2025/09/20

清左の歴史深堀り4 童子畑の手前に「楠畑」、楠畑川上流に「奥楠」の絵図の謎


(天和年中(1681~83)の岸和田藩領絵図写の信達庄部分)

 童子畑の手前の金熊寺川・楠畑川分岐付近に「楠畑」の表示があり、また、楠畑川上流に「奥楠」の表示があるこの絵図。一度「何故なんだ・・・」と思いだしたら調べたくなります。この絵図(史料)の表示を考えていくための二つの資料を発見しましたのでご紹介いたします。


 一つ目は、「ひがしの歴史」という郷土史本です。(「ひがしの歴史」刊行会、 1995年(平成7年)3月、東小学校・東幼稚園)この郷土史資料の81P、「楠畑地区」の1行目には「伝承・・・昔、戦いに敗れた武士が移住し畑を開いた。」、2行目に「楠畑=奥楠畑、童子畑=口楠畑、楠畑から童子畑に移住した人を口楠(くちくす)と呼んだ。」という記述があります。


 二つ目は、「泉南市信達童子畑地内 童子畑遺跡・童子畑北遺跡 主要地方道泉佐野岩出線道路整備事業に伴う埋蔵文化財調査報告書」(2006年2月 財団法人大阪府文化財センター)です。

 当該報告書の序文では、「街道沿いの字名「大門」は根来寺の門であったなどという伝承も残ります。したがって、今回調査では、根来寺との関わりがあった時代の遺跡が検出されるのではないかと推測されていました。ところが、・・・・・」

 根来街道の道路整備に伴って行われた遺跡調査。結論から言いますとこの調査では古い遺構や遺物は検出されていません。しかし、当該報告書の「付章 第2節、童子畑のその他歴史資料 2.他集落の地番」で報告されている箇所が重要です。その部分をそのまま紹介します。

(報告書11P、図9 泉南市信達童子畑 調査区周辺字名図)

(報告書13P、上から12行目以降)「童子畑の楠畑地番は、とくに丸山の西側・東南側に多い。図9東南側に続く東南部中心集落、また、西北部小集落も、中心を占める居住地は楠畑地番である。さらに、楠畑地番居住家は、基本的には同姓のようである。図9南側に大字楠畑が続くことになるので、ある時期に楠畑から童子畑は分村(むしろ村切り)されたとの推測ができるのかもしれない。」とあります。


 たしかに楠畑には郷土史家には有名な大雄寺境内の「六十六部石碑」正平22年(1367、正平は南朝年号)が残されているし、葛畑の八坂神社「供養塔」は応安7年(1374、応安は北朝年号)と、中世南北朝時代にさかのぼる遺物が残されていますが、童子畑には今のところ近世遺物しか見つかっていません。その意味で楠畑、葛畑に比べては新しい村なのかもしれません。


 話は変わりますが、先に紹介した「ひがしの歴史」の81P、「堀河地区」の2行目には「南北朝時代に両軍がこの地を通り交戦した。」と記されています。楠畑・葛畑両地区の石碑の時代には、正平24年(1369)に楠木正儀(正成の子)が北朝に降伏しているし、康暦元年(1379)には、幕府(北朝側)の南征軍が橋本正督の土丸城を攻略しています。この地区にはまさに南北朝合戦の痕跡が刻みこまれていると思われるのです。それにしても他市に比べて歴史研究が遅れている泉南市、急がないと重要な歴史遺物も保存できなくなってしまいます。

 さて、童子畑の話が楠畑の話になってしまいましたが、「楠畑」の楠はひょっとして「楠木」の楠からきているのではないかと考えたりしたら、皆さんから笑われてしまうでしょうか。

(9/21追加)
・すぐに読んでくれた続者から、「「村切」とはなに?聞いたことない。」と質問を受けました。以前に例会で説明した記憶があるのですが・・・・。すみません。
「村切り」はこちらから。    また、参考として「村請制」はこちらから。
 

 

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