2026/01/30

日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?(後編)


「日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?」は「前編」からお読みください。 

(根来寺坊院復元模型 和歌山県立博物館。「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」図録集より) 


 前編では、「契約状」の時代が、同時に経済力を持つ有力な村人(地侍)が生まれてくる時代と重なっていることを示し、熊取町の中家を例として一族の師弟を根来寺の「成真院」の僧としていたことをあげ、「根来寺は泉南地方や紀州の地侍が村のわくを越えて連携する拠点として成長し、経済力・政治力の維持・拡大をはかる一つの軍事勢力となっていったことを紹介しました。


(「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」71P下より、「根来寺伽藍復元図(14世紀)より)1300年代


(同71P上より、「根来寺伽藍復元図(16世紀)より)1500年代


◼️根来寺の武力はどのように構成されていたのか
 さて、和歌山県立博物館の図録集「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の68Pからは、『三 根来寺坊院の生活』として、

 「室町時代後期頃から、根来寺の山内には僧侶たちが暮らす坊院が増加しました。その総数は四百五十を越えていたようです。これは根来寺が地域の巨大権力となり、周辺の土豪たちが寺内に基盤を持つことで、根来寺の力を背景に権益を守ろうとしたことによるものです。この坊院での暮らしを彷彿とさせる資料が近年の発掘で続々と見出されています。・・・」と紹介しています。


 上記の伽藍復元図では、1300年代の様子と1500年代の様子が復元されていますが、下の16世紀(1500年代)のものでは、大伝法院を取り巻く平地だけでなく、根来寺の北に広がる和泉山脈の谷だにの奥深くまで、その坊院が大きく広がっている様子がうかがえるのです。根来寺に残る「根来寺伽藍古絵図」は、近世になってから描かれたものですが、描かれている内容は中世の根来寺を類推することのできるものです。


(根来寺伽藍古絵図。「根来寺文化講演会&シンポジウム「中世根来の実像を探る」の掲載資料

 以上のことは、和歌山県立博物館「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の図録集(平成十四年(二〇〇二)十月五日発行)の大河内智之先生による巻頭論考の「二 根来寺の隆盛」内(7P上段)で、


 「・・・十六世紀ではこの総数は四百五十を越えていたようである。先に見てきたように根来寺の経済基盤が安定し、地域の巨大権力になるにつれて、紀北及び泉南地域の土豪勢力が相次いで根来寺に寄りそい、自らの勢力維持のための後楯としていた。たとえば日前宮領荘官の林家に関する資料(林家文書・和歌山市立博物館蔵(33))では、根来寺院家が加地子の集積を行ったり、高利貸を行っている様子がよく分かる。
 
 荘園制の解体期にこういった盛んな経済活動を行って頭角を現した新興勢力が寄り集まったことで、根来寺総体としての性格は、かつての学問寺院ではなく、戦国的な領主へと変化していく。こういった新興勢力は根来寺では行人方と呼ばれる身分におかれ、学侶の下位におかれていたが、軍事力と経済力をもっているが故に、次第に実質的な経営を握るようになったいわゆる根来衆・根来僧兵とはこの行人たちのことであるが、彼らは基本的に修験道の行者であり、戦時には長髪で鎧・兜を身につけていたのであって、一般に喧伝される頭巾をかぶった黒衣のイメージは誤ったものである。」と説明してくださっています。「根来寺の武力は如何に構成されていたのか?」その答えがこれなのです。

(参考)
 ※以前に当ブログで書いた「閼伽井坊少納言」も参考として御覧ください。


◼️根来寺の所領(勢力範囲)


「根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」図録集45P参考ー3 「根来寺領荘園の推移」より。【凡例】として、🟢当初からの根来寺領、 🔵元弘の勅裁によって失われた寺領、🔴南北朝期以降、増加した所領」


 上図の解説が、153Pに載っています。「参考ー3根来寺領荘園の推移  根来寺の所領は、大伝法院・密厳院に付属する荘園として、その成立の当初から立券されていた・・・・・の諸荘園と、南北朝期以降、大般若経の四季転読料として寄進された信達荘(現泉南市)や、加地子名主識(かじしみょうしゅしき)の集積によって地主的な支配を強めていった諸荘園とに大別される。・・・・後者の荘園への進出は時期的にそうした荘園の喪失(元弘の勅裁によって失われた荘園、筆者)と入れ替わりに、根来寺が獲得した新所領であった。ただし、こうした所領は耕地片からあがる加地子米を取得する権限を集積したもので、年貢・公事を賦課しうる荘園領主としての権限を持ち得ていたわけではない。しかし、根来寺が豊かな経済力を背景に泉南地域に進出していったことは、この地域の政治情勢にも大きな影響を与えた。」と説明してくれています。


 ※ここで面白いHPをご紹介します。中世も時代が進み後期になればなるほど、生産力も上がってきて、「荘園領主の年貢」よりも、加地子名主識の集積」の方が大きくなってくる例もあるのです。


 地図で分かりにくかったらいけませんので、和泉南部の「🔴南北朝期以降、増加した所領」を明示しておきます。北から🔴近木荘(貝塚)、🔴麻生荘(貝塚)、🔴鶴原荘(泉佐野)、🔴熊取荘(熊取)、🔴日根荘(泉佐野)、🔴佐野荘泉佐野)、🔴長滝荘(泉佐野)、🔴吉見荘(田尻)、🔴信達荘(泉南)、🔴箱作荘(阪南)、🔴深日荘(岬)

 康正三年(1457)六月廿六日に、和泉国日根郡の九人の武士が一味する契約を結んだ和泉国日根郡国人等契約状」にでてくる九人の武士達の根拠地、勢力範囲と思われる地域の多くは根来寺が獲得した新所領になっています。


 もちろん上記の和泉南部の荘園が、根来寺新所領になっていった時期は、「契約状」を結んだ時期よりも下ることが多かったのではないかとは思いますが、それぞれの地域の内部では、それ以前から頭角を現してきた新興勢力が、根来寺という強力な結集軸を持つなかで、それまでの守旧勢力(守護被官や国人)に対峙する勢力として成長してきた時期と重なると思えるのです。

 「契約状」を結んだ年代と、史料に残る和泉南部への浸出の時期の単純比較ではなく、和泉南部荘園内の村々における新興勢力の台頭こそ着眼しなければならない点だとおもいます。前編で紹介した略年表を見てください。

1417 日根荘で百姓請が実現
1428 【正長の土一揆おこる】
1429 日根野村・入山田村が九条家の支配となる。が、部分的に押領される
1446 十二谷池の分水・管理につき日根野・井原・檀婆羅密寺村が契約
1457 日根野加賀守秀盛ら九人衆、一揆契約を結ぶ

 百姓請の実現や正長の土一揆、村々による十二谷池の分水・管理契約など、「惣村」の成長こそが、村々における新興勢力の台頭につながっているのであり、これらの拠り所、結集軸が根来寺だったのではないでしょうか。


◼️「知の拠点」としての根来寺
 そしてそれは、単なる軍事力、経済力という点だけでなく、宗教勢力としてのイデオロギーや学問、技術、文化といった様々なことが紀北・泉南地域に大きく浸透してきた時期だと思うのです。中世の寺社、とりわけ僧侶の活動は多岐にわたり、社会基盤の構築に不可欠な存在でした。

○土木・建築技術
 寺院や神社の造営・修復には高度な建築技術が必要でした。僧侶(「大工」と呼ばれる役職)は、木造建築の構造設計、資材調達、現場監督といった役割を担っていました。また、大規模な土木工事にも関わりました。
・治水事業:洪水対策のための堤防建設や、灌漑用水路の整備
・架橋技術:橋の建設、維持管理
・港湾整備:交通の要衝となる港の整備

○知識と教育
 中世では文字の読み書きができる者が限られており、僧侶は貴重な知識人でした。大陸から伝わった最新の学問、天文学、数学、医学などの知識は、寺院を通じて流入し蓄積されました。建築や土木工事の計算、暦の作成などに不可欠でした。

○金属加工・鋳造技術
 仏像や梵鐘の鋳造には、高度な金属精錬・加工技術が必要でした。これらの技術職人集団と寺院は密接に結びついていました。

○社会経済活動
 僧侶は「勧進」と呼ばれる手法で広く寄付を集め、橋や寺院などの公共事業の資金を調達する能力も持っていました。

 以上のように、中世の寺院は単なる信仰の場ではなく、当時の最先端技術と知識が集まる「知の拠点」であり、彼らの活動が社会基盤や文化を築くうえで大きな役割を担ったといえるのです。
 私は、少し時代は下りますが、鉄砲の伝来が根来寺からということは、その象徴的な出来事だと思っています。「契約状」を結んだ九人の武士達にとって、根来寺は様々な意味で恐怖と魅力の新興勢力であったに違いありません。
(おわり)


 


 















 





2026/01/26

日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?(前編)

  


(1457年、和泉国日根郡国人等契約状。「ふるさとの中世〜日根荘の人々〜」より)

 上の「和泉国日根郡国人等契約状」(以下、「契約状」と略す。)は、康正三年(1457)六月廿六日に和泉国日根郡の九人の武士が一味する契約を結んでいる連判状です。名前を見ていきますと、


鳥取備中守         光忠(花押)
淡輪河内入道      沙弥道本(花押)
箱作肥前入道      沙弥道春(花押)
鳥取備後入道      沙弥寿枩(花押)
籾井(樫井)伊豆入道  沙弥道永(花押)
新家新二郎         影頼(花押)
籾井(樫井)幸持丸代    慶重(花押)
上郷二郎左衛門尉      光景(花押)
日根野加賀守        秀盛(花押)


 つまり日根野、上之郷から鳥取、淡輪まで日根郡の武士が「一味同心」の「一揆」を結んでいます。
 一揆といえば、近世の百姓一揆のような集団闘争をイメージしがちですが、ここでは英語の「アライアンス」=同盟のようなものと思ってください。この一揆を裏切ると神罰が下るという契約状です。
 私は以前からこの一揆の意味(何を一揆(同盟)したのか)について深い関心をもっていました。それは、一言でいえば我が「信達荘」の武士(国人)が含まれていないからです。


 この「契約状」を紹介してくれている「ふるさとの中世 日根荘の人々」(ふるさとの中世編集委員会発行=泉佐野市教職員組合と泉佐野の歴史と今を知る会で構成)という冊子は、今から約30年前に作成されたものですが、「全国に誇る日根荘遺跡を地元の小中学校でも教えられるようにと、「教材の手引となる冊子を」と作成されたものです。故郷の歴史を次代に伝える冊子として、「分かりやすいけれどきっちり専門性を備えている」その内容たるや全国でも屈指のものと言ってよいと思います。みなさん是非一度手にとって読んでみてください。


 さて、「ふるさとの中世」35Pでは、この「契約状」についてその具体的な契機や目的は不明ですし、彼らが共同で行った行動の記録は現在のところ見つかっていません。しかし戦国時代の前夜を考える重要な動きであることは間違いないでしょう。」と記されています。また、64Pの全体の「略年表」では、「契約状」が結ばれた前後の出来事は以下のようになっています。


1417 日根荘で百姓請が実現
1428 【正長の土一揆おこる】
1429 日根野村・入山田村が九条家の支配となる。が、部分的に押領される
1446 十二谷池の分水・管理につき日根野・井原・檀婆羅密寺村が契約
1457 日根野加賀守秀盛ら九人衆、一揆契約を結ぶ
1467 【応仁の乱が起こる(〜1477)】
1490 根来寺衆ら出陣し井原村を占領。九条家に日根野荘代官を要求
1500 泉佐野市域を中心に根来寺衆らと和泉国守護勢との戦闘続く(〜1504)


        
      
(「連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代」)

なお、廣田浩治先生は「和泉惣国一揆の展開」という講演記録(「連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代」(泉佐野の歴史と今を知る会・編)28P〜所収)の中で、同じく当該「契約状」(史料No.4)を紹介してくれており、

「・・・やっぱり幕府や守護に対抗するための一揆でしょう。・・・(中略)・・・鳥取氏は、これ以前に守護から討伐されて、たぶん何人か討ち取られていますので、まあ端的に言うと、鳥取氏を守るための一揆であったかも知れない・・・。」(37P下段)とおっしゃっています。


この「契約状」は、康正三年(1457)六月廿六日に作られていますが、この時期は京都を舞台に多くの武士が戦うことになった「応仁の乱」(1467〜)の前夜に当たる時代です。南北朝動乱がおさまって幕府や守護の権力が一応ととのってくると、守護に従っていた各地の武士(国人層)達は、「押領」した荘園の返還を迫られていきます。
 例えば日根荘でも荘園領主の九条家の訴えによって、将軍や守護何度も日根荘の回復措置をとるのですが、一時回復してもまた武士(佐竹和泉入道や日根三郎衛門入道)が抵抗、押領するという繰り返しが行われています。このような中で各地の武士と将軍・守護との対立が深まっていきます。一方、村人達もまとまりを強めて(惣村)、武士たちの支配を動揺させていくという極めて複雑な社会状況を生み出していたのです。
 

 このような社会の状況からみていくと、「契約状」は廣田先生がおっしゃるように幕府や守護(和泉国守護は細川氏)に対抗するため日根郡の国人達の一揆なのかも知れません。しかし、それ以外の可能性は考えられないのでしょうか?。



◼️私なりの検討
 今回のタイトルとした日根郡国人等契約状の謎。つまり一揆の目的は何なのか?、ということの私なりの検討・推論に入っていきたいと思います。
 なお、康正三年(1457)は年号が変わって長禄元年(1457)でもあります。まず、「契約状」で、一揆を交わした和泉国日根郡国人達の根拠地、勢力範囲と思われる地域を図示してみました。

 赤い線で囲んだア〜キまで、ア日根野、イ上之郷、ウ樫井、エ新家、オ鳥取、カ箱作、キ淡輪になります。(もちろん、各地域には其々の荘園等があり、荘園領主が存在します。例えば新家荘=仁和寺領、鳥取荘=伊勢神宮領、箱作荘=賀茂社領、等)




さらに、黒い線で囲んだ1〜6は根来寺領の荘園になります。1弘田荘、2石手荘、3岡田荘、4山崎荘、5直川荘、6山東荘。なお、和泉国日根郡の「信達荘」は建武四年(1337)に足利尊氏が大伝法院(根来寺)に寄進していますので、和泉国の中の唯一のオフィシャルな根来寺領荘園です。根来寺は⚫️です。


 そして、ピンクの線で囲んだA〜Fは根来寺の(オフィシャルな根来寺領荘園ではありませんが中世後期に獲得した(紀伊国内(紀北))の支配所領です。A池田荘、B田中荘、C丹生谷村、D名手荘、E小倉荘、F田屋荘、G栗栖荘、H和佐荘、I岩橋荘、J和田荘、K安原郷、L薬勝寺、M木本西荘、Ñ加太荘、Oカセ田荘、P渋田荘。(其々の獲得年代は不詳です。)

※根来寺の所領関係は、「歴史の中の根来寺 教学継承と聖俗連環の場(トポス)、山岸常人編」中の「五 中世根来寺権力の実像 「一揆」「惣国」「都市」再考」廣田浩治」の172P表3、根来寺関係紀伊北部地図地名一覧」によりました。
 なお、根来寺の西には日前宮もあり、東には粉河寺や高野山も近接していてそれぞれの寺社領もあるわけです。


◼️押さえておきたいこと(時代背景)
 戦国時代のはじまり(「契約状」のころ)から、終焉(秀吉の全国統一)までの歴史は、別の言い方をすれば「荘園制が崩れていく過程」といっていいと思います。
 「ふるさとの中世」36・37Pでは、

「もともと室町幕府は将軍と守護大名あるいは地方の武士との対立を含む不安定な政府でした。・・・・・。さらに守護家内部や将軍家での分裂も起こって、一層、政治が不安定になっていきます。1467年には京都を舞台に多くの武士が戦う応仁の乱が起こることになります。この事件を機に幕府の権威はますます地に落ち、戦乱は全国に広がっていきました。

 この背景には村の人たちが力をつけ、まとまりを強め、要求を掲げて土一揆を起こしていったことがあります。後には一向宗(浄土真宗)の信仰を基礎にした一向一揆もおこってきます。各地の武士のなかにはその村の人たちの力を利用して守護の支配を覆す戦いを試みる者もあらわれ、また逆に村の支配が困難になったために守護家に頼り村との戦いを進める武士もいました。・・・・・・、どのような荘園や領地であろうと村の人たちの一揆を軍事的に押さえ、村ぐるみ実力で支配する新しい戦国大名が伸びてきます。・・・・・・・・・・・・・」としています。


 さて、以上の時代背景を踏まえながら、上の地図に示した和泉南部、紀伊北部の地域を考えますと、守護大名(細川・畠山)から戦国大名になった者や、守護の被官や国人から下剋上して戦国大名に成長したもの(途中まででも)はいるでしょうか、どうもみあたりません。

 一つだけ思い当たるのは、日根野型兜で有名で、戦国末期に大名となった「日根野氏」ですが日根野弘就は庶流で、美濃の齋藤氏に仕えてその後、大名に成長しましたが、和泉国日根郡を本拠とした日根野氏は近世には農民として残ったようです。


◼️和泉南部・紀伊北部という地域性、特殊性
 「ふるさとの中世」52・53Pでは更に、「根来寺の動向」として
「根来寺(和歌山県岩出町)は南北朝内乱の初期の1337年に足利尊氏に信達荘(泉南市)を寄進されて和泉国に足がかりを得ています。その後の根来寺は、各村で成長する有力な人たちを信徒にすることによって発展していきます。ちょうど百姓たちの新しい村が成立し、領主への年貢などが固定化され(33P)(百姓請・地下請のこと、筆者)、経済力を持つ有力な村人(地侍)が生まれてくる時代と重なっています。
 

 熊取町の中家は、室町時代に成長し根来寺とかかわりをもった地侍のよく知られた例です。多くの土地を買い集めてそれぞれの耕作者から領主に収める以外の年貢(加地子)を得、また麹の販売権なども手に入れ、同時に一族の師弟を根来寺の「成真院」の代々の僧としています。また、・・・。これら根来寺の子院の僧も金融業をいとなみ、加地子を集めたり、荘園の代官となったりしていきます。

 根来寺は泉南地方や紀州の地侍が村のわくを越えて連携する拠点として成長し、経済力・政治力の維持・拡大をはかる一つの軍事勢力となっていきます。・・・」と。
 どうも、根来寺のこと抜きには「契約状」の意味の検討は難しいようです。


 そして、「戦国時代になると守護家の対立とも関連しながら根来寺は軍事行動を頻繁におこしていきます。1484年には粉河寺衆とともに水間寺(貝塚市)・神於寺(岸和田市)を攻撃し、1490年にも和泉国に出陣して井原村を占領しています。その時には九条家に日根野荘の代官職を要求し、後に根来寺閼伽井坊と東智院がそれぞれ九条家方・富小路家方の代官となったようです。

 根来寺のこれらの行動は根来寺僧や地侍の経済的権利や社会的地位を強め、逆に守護やその家臣となっている武士の荘園支配を弱めていきます。ですから1500年には守護方が軍事行動を起こし根来寺方は一旦敗北しますが、その後1501年から1504年にかけては日根野・上之郷・長滝・佐野・嘉祥寺などで守護方と根来寺方との戦闘がおきます。」と続きます。


 しかし、ここで見ておかなければいけないのは、根来寺の和泉南部での軍事行動は現在発見されている史料では、応仁の乱後(戦国時代になってから)であるという点です。根来寺は何時頃から大きな軍事力をもち軍事行動をとるようになってきたのでしょうか。


◼️和歌山県史の記述を中心とした検討



 「和歌山県史、中世」の386P〜『長禄の根来合戦』では、「・・・長禄元年(1457)(筆者注、「契約状」の康正三年(1457)でもある)ごろから、近畿地方はふたたび干魃の傾向がつづいた(熱田公「寛正の飢饉と大和」)。」と記されています。当時の日本社会では天変地異や戦乱がつづくと年号を変えて災いを断ち切ろうとすることが多々あったのです。


 続いて「根来寺と守護領八カ荘(当時の紀伊国守護は畠山義就、筆者)との用水相論(水論、筆者)がふたたびおこり、根来寺から、八カ荘の用水井を破壊するようなこともあったようである。永享五年か、その後いつかの時期に、岩手荘辺を取水口とする用水井が掘られていたが、干魃を前に根来寺側が実力行使にでたものであろう。」としています。

 実は、約20年前の永享五年(1433)には、既に根来寺領と守護領八カ荘の間で用水路をめぐる相論が起こっていることが「満済准后日記」に記されています。なお、同年(永享五年(1433))には、根来寺・粉河寺が連合して高野山を攻めてもいます。(「粉河寺旧記」)


 さて、和歌山県史の記述に戻りますが、
 「長禄四年(1460)五月、守護(この時は畠山義就)は、口郡守護代遊佐豊後守盛久、奉公人かと思われる神保近江入道、木沢山城守の重臣三人を使節として根来寺に派遣し、用水井を復すこと、および根来寺寺僧の中で、守護畠山氏の亡臣某に味方する者を、根来寺に退けるよう命じた。三使者は、多くの軍勢をつれていた。したがって守護からの三使者派遣は、用水相論の交渉といった性格のものではなく、武力による威嚇、あるいは攻撃であった。

 
 なお、亡臣某に味方する寺僧とは、当時すでに、守護家の家督をめぐる争いがはじまっており、当時の守護畠山義就の反対派を支持する寺僧をいうのであろう。用水問題にからめて、政治問題・軍事問題の解決をめざして、守護代らが根来寺におしかけてきたのである。」としています。(参考として「畠山家の内紛」をご覧ください。)


 和歌山県史はつづいて、「守護の武力に対して、根来寺も武力でこたえた。三使者は・・・切腹、余兵は紀ノ川を渡って敗走しようとしたが、・・・紀ノ川は増水しており、守護方の軍勢一千二十余人が溺死した。」(禅僧太極の日記「碧山日録」)と。


 そして、『長禄の根来合戦』の最後に、「・・・それぞれほぼ同時の記録であって、信頼度はかなり高い。」(※筆者注、ほぼ同時の記録とは「経覚私要抄」「大乗院寺社雑記事」「碧山日録」「粉河寺旧記」)

 「室町時代の紀州で戦われた最大の合戦であった。根来寺の大勝は、根来寺の武力を天下に知らしめることになった。そして、守護の大敗は、守護畠山家の分裂を混迷にみちびき、それが応仁の乱へとつながっていく・・・。一紀州史にとどまらない、日本歴史の転換点として、長禄の根来合戦は、大きな意義を有しているのである。」としています。


 以上、長禄元年(1457)ごろから、近畿地方に干魃がつづく中、根来寺と守護領八カ荘との用水相論に端を発した、守護畠山義就と根来寺に起きた長禄四年(1460)の『根来合戦』について、和歌山県史の記述を中心に見てきましたが、守護の武力を大敗させた根来寺の武力はいつ頃から醸成されたのでしょうか。またその武力は如何に構成されていたのでしょうか
 守護(畠山氏)の軍勢を700〜1000名も戦死させた『長禄の根来合戦』の時代以前から当然、当該軍事力は醸成されていたと見るべきでしょう。1433年には当該用水相論が一度起こっていますし、同年に高野山を攻めてもいるのです。

 わたしはこれらの点を検討することが今回の問題(契約状」の謎。一揆の目的)に迫ることに繋がるのではないかと考えています。(つづく・後編はここから

2026/01/09

幕末・明治と「何が似てきたと思うのか」




泉市歴ブロブの「草莽崛起(そうもうくっき)!。中瑞雲斉立つ。」(「草莽崛起」と略す)は、ブログ開設以来最高の閲覧数を記録しました。草莽崛起はこちらから。

 見ていただいた方々から、(12/25追加④)記事に記した、『瑞雲斎が京都に出て活動した時代と、私たちが現在(2025)遭遇している時代が非常に似かよってきている』、『これについては誤解があったらいけませんから、また何かの機会に言葉で説明いたします。』と書いたことについて、「何が似てきたというのか?、誤解は常にある。書くべきだ。」とお叱りを頂戴しました。

 そう言われれば記事を発信する限り、見ていただく方によって取り方は様々です。私の「歴史」に対するスタンス、歴史を見つめる立ち位置は、『「戦前の皇国史観」や「戦後一時期全盛となった唯物史観」のように「最初に(考え方、思想に基づく)結論ありき」ではなく、歴史をありのまま見つめたい』と思っていることを表明して、「何が似てきたと思うのか」ということについて書きたいとおもいます。


◼️厳しい安保環境

 瑞雲斎が京都に出た時代(所謂、元治元年前後、広く幕末の頃)と現在が何が似てきたか、これは一言で言えば「日本の厳しい安保環境」です。私達は中学、高校で(大学でも専攻しなかったら)日本史の所謂「近現代史」を殆ど学んでいません。よく学年度末までに、近現代史までたどり着かなかったことが原因と言われますが、教師や学校・文部省としてこれほど無責任なことはないでしょう。

 皆さんは幕末(文久元年(1861)2月)の「ロシア軍艦対馬占領事件」(ポサドニック号事件)をご存知でしょうか?。黒船来航は有名ですが、これは対馬の浅茅湾の一角の「芋崎」というところに、ロシア軍艦が勝手に上陸して、兵舎や港まで作ってしまって半年間も不法に滞在した事件です(ここからも)。

 この事件はイギリス艦隊の干渉もあって、8月にようやく対馬から退去しましたが、これは幕府の外交能力の限界と列強間の対立が、日本の領土問題に直接影響を与えた出来事として、幕末動乱期の重要な事件の一つです。そして、現代でも日本の島嶼部(とうしょぶ)の防衛問題は深刻になってきています。

草莽崛起」では「すなわち軍備増強して、艦隊・大砲を備え、蝦夷からカムチャッカ・オホーツク、琉球・朝鮮、満州・台湾・フィリピンへと「進取の勢」を示すことが重要であり、その上で辺境を守れば国を保つことができる、とする。それがなくては諸国が争い集まる渦中にいて衰えない国は幾つもない、必ず衰えてしまうという吉田松蔭「幽因録(の現代訳)」を紹介しましたが、これは欧米列強の浸出に対峙しうる政略として、危機の時代を生きぬくために松蔭なりに考えた認識を示すものでした。


◼️そして「主権線」と「利益線」

 さて、吉田松陰の門下生である山県有朋は、1890年の第一回帝国議会における総理大臣演説「外交政略論」で、欧米列強に対峙するなかで国家独立の方途を確立するための方法論を提示しました。それは、

 国家の主権が及ぶ「主権線(領土)」を守るだけでなく、その安全に密接に関わる周辺地域(特に朝鮮半島)を確保・防衛し、日本の独立と安全を維持しようとする考え方です。清国との対立の中でロシアの南下を阻止し、朝鮮の中立化を図るための防衛戦略とされたのですが、次第に強硬路線へと転換して軍事力行使も辞さない方向へ向かいました。

 つまり、主権線の安全に直結する、国境線外の周辺地域を日本の「利益線」とみなしたのです。この利益線論は、日本の大陸進出政策の先駆けとなり、日清・日露戦争、そしてその後の対外政策に大きな影響を与えたのです。しかし、日本が領土外に利益線を求めることで、他国との衝突を招き、最終的には敗戦へと繋がる道筋を作ったという評価もあります。


 この「利益線」論と同様な論理が、世界の各所で今また活発になっていると思うのが、私のもう一つの「似てきたと思う点」です。しかし、主権線外に位置する周辺地域や国々にとって、これほど迷惑なことはありません。今日の世界で通用させてはいけない理屈だと思うのです。

 それにしても、利益線というかどうかは別として、台湾有事は日本にとっても重大な事態だとは思いますが、日本人はもうあのバシー海峡を忘れたのでしょうか。わたしたちは二度と「バシー海峡」を慟哭の海峡にしてはならないのです。人の命を何よりも大切にし、殺されることも殺すことの恐ろしさも十分知っている私達は、少し遠回りすることを知っています。


(1/23追加)

◼️そして「万国公法」(国際法)について

 もう一つ、吉田松陰の門下といっても間違いではない桂小五郎(後の木戸孝允)の明治元年(1868)11月の日記では、万国公法は主権国家間の調整統合をはかるためのもので、キリスト教文明を基盤とした規範体系であるとみなしたうえで、「兵力調わざるときは万国公法も元より信ずべからず。弱に向かいて候ては大いに公法を名として利を謀るもの少なからず。ゆえに余、万国公法は弱国を奪う一道具」と論断しています。

 国際法は欧米列強の浸出に向き合う日本人にとって、「キリスト教国、白人種、ヨーロッパ州」という特権掌握国民が己の権利を主張してアジア・アフリカを植民地とするためのものでしかなかったと言えるのかも知れません。


 また、明治中期に新聞「日本」を創刊し、文豪正岡子規を支援した陸羯南(くが かつなん)は、「原政及び国際論」のなかで「国際法なるものは実に欧州諸国の家法にして世界の公道にはあらず。この家法の恵を受けんと欲せば、国を挙げて欧州に帰化するよりほかに復た手段あるべからず」と論難します。


 このように、「開国和親」をかかげて文明化による近代国家形成を、万国公法の秩序の下で、欧化によって目指さなければならなかった「大日本帝国」の選択はある意味必然だったのかもしれません。しかし、その後(130〜150年後)の世界の歴史は所謂「国際法」を大きく発展させてきました。(国際法の歴史はここから


 幕末の日本の状況は、まさに木戸孝允が書いたように「キリスト教国・・」という特権掌握国である欧米列強の中での、植民地化の対象であるアジアの小国であったわけですが、現在の世界の情勢はまるで幕末・明治の時代に先祖返りしたように、国連の安保常任理事国である大国が、これまで人類が到達してきた「国際法」のルールを自ら踏みにじるようになってきています。

 現在の国際法をめぐる世界の状況も、これまた幕末・明治と非常に「似てきた点」なのですが、ひとつ大きく違う点があります。現在の日本はアジアの小国ではないという点です。そして「日本国憲法 前文」をもって国際社会を生きる日本は、今こそ率先して国際法を遵守し、国連を中心とした国際協調の一翼を十分に担うべきではないでしょうか。


 




 


 



 


 


2026/01/01

「童子畑」はワンダーランド(不思議の国)


        


(根来寺伽藍古絵図)

  往時南山の荒尾山に祇園天王の坊舎あり、荒尾谷天王と称して衆人崇拝せり。南山と言えるは、南方紀伊国岩戸の六角堂より、北は樫井川を限り、東は江川神通谷嵐山を限り、西は瀬口・二軒屋を限れる間の総称にして、荒尾谷とは其の山間なる今の東信達村 大字童子畑是れなり。(大正十一年、井上正雄大阪府全誌第五巻」大字新家種河神社の説明)



      (根来寺伽藍古絵図の拡大図、北方に「金剛童子社」)

 一ヶ月前(2025/11/30(日))に三度目の正直が成って、泉南市民歴史倶楽部の史跡探訪「根来街道の村々を巡る(童子畑・金熊寺・六尾) ―ここにある故郷を知ろう泉南市東地区―」が実施されました。


 今回の投稿では、この例会を機に私自身あまり詳しくは知らなかった「童子畑地区」の魅力について紹介したいと思います。


 まず、童子畑という地名の由来ですが、今回の例会までは根拠無しに「金剛童子」(金剛童子とは。こちら)からきているものとばかり考えていました。上に掲げた「根来寺伽藍古絵図」は岩出市の根来寺に残るものですが、約20年前に行われた根来寺文化講演会&シンポジウム「中世根来の実像を探る」のときの資料に掲載されていたものです。


 またこの古絵図は、平成14年に開かれた和歌山県立博物館の「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の図録集(155P)の中で解説されており、「本図には、根来寺が戦国時代の争乱で荒廃する以前の伽藍の様子が描かれていると考えられる。大伝法院や密厳院、円明寺などの中心となる伽藍のほか多くの子院が描かれ、その繁栄の様子が偲ばれる。」

 「実際の製作は覚鑁像を安置する堂舎の拝殿を「興教大師拝殿」と呼称していることから、覚鑁に大師号が贈られた元禄三年(1690)以降であることは確実であるが、描かれている内容は何らかの確実な情報を元にしていることは疑いない。中世の根来寺を類推することのできる唯一の絵画資料として貴重である。」とされています。


 私としてはこの「古絵図」の北の方(根来寺領の信達荘では?)に描かれている「金剛童子社」が近世童子畑と何らかの関係がある地名由来ではないかと考えていたのです。
(つづく)


(1/2追加)
 さて、童子畑の地区の方々が今も大切にしている「地名由来」については、後ほど説明することにして、秀吉の天正13年の紀州攻め(詳しい情勢はここから。見ておいてください)によって、古絵図」にしめされた根来寺テリトリー(南山)は、徹底的に破壊されてしまいました。
 

 投稿の最初に引用した「南山」や「荒尾谷」の説明のくだりは、大正十一年、井上正雄による「大阪府全誌」の第五巻、第二十六項新家村、大字新家「種河神社」についての説明の一部ですが、そのあとの説明をみますと  


 童子畑是れなり。天文十四年春当地に痘瘡流行し、病勢猖蕨なりしを以て祈祷したるに、護礼の効験著かりしかば、衆庶の崇敬益厚かりしも、天正年間の騒乱に際して兵火の為め社房消失せり。依て其の別當職たる坂口實蔵院の前主自信は、当地の山下・樫木の森付近に仮社殿を営みて移し奉ると共に、住民の避難地にも分霊せり。住民の避難せし所は今の東信達村大字葛畑及び同童子畑にて、両地共に祠を建てて八坂神社と称し、産土社として崇敬せり荒尾谷鎮座當時に於ける狛犬の、葛畑の八坂神社と当社とに各其の一個づつを残せるは之が為めなり。』と記されています。


 「大阪府全誌」の記述と「新家清明寺代々記」の記述を合わせて解釈すると、
 『元は荒尾山(童子畑)にあった荒尾谷天王(種河明神の前身)の仮社殿を新家に建てた時、天正年間の騒乱(〜大坂陣の騒乱時もか、1585〜1615頃か)時に住民が避難した葛畑と童子畑の両方に祠(八坂神社)を建てて産土社とした。葛畑の八坂神社と当社(種河神社)とに(荒尾谷天王の)狛犬を其々一個づつ残したのはこのためだ。』ということになります。

 ここで想定できるのは、葛畑と童子畑には天正や元和の騒乱時に、新家から避難した人達も住み着いた可能性が考えられるということです。一方「代々記」には、この間の三谷(新家村)は大変苦しみ断絶した家、他所に移る家が続出したことが記されています。


(近世、岸和田岡部藩時の村々・岸和田市史より、①地図)


(岸和田松井(松平)藩時代(1619〜1639)の代官庄屋制時の各支配村、「熊取の歴史」より、②地図)

 さて、上の二つの地図、①は村切後に整理された江戸時代の岸和田藩の村々(108ヶ村といわれる)の村名が記されている地図です。また、岡部岸和田藩領の中にも「卜半領」や「小堀藩領の飛び地」、「旗本領(岡部の分地)」が記されており新家村は「旗本岡部家領」となっていることがわかるのです。

 ②地図は岡部氏領となる前の、松井(松平)藩時代(1619〜1639)の代官庄屋制時における代官庄屋其々の支配村が分かります。特筆すべきは、信達庄の村々(葛畑、楠畑、金熊寺、六尾、中(岡中)、幡代、馬場、市場)の殆どは、瓦屋村の新川三郎衛門(佐野川新川家)の支配村であるのに対し、童子畑は新家村同様に熊取谷の中家の支配村となっている点です。
 ここから推定できるのは、中世「しんたち内畑村」=近世初頭「三ケ畑村」から村切で誕生した三村の内、童子畑だけが熊取中家の勢力下にあったという点と、新家村と童子畑の結びつきが大きかったということです。
(つづく)


(1/3追加)
 今回の投稿で最初から紹介している「大阪府全誌」ですが、郷土の歴史を探る際に忘れてはならないことがあります。それは、近代(明治以降)になってからの地誌(大正十一年に完成)であるという点です。
 歴史倶楽部の会員さんはご存知だと思いますが、寺社の歴史を調べる場合に明治維新とともに行われた「神仏分離」ということを理解したうえで、取り組まないといけないということです。


 千年以上続いてきた、「神仏習合」という信仰形態の撤廃が政府の手で断行されました。これによって寺社は大きな変容を遂げ、神仏分離に連動して起きた「廃仏毀釈」によって、神社に置かれていた仏像や仏具類の破却、あるいは堂塔・寺院そのものの破却などが行われたのです。(泉南市新家の「清明寺代々記」には、新家に吹き荒れた「廃仏毀釈」が、25世忍誉上人によってリアルに記されています。)


 また、明治初年に行われたのは神仏分離・廃仏毀釈だけではありません。1/2追加記事で大阪府全誌から引いた『・・・今の東信達村大字葛畑及び同童子畑にて、両地共に祠を建てて八坂神社と称し、産土社として崇敬せり。』との記述ですが、日本全国に明治維新以前に「八坂神社」という神社はありませんでした。神仏分離と合わせて「社号」と「祭神」の変更が広範に行われたのです。


 神仏が習合していた京都の「祇園社」は、八坂郷にあったことから「八坂神社」と改称されたのです。(古代インドの須達長者が釈迦に寄進した「祇園精舎」にちなんだ仏教的な名称だったので改称されたといわれています。)
 また、祭神は「牛頭天王(ごずてんのう)」から「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」に変更されました。
 (牛頭天王は、祇園精舎の守護神・疫病退散の神と信じられたのですが、仏教系の尊格だったために、同じ疫病除けの神ということで牛頭天王と習合していた素戔嗚尊が表面にだされたのです。)


 社号、祭神の変更は、「弁財天社」→「厳島神社」・「弁財天」→「市杵嶋姫神」等も同様です。また祭神の変更は、神仏習合前の祭神に戻すというのが建前なのですが現実に行われたのは、記紀神話や延喜式に出てくる神々に信仰対象を転換することも行われたのです。
 この辺のところが、明治維新以前の神社の歴史を難しくしているだけでなく、とりわけ郷土史における寺社の歴史調査を難しくしているのではないでしょうか。


 さて、祇園社は一般的に「祇園さん」、牛頭天王から「天王さん」とも呼ばれます。「荒尾山に祇園天王の坊舎あり、荒尾谷天王と称して衆人崇拝せり」とはまさに荒尾山に牛頭天王を祀る祇園社があったということです。そして、「両地共に祠を建てて八坂神社と称し、産土社(うぶすなしゃ)として崇敬せり。」ということは、「葛畑、童子畑に祇園社の祠を建てて、産土社(その土地に生まれた人を守護する守り神)として崇敬した」ということになると思います。
(つづく)


(1/4追加①)
 大阪府全誌」の第五巻、第二十七項東信達村、大字金熊寺「信達神社」の説明を見ますと、「・・・同(明治)四十一年二月五日大字童子畑の村社諏訪神社(建御名方命)・同下諏訪神社(不詳)・同厳島神社(市杵嶋姫命)・無格社上道祖神神社(不詳)・同下道祖神神社(不詳)大字葛畑字西垣外の村社八坂神社(素戔嗚命)・同大字字上の山の同山神社(大山昨命)を合祀せり。」となっており、両地区のこれらの神社は明治の神社合祀によって一旦、信達神社に合祀されています。(その後、二村に再度分祀されているのかと思われます。)


 大阪府全誌の新家種河神社の説明にでてくる、「葛畑の八坂神社」は信達神社の合祀説明で確認できますが、「童子畑の八坂神社」はどうなったのでしょうか。少なくとも明治の神社合祀の中には出てきません。

 諏訪神社)

          諏訪神社・本殿)







(下の三つは摂社)
 
 其々が古くからの歴史に耐えた、故郷のすばらしい文化財です。
 諏訪神社本殿の下の摂社に狛犬が一つありますので、これが「童子畑の八坂神社」かとも思いましたが、大阪府全誌の種河神社の説明での文脈では、「葛畑の八坂神社と当社とに各其の一個づつを・・・」となっているので、あくまで「葛畑と新家と」と考えるのが妥当かと思われます。


 一方、童子畑の「諏訪神社」は、大阪府教委の資料で「氏神神社(うじがみじんじゃ)(自分が住む地域を守護する守り神)」と表記されていたこともありますので、「産土社」とほぼ同義であることから、何らかの理由で八坂神社(祇園社)が諏訪神社になったのかもしれません。

 




 それにしても諏訪神社本殿は、私のような神社建築についての知識が乏しい者でも、その歴史的な価値がわかるすばらしいものです。それは、一言で言えば中世〜近世の神仏習合の色合いが強く出た建築ということです。


 左右と裏には「梵字」(古代インドのサンスクリット語(梵語)を表記するために使われた文字で、日本の仏教(特に密教)に伝来した一文字で神仏を表す文字)が意匠されています。そこには大日如来を表す梵字も含まれていると思います。これらは明らかに南山(根来密教)の影響があるのではないでしょうか。
(つづく)


(1/4追加②)
 慶応四(明治元)(1868)年三月に神仏分離は行われましたが、その25年前の天保十四年(1843)にまとめられた「泉州日根郡寺社覚」(村から寺社奉行宛ての届出の覚え)を見ることによって、江戸時代の葛畑村と童子畑村の寺社の状況を知ることができます。(改行等はそのままに、縦書きを横書きにのみしています。)

葛畑村(小名堀河村(ホリガワ))
 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺       極楽寺
  除地寺平地、三拾壱坪五合
 牛頭天王社氏子之内年老壱人、神主一代回り持
 除地社山、二百七拾九坪五合、住吉大明神社
 観音堂、弁財天社、地神社、行者堂
 道祖神、石小社、除地小社平地、二合五勺
 辻堂、除地堂平地、三坪「経之松」

童子畑村
 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺       地蔵寺
  除地寺平地、百六拾坪四合弐勺五、地蔵堂、観音堂
 観音堂、除地堂平地、五百九拾八坪三合
 童子畑村、楠畑村、両村之支配、鎮守、権現社
 諏訪明神社、除地社山、二千三百六拾八坪九合
 氏子之内年老壱人、神主一代回り持
 末社、妙見、八王子蔵王権現、天照大神宮、八幡大菩薩
 一社之内、井垣、表華
 下諏訪社、除地社山、九坪
 道祖、石小社、除地、小社山平地、弐坪
 道祖、石小社、除地小社平地、弐合五勺
 弁財天、除地社山、四千五百三拾八坪三合、


※なお、「除地」とは(年貢免除地)、「井垣」とは(神社の垣)、「華表・表華」とは((日本では)鳥居)のこと

 以上の泉州日根郡寺社覚をみましても、葛畑村には「牛頭天王社」(八坂神社)がみえますが、童子畑村には見当たりません。
 しかし童子畑村には、200年近く前の「寺社覚」に記された大小の寺社が、(村の入口と出口の)道祖神に至るまで、現在においてもことごとく残っていて、祀られているのは奇跡的といっていいのではないでしょうか。
(つづく)


(1/5追加①)
 それでは、寺社覚に載っている寺社の現在について見ていきましょう。

 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺       地蔵寺
  除地寺平地、百六拾坪四合弐勺五、地蔵堂、観音堂


観音堂、除地堂平地、五百九拾八坪三合
 童子畑村、楠畑村、両村之支配、鎮守、権現社



諏訪明神社、除地社山、二千三百六拾八坪九合
 氏子之内年老壱人、神主一代回り持
 末社、妙見、八王子蔵王権現、天照大神宮、八幡大菩薩
 一社之内、井垣、表華






下諏訪社、除地社山、九坪


道祖、石小社、除地、小社山平地、弐坪


道祖、石小社、除地小社平地、弐合五勺



弁財天、除地社山、四千五百三拾八坪三合、



※以上、慎重を期して調査しましたが、間違っていましたらご容赦ください

 諏訪神社の末社(摂社)が、寺社覚では「妙見、八王子蔵王権現、天照大神宮、八幡大菩薩」の四社になっていますが、現在は三社しか見当たりません

 なお、祀られている祭神は、「泉南市の神社・仏閣(泉南中央ライオンズクラブ、平成9年4月)」によれば、
 「・・・祭神主名は諏訪大明神で諏訪神社と呼ばれている。他に多くの神々が合祀されている。天昭皇大神宮、春日大社、八幡大神、蔵王権現、八王子大神、妙見大菩薩、その他にも八神が祀られている。」とされています。

 また、「泉南市域の年中行事(泉南市成人読書連合会、昭和61年8月22日)」の「童子畑地区」の記載には、「12月、道ぶしん 正月前に七宮廻りの道ぶしんをする。」とあり、註2として、
{八幡宮・天照皇大神・春日社・諏訪神社・蔵王権現・八王子社・妙見さん}

「童子の七宮は明治の合祀にも金熊寺へ合祀せず村でこっそり祀った。上の図のような順に小社が五つ並んでいて蔵王権現・八王子妙見さんは一つの社に祀っている。」
「この後観音・八大龍・牛滝・弁才天(村の入口)に参り、次に下の諏訪神社に参って半日かかる。」と記載されています。

 当該資料は、昭和61年に向井俊生先生を中心に、泉南市の女性たちが協労して残してくれた宝物のような民俗資料です。忘れさられていく各地域の民俗の記憶をできるかぎり残していきたいものです。
(つづく)


(1/5追加②→ここからは単なるエッセーです。内容に全く根拠はありません。

なぜ「童子畑は不思議の国」なのか(最終回)

 冒頭1月1日に、童子畑の地名由来は「金剛童子」からきていると思っていたと書きました。実はいろいろ童子畑のことを勉強してからも、その思いは変わらないのです。まずは、童子畑地区の方々が今も大切にしている「地名由来」をご紹介いたします。


 それは、先程紹介した童子畑の「観音堂の由来」と密接に関連しています。

(石に線画で書かれた観音像を安置)

観音堂の表示塔の裏に「うた」が・・・・。)

   ありがたや ふちにまします
      みほとけを 童子がおうて(背負って) あがりたまえ
         
    


(線画観音像を安置しているお堂の中に地区の説明書きが・・・)


「金熊寺川の観音淵で童子(子供)が光り輝く、石仏を見つけ背負って山(現観音堂)に祀ったのが始まりと言う。・・・今回の新築にあたって旧観音堂の千手観音の奥から言い伝えられる石仏が安置されているのが見つかりました。・・・」と。

 何という不思議な言い伝えでしょうか。しかし、最初に説明した金剛童子は、金剛杵(ダイヤモンドのように堅固な武器)をもった少年で、仏様を守る任務を持つすごい力の童子です。重い石仏を見つけて、背負って山まで上がるのは金剛童子にしかできません。

 そして、上の線画で書かれた観音像を拡大してよく見てください。母親が子供を慈しむ慈母観音のように穏やかなお姿です。
 わたしはこの線画で書かれた観音像を見て、国宝のマリア観音像を思い出しました。下見も含めて童子畑に何回かお邪魔して、童子畑の不思議な魅力をより強く感じるようになっています。



(童子畑のお墓で見つけた古い観音菩薩石像)

 そして、それは童子畑の方たちの優しさにも裏打ちされています。11月30日の例会当日、墓地にお参りしていた地域の方(参加者の誰もが知らない村の方)が、私達に袋一杯の「柿」を差し入れしてくださったのです。



 倶楽部の例会も数十回を数えますが、探訪先の地域の方にこんなに親切に、優しくしていただくのは初めてです。参加者一同御礼申し上げます。地域の魅力とは、つまりは人の魅力なのだと思った1日でした。

(おわり)


(1/8追加)
  熱心に読んでくれる読者の方から、連絡・質問がありました。
1/2記事にある(大阪府全誌)天正年間の騒乱に際して兵火の為め社房消失せり。依て其の別當職たる坂口實蔵院の前主自信は、当地の山下・樫木の森付近に仮社殿を営みて・・・』となっているけれど、仮社殿を建てて移したのは、清明寺代々記では「月光院の前住職の浄月清花入心師」だったのではないですか?との質問意見です。


 そのとおりです。私も別の記事のなかでそのくだりは引用しました。大阪府全誌では坂口實蔵院の前主自信、清明寺代々記では月光院の前住職の浄月清花入心師になっています。
 新家の種河明神をつくった方のことですので、極めて大事なことですが、どうも浄月清花入心師(代々記)と坂口實蔵院の前主自信(大阪府全誌)は同一人物のようなのです

 それは、代々記(新家古記の世界65P)の「四世・浄月清花入心」の中で『浄月清花とハ全ク実名にあらず、元来荒尾谷、天王の別当、坂口法蔵院の前主なり』という記述があります。私も同じ疑問をもったのですがこれで納得したのです。


 それにしても、大阪府全誌で記される「荒尾谷」(童子畑)にも建てたとする祠(八坂神社)のことは不明なままです。また何か手がかりがあったら報告いたします。


(1/15追加)
 本日ある図書館で、「日本地名大辞典27、大阪府(角川書店、昭和58年)」を見ていて「わらずばた 童子畑<泉南市>」を調べていましたら、私としては初見で重要な情報に出会いましたのでご紹介いたします。(下記は当該大辞典のそのままの記載です。)


 「和泉山脈が金熊寺川と支流堀河川とによって、侵食されたY字型の谷筋をはさんで位置する。かつて当地に荒尾谷天王の社があり、住民の尊崇が厚かったという。当地は山間の深奥部であるため、天正年間、泉南地方を兵火に巻き込んだ織田信長の根来攻略の際には新家地区の住民の避難地にもなった(全志5)。

[中世]童部堂 戦国期に見える地名。和泉国日根郡のうち。「旅引付」甲の巻末に「和泉国中之所名之内・・・・童部堂<根来領シタチノ内也>」と見え、「ワラウツハタ」と仮名を付してあり、同郡信達荘内にあったことが知られる。」(以下略す)
となっています。


(全志5)とは、大正十一年、井上正雄大阪府全誌第五巻」のことと思われます。
旅引付」とは、所謂「政基公旅引付(まさもとこう たびひきつけ)」のことで、1501〜1504年の間、日根荘に滞在した前関白、九条政基の日記のことですので「童部堂<根来領シタチノ内也>(ワラウツハタ)」という地名を政基が記すということの意味(史料的価値)は決定的に大きいといえます。

 さらに童部堂とは、何らかの建物を意味すると考えられ、その建物名が地名になっているということです。その意味において、私が冒頭に引いた「根来寺伽藍古絵図」の北方に描かれた「金剛童子社」との関連を究明することが、今後の課題といえます。