴史文化を次の世代につなげていく取り組み」ということができそうである。 

 ②については、調査に困難を極めた。道路わきのフェンスに頑丈に設置されており、単なるカンバンではなく「道路占用物」ではないかと思った私は、大阪府庁に電話で照会したがなかなか要を得なかったが、やはり府に「歴史街道」の担当窓口はあって、実際に当該場所にカンバンを設置したのは岸和田市にある府の出先機関である「大阪府民センター(岸和田土木事務所)」であることが判明した。

 府民センター(岸和田土木事務所)に架電照会してからも回答に時間はかかったが、(古いことなのである程度時間がかかるのは致し方あるまい)後日、照会を受けた職員から電話回答があり、「看板に記されていた内容は、⒜山側に行けば新家の山田家住宅がある。⒝道を少し行けば「厩戸王子」がある。」ことを案内していたとのことである。質問③のこの道が何という街道なのかを尋ねても判らない様子だった。そして、「当該カンバンを設置する時点では地元市町村(泉南市)と協議、調整のうえ設置している。」とのことであった。

(ローソン駐車場から見た交差点付近、真ん中は府道㉚で左が病院で右がGS。)

(交差点付近から見た府道251田尻新家線。樫井の大正大橋方面から)

 岸和田土木事務所の職員も古い時代のこの道(府道30、あるいは府道251)が何街道なのかは知らなかった。(紀州街道、熊野街道ではないのか?・・・という風だった。)

さて、古くはこの二つの道は何街道だったのであろうか。


 上の地図は、陸軍が明治18年~22年頃に日本ではじめて測量技術に基づいて作成した地図である。もちろん当該図には南海電鉄や阪和線は無いし、国道㉖や旧国道㉖(府道204)もありません。あるのは、樫井川に沿って「紀州街道(熊野街道)」があるだけで、この道は後に国道29号線になりました。紀州街道以外は、樫井村から大正橋を渡り、すぐ兎田村に行く道。大正橋から下村に行き、下村から新家村(中村)へ、そして上村に行く道。上村から宮に行く道が記されています。また、新家村(中村)から兎田に行く道もあり、新家村(中村)から野口を経て高野へ、そして別所へ行き、別所からは上之郷の下村にもつながっています。要は集落間の里道ネットワークだけなのです。

 上の看板が設置された、府道30号も府道251号も全く元となる里道すらもないところに昭和になってから作られた道の交差点なのです。

 現在の「紀州街道(熊野街道)」と言われている道も、微妙に道筋が変わってしまっている箇所は数多くあります。しかし、「先人から受け継いだ豊かな歴史文化を次の世代につなげていく」ためにも、もう少し「歴史を大切にする」必要があるように思います。

 新家地区は、泉南市の中でもとりわけ昭和~平成の流入人口が多く、古くからの住民よりも新住民の割合が多い地域です。当該カンバン地点が紀州街道(熊野街道)と勘違いする人がいないように願うばかりですし、推進協議会・府、市が知恵と力を合わせて、当該カンバンも「持続可能」なものにしてくれるよう祈るばかりです。(個人的には設置場所から見直す方がよいと思いますが、皆さんはいかがですか。)

2025/09/01

今年も10/5(日)から2025新川塾。私はトップバッターで登場します。



清左のいい話④

2025年度「新川塾」。10月5日(日)から「ふるさと町屋館」ではじまります。

今年も「泉佐野ふるさと町屋館」恒例の「新川塾」が、10/5()12/14(日)までの原則土・日曜日午後2時から3時30分まで、11回連続シリーズで行われます。

私は初日にトップバッターとして、泉佐野市と泉南市の両市に関係する「唐金新田の謎にせまる -唐金興隆の開いた新田とはどこかー」というテーマでお話させていただけることになりました。

くわしくは「ふるさと町屋館 新川塾」のページから。

(私の担当日)

と き  令和7年10月5日(日)午後2時~3時30分まで

ところ 泉佐野市本町5-29  TEL072-469-5673

申込み 電話同上、FAX072-479-6789

※みなさんの御参加をお待ちしています。