2025/11/05

二つの「桜地蔵」と二つの「温泉」のはなし。

 


    (旧道からの桜地蔵の場所)

(元々の桜地蔵の場所の写真)

 二つの桜地蔵といっても新・旧の桜地蔵のことではありません。(元々あった桜地蔵を覚えておいてほしいのです)。以前には根来行き南海バスの「桜地蔵バス停」がありました。(今の「市コミバス」停の50mほど海側でしょうか。)


 今回取り上げる話題は、根来街道の桜地蔵は元の場所でないと話が成立しないのです。私は常々、歴史(特に郷土史)を考えるについて、「道」の問題と「川」の問題が極めて大切だと考えています。

 元々の桜地蔵は、金熊寺川支流の楠畑川とその川筋に沿って出来た楠畑道の分岐にありました。三畑越えをいく人はここで旅の安全を祈り、桜の枝を折れば腹が痛くなったという言い伝えがあったそうです。

 「東の歴史」という郷土史本によれば、現在の「楠畑集落」は近世初期は「奥楠」と呼ばれ、根来街道分岐の集落(童子畑)付近が「楠畑」で、奥楠から童子畑に移住した人たちのことを「口楠」と呼んだと記されています。どうも江戸時代の寛永年間(1624〜44)に「(旧)楠畑」が村切りされて、二村に分かれたようです。


 楠畑川に沿って楠畑道を遡りますと、約2〜3キロ先は現在の楠畑集落です。

 楠畑の大雄寺境内には正平(南朝年号)22年(1367)7月10日の六十六部碑があり、少なくとも南北朝時代からの古い村であることがわかります。しかし今の大雄寺自体は昭和12年に、童子畑の地蔵寺の布教所が独立して出来たらしいのですが、もう随分以前から無住で新家中村の宗福寺の御住職が兼帯されていると聞いています。


 楠畑集落の小道を過ぎてさらに進んでいくと、四石山山嶺「槌の子峠」の少し手前に「楠畑温泉」という温泉♨️があったそうです。明治の初年頃までは療養向け温泉として客を迎えていたようです。さらに峠を越えて行くと今度は和歌山県岩出市の境谷村にも「境谷温泉」があって、これら二つの温泉は同質冷泉、胃腸病、冷え込みの諸病に効能があったそうです。

 この境谷村にも「地蔵寺」という寺があることを皆さん知っているでしょうか。偶然としては出来過ぎていませんか。

sakurazizou

(雄山の桜地蔵)

 極め付けはさらにこの道を行けば、紀州(熊野)街道に出るのですが、その三叉には「葛城二十八宿 第四番経塚「信解品」」通称、桜地蔵があるのです。桜地蔵はここからも。(紀州街道桜地蔵のある場所は、ギリギリ阪南市山中渓になります。)


 昔の人に聞くと、楠畑では年末の買い物は根来の坂本市に行ったようですし、阪和線が出来てからも、「砂川」ではなく「山中渓」に出たようです。どっちみち徒歩なので、山中に行く方が近くて早かったらしいのです。時代と共に人の通る道も変わっていきます。楠畑←→境谷の道はもちろん今は自動車は通れません。昔は「単車」は通れたのでしょうか。「信達紀要」(信達町役場発行)によれば、江戸時代に岸和田藩士の土屋鳳州が、境谷と楠畑の両温泉で数日間静養し詩を残したとされていますので、馬は通れたのかもしれません。


 さて、(雄山の)桜地蔵の場所から、「淡輪文書」に出てくる南北朝合戦井山城は直線距離で4キロ程しか離れていません。井山城関係の続きはここからも。

 また、(風吹の)桜地蔵から、五所(御所)谷と呼ばれる後村上天皇仮御所伝承のある大木地区は5〜6キロ程しか離れていないのです。これら地域の南北朝時代の歴史が解き明かされる日がいつかは来るのでしょうか。


 


 


1 件のコメント:

  1. こんにちは。楠畑はもともとどうやってできた集落なのか知りたくてたまたま見つけて読ませていただきました。親戚がいるので時々行きますがこんな山奥に初めて住み着いた人はどういう人たちだったのかなんだかロマンを感じます。
    集落の手前の畑の中に冷泉があるようで子供の頃それを温めたお風呂に入ったことがありますが山の中にも温泉があったとは初耳です。
    桜地蔵の辺りもずいぶん風景が変わってしまいました。道がきれいになって便利にはなりましたが昔の風景は無くなっていきますね。記録に残してくださってありがとうございます。

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