2024/10/31

清左の歴史深堀り 1 根来街道道標

 

清左の歴史深掘り 1

樽井の浜街道にある道標

「根来街道道標」なのか?

泉南市樽井2313番地先(現在の樽井5丁目32番)にある、所謂「根来街道道標」なるものは本当に浜街道と根来街道の分岐道標なのか?。私は、30年以上前からこのことに疑問を抱いていた。

この道標を初めて知ったのは市図書館で、泉南市教育委員会による平成2年3月発行『泉南市の石造物』をみて、現地を見学して以来である。この本自体には「根来街道道標」という表示や説明はなく、私の郷土史研究でお世話になっているとてもよい本である。問題は、本にも書かれているし現地でも判読できる

正面「すぐ大川かた 左紀州いセきごゑ」

右面「すぐ大坂」

左面「右大坂」

裏面「天保十巳亥年十月吉日」

という表示から、それの意味するところ、つまり根来街道の分岐案内表示であるということが理解できないのである。市は「根来街道の道標」としてパンフやリーフ、HPで案内しているがこれらを作成している人は本当に納得しているのだろうか。

まず、①岡田側から来た人が見て、正面記載の『すぐ大川かた』を「すぐに大川峠・加太方面」と理解しても「すぐ大川(男里川)の方」と理解しても、道自体が和歌山方面に向かっているので矛盾はない。

次に②『左紀州いセきごゑ』であるが、問題はこれである。通常、浜街道から井関越街道への分岐は、現在の南海尾崎駅、難波側踏切を海側に下って浪速酒造の横の道を海側に下った浜街道交差が起点である。それが何故、岡田側から来た人に「左へ曲がったら井関越えですよ」と案内しているのだろうか?。道標を建てた人の推奨なのか?。(もしそうなら御上は許すのだろうか)

次に、③右面に書かれた「すぐ大坂」であるが、この右面を見るのは、当時の埋め立て前の海岸(樽井漁港側)から来た人である。この人が急坂を上って少し左に曲がるが、これは三畑越え(根来街道)であり、国市場で信長街道を左に行ったり、大鳥居で紀州街道を左に行けば確かに大坂に行ける。

さらに、④左面の「右大坂」を見るのは逆に三畑越えから降りてきた人で、確かに右に曲がれば浜街道で岡田(大坂)方面である。現在は当該起点に至る(和歌山側)崖下の車道ができて複雑になってしまっているが、江戸時代は家も少なくもっとシンプルであっただろう。しかし、問題は②である。何故『左紀州いセきごゑ』なのだろうか?。長年疑問だったことが、今回の深掘り調査で判明し納得できた。腑に落ちたのである。それは・・・・・。

浜街道(孝子越街道)は新旧2本あった

少なくとも明治時代中期以降は、通常私たちが「浜街道」と考えている道が浜街道であり、泉南記要(明治42年版)で根来街道起点とされているのは、当該道標地点である。しかし何時頃までだったのかは判然としないが、これより古い江戸時代の浜街道が存在し、通常この古い方の道が「いわゆる浜街道」だったのである。それは、掲げている地図でマーキングしているように、岡田の陸側を通り、座頭池の海側を通って樽井に至っては根来街道と交差して南泉寺横から道祖神を経て男里に至り、男里川を渡って下出に至る道が古い「浜街道」なのである。(男里川を渡るのはこちらが容易かったのだろう。)

「根来街道道標」は、三畑越え(根来街道)を教えるというよりも、「樽井」から「男里」を経由して「下出」にいたる、江戸時代浜街道・井関越街道ルートを教える道標だったのである。そのように考えれば、③右面に書かれた「すぐ大坂」の表示も、国市場や大鳥居まで行かなくても南泉寺横の「いわゆる浜街道」との交差点を左に曲がれば「すぐ」に大坂(岡田、陸)方面にルートをとれるのである


道標建立当時の浜街道は?

道標が建てられたのは裏面にあるように「天保十巳亥年十月吉日」(1839)年であり、実はこの前年(天保9(1838)年)には幕命により全国規模で作成された、天保国絵図が完成しており、その一部である「和泉国絵図」には明確に古い方の「いわゆる浜街道」が記されている。

国立公文書館デジタルアーカイブ「天保国絵図-和泉国絵図」はこちらから。(拡大できます。)天保 和泉国絵図

建立当時の当該道は「いわゆる浜街道」よりもっと浜に近い生活新道だったのである。その意味において、当該道標を歴史的に正しく位置づけるならば「浜街道・井関越街道に至るための(後世に浜街道となる道上の)村中道標」というのが正しいのではないだろうか。明治になってから当該道が浜街道になり、あくまで結果として三畑越えを示す「根来街道道標」になってしまったのである。(天保和泉国絵図では三畑越えは紀州(熊野)街道の「大鳥居」が起点になっていることからも、当該道標の役割が分かるのです。)

最後に

実はこの「井関越街道」は、「樽井町」や「阪南町」にとっては、幕末の歴史を揺るがす大事件の舞台となった道なのだ。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い(慶応4(1868)年)で敗れた会津・桑名を中心とする幕軍敗残兵は、大坂を経て泉州から紀州徳川家に逃れるために、大挙して雄山越えや井関越えに向かったのである。「樽井町誌」や阪南町「町史こぼれ話」にはその時のリアルな史実が詳しく記されている。脇田家に来た桑名の武士たちも、この「道標」を見て井関越えに向かったのだろうか。

※追記(2024/11/4)

以上、考えていくと①正面記載の『すぐ大川かた』は「すぐ大川(男里川)の方」と理解する方が妥当と思われる。「大川峠・加太」だったら、「すぐ」とは表現しないだろうし、「(左)いわゆる浜街道」ルートを案内したと思われるからである。これらを考えるポイントは「新浜街道」における、男里川渡河の問題を歴史軸(時間軸)で見ていく中で解決していくと思われるのである。

 

 

2024/10/24

清左のいいはなし 3 東叡山寛永寺二世公海とは誰か 


清左のいいはなし 3 

東叡山寛永寺二世公海とはだれか

 冒頭の画像は、まぼろしの海岸寺寺宝の一つ「公海上人坐像」。

桜で有名な現在の東京上野「寛永寺」は、寛永二年(1625)天海大僧正により創立され、家康はじめ歴代将軍の帰依をうけて徳川家安泰と万民平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された天台宗の寺院である。

貝塚市半田の海岸寺山にあった「海岸寺」は、岸和田藩主岡部家初代宣勝が第三代将軍徳川家光をとむらうために建立した寺院で、東叡山寛永寺の末寺であり、江戸時代の樽井南泉寺は海岸寺の末寺だったのです。寛永寺二世公海は海岸寺の造営に尽力されたのです。

実は貝塚の「ぼっかんさん」、願泉寺四代了周以降、歴代住職は東叡山寛永寺で得度剃髪を受けています。そして寛永寺の二世公海(日光山ほか天台宗一宗を菅領)から「真教院」の院号と「金涼山」の山号を下賜されています。願泉寺は本願寺東西分派以降も両本願寺と本末関係を保ち、昭和の戦後まで両派に属すという、真宗寺院でも極めて特殊な歴史を有しますが、その願泉寺がなぜ天台宗の東叡山寛永寺の「御支配」寺院に位置付けられていたのでしょうか。   

それはこの「公海大僧正」こそ、願泉寺初代卜半斉と同じく、新川家出身の女で、生涯にわたって本願寺教如の寵愛を受けた「おふく」(教寿院如祐)の外孫、幼名「熊丸」(花山院忠長に嫁いだ教如とおふくの娘の子)であることは、泉南市民歴史倶楽部の貝塚寺内の例会に参加された方は覚えておられるにちがいありません。

各地の史跡をめぐり、その歴史を深堀りしていくと、意外なところで歴史と歴史が繋がっていきます。これも史跡探訪の楽しみの一つなのです。







2024/10/20

清左の豆知識 2 岸和田藩七人庄屋

 

泉南歴史豆知識 2

岸和田藩七人庄屋

岸和田藩の郷中支配

近世になってからの領主支配は、いわゆる「村請制」が採用され、年貢・諸役の納入や法令遵守を村単位で請け負わせました。庄屋(村政運営の中心)・年寄(庄屋を補佐)・百姓代(庄屋、年寄の監視役)とよばれた村役人が置かれ村政を司ったのです。庄屋は、願・届・公事訴訟のために岸和田城等に出向くことが多く、けっこう多忙だったといわれています。各藩では各村々と役所の間に大庄屋(いくつかの村を統括。法令伝達、願書・届出の奥印、争論の仲裁等)を置くことがありましたが、岸和田藩もこれに相当する制度をとりました。

松井(松平)氏時代 代官庄屋制(1619(元和5)~1640(寛永17)年)

まだまだ中世の色合いを残す近世初期でしたので、「八人之代官庄屋」が置かれました。(それぞれが、大きな権益をもっていた村々を管轄したようです。)

郷士代官 熊取村   中左近、 中(降井)左衛門尉

     瓦屋村   新川三郎衛門

代官庄屋 岸和田村  久左衛門(岸)

     土生村   荘左衛門(小門)

     脇浜村   久左衛門(佐々木)

筆頭庄屋 佐野村   十郎太夫(藤田)、 久左衛門(吉田)

  岡部氏の支配 七人庄屋制

入部した1640(寛文17)年の高札に掲げられた「定」には、「8人の代官庄屋制度は今年限りで廃止する」と記されていますが、本当は何時からかは疑わしいのですが、これにかわって採用されたのが「七人庄屋」制です。一般の庄屋は村から藩に願い出て許可される手順になっていましたが、七人庄屋は「御上」から仰せつけられる存在で、世襲による任命でした。

熊取村   中左近、 中(降井)左太夫

佐野村   藤田十郎太夫、 吉田久左衛門

岸和田村  岸六右衛門

樽井村   脇田右馬太郎

畠中村   要源太夫※  (※1789年までは市場村 小川信左エ門)

 岸和田市史等、各市市史はここまでの記述になっているのですが、貝塚市が発行している「かいづか文化財だより「テンプス」40号」では、上記6家の次に信達市場村小川信左エ門を掲げ、1789(寛政元)年からこれに代わって畠中村要源太夫となったことを紹介しています。

 さらに、七人庄屋に準じるものとして、江戸時代後期に4名の「七人格」が設けられ、藩内に重大な問題が生じたときには協議に参加し、七人衆の補佐・代役として郷会所への参加を求められました。信達市場村の角谷彦兵衛もその一人であったとされています。



2024/10/18

清左の豆知識 1 根来赤井坊少納言

 

泉南歴史豆知識 1

根来赤井坊少納言

戦国時代の根来寺

戦国時代の根来寺には、多くの坊院、坊舎がありましたが、真義真言宗の修行場・学問所である学侶(寺に所属する僧侶)の坊院と、周辺の土豪、地侍、惣村の有力者などが寄進して寺内に建立した行人方坊院の2種類の坊舎がありました。

元々、行人方坊舎は学侶を世話する寺男等の詰め所という建前だったらしいですが、戦国期の行人方坊舎の実態は本来の行人の定義から外れて、周辺土豪の一族子弟が門主(住持、坊院主)となり、一族郎党等を集めて寺内に惣分(惣の軍隊)を形成して力を蓄えたといわれています。

いわゆる「根来衆」と呼ばれる根来寺戦闘集団は、根来寺に数百もあったといわれる行人方坊院の惣分のことなのです。

熊取町の中家は一族の子弟を根来寺の「成真院」の僧としますが、戦国時代は「根来大納言坊」を名乗り、根来寺敗北からは家康に仕えて関ケ原、大坂陣に参戦して和泉国(天領)代官となり、江戸時代は所謂「根来同心」を統括した旗本根来家3450石(滋賀県近江八幡市安土町東老蘇に陣屋跡あり)として幕末までつづきました。


根来閼伽井坊少納言

閼伽井坊(赤井坊)も行人方坊院の一つで、戦国時代初期からいろいろな文献にその名が登場します。例えば日根野荘では1504年に九条政基が帰京する際には代官職となっています。秀吉の根来攻めから江戸初期の頃(中世末~近世初め)の話は石橋直之の「泉州志」(1700年)の記述で有名です。また、熊取の中盛彬の「かりそめのひとりごと」でも馬場村の子孫のことが記述されており、子孫の方々は現在も馬場にお住まいになっています。









2024/10/02

清左のいいはなしー2 2024「新川塾」

 


清左のいい話②

2024年度「新川塾」で、119日(土)に私のライフワーク「富屋食堂は砂川にもあった」をお話します。

 

今年も「泉佐野ふるさと町屋館」恒例の「新川塾」が、10/6()12/7()までの原則土・日曜日午後2時から3時30分まで、11回連続シリーズで行われます。

今年は、主催者の特定非営利活動法人、泉州佐野にぎわい本舗からの要請で、私が語り継いでいる佐野飛行場の特攻隊物語、「富屋食堂は砂川にもあった」をお話させていただけることになりました。

昨年、泉南市の埋文センターでお話した際は、「花房旅館」の地元、砂川や泉南市内での話を中心におはなししましたが、今回は165振武隊が出撃したあとの6月以降、上之郷における話も折りまでて、生き残り隊員のご家族から託された写真(史料)をフル活用してお話したいと思います。よろしかったらご参加ください。

と き 令和6年11月9日(土)午後2時~3時30分まで

ところ 泉佐野市本町5-29  TEL072-469-5673

申込み 電話同上、FAX072-479-6789







2024/10/01

泉南歴史トピックス2ー⑬ 高城の宮の謎

 

泉南歴史トピックス2―⑬

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

最後に、高城の読みは? 二つの可能性

 

やはり最後に、この究極の謎問題に触れないわけにはいかないと思います。私が今のところ一番の「読みの比定」候補と考えているのは、以上のように「高城神社」の社名が登場してきたと思われる経過から考えて、本シリーズ2-③でも記したように、高城神社の主祀神が神武天皇の兄である彦五瀬命であり、彦五瀬命の「雄たけび」が地名(雄信達)由来となっていることを考えれば、同じく神武東征伝承に登場する「菟田の高城(たかぎ)」から、「たかぎのみや」と呼ばれたと比定したいと思っています。

  しかし、その後重要な点に気づいたのです。それは、貝塚市に「高城」(たかじょう)が存在したという事実です。「日本城郭全集9」(人物往来社1967)には「高城(たかじょう)、貝塚市三ツ松。三ツ松に古城跡がある、天文から天正(15321591)の頃、紀州根来寺の衆徒が築いて拠った城砦という。」とあります。泉南市馬場は、泉州の郷土史家に広く知られる「紀州根来、閼伽井(あかいぼう)少納言」の本貫地なのです。そして、高城神社は馬場の「殿垣外」(殿の屋敷に繋がった土地)に存在し、そしてそこに今も関係者の方もお住まいになっています(分家とのことです)。また、先に紹介した馬場の字名地図には「殿垣内」を囲むように、点々と「城ノ前」という字がいくつも存在しています。江戸時代初期に赤井坊少納言とともに馬場に帰農した人たちの過去のレガシーによって、この名が復活してきた可能性も否定できないのです。

貝塚市教育委員会でも「高城」(たかじょう)の詳しいことは分かっていませんので、読者からの関係情報をお願いする次第です。そして、貝塚市の高城(たかじょう)と根来閼伽井坊少納言の関係がもう少し具体的になれば、私の読みの比定を「たかじょうのみや」と訂正する可能性を保留して、本シリーズを終了いたします。

(下の画像は、中盛彬の「かりそめのひとりごと」の「信達庄馬場村の辻右衛門」と石橋直之の「泉州志」の紹介。)(※資料として切り貼りした、泉州志、石橋直之の出身地が間違っています。正しくは「下出(しもいで)の文人」です。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(おわり)






泉南歴史トピックス2ー⑫ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2―⑫

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

明治維新による宗教政策、神社政策

 

明治維新後、全国の神社は国家管理のもとにおかれ、社名や祭神が変更された例は全国各地で広範にあります。記紀神話や延喜式等によって権威付けられた神々に信仰対象を転換する作業も広範に行われたのです。個別に史料で確認できた内容ではありませんが、馬場の産土社も祭神の中心に「彦五瀬命」をすえて「高城神社」という社名となり村社として位置づけられたのだと思われます。その後、神社政策の変更で整理統合化が進み、明治41年には信達神社に合祀されてしまいました。わずか340年足らずの社名が一般の地元民にはあまり定着しないまま合祀となり、その後の時代の村民にも十分継承されなかったのではないかと思われます。

岡中の「意賀美神社」という神社名もこれと同様に、村の人々には全く定着していなかったと思われます。少なくとも私は「雨山の神さん」(一般村民にはこう呼ばれていた。)のことは聞いていますが、神社名が「意賀美神社」とは祖父母、父母、本家の叔父叔母等から聞いたこともないし、村の古老たちからも聞いたことはありません。むしろ江戸時代からの言い伝えで、雨乞い神事の時に岸和田藩の役人が馬を繋いだ「馬つなぎの三本松」の伝承の方が有名です。私がたまたま歴史、民俗好きで、雨、水の神様は龍神で「高龗」(タカオカミ)、よくある神社名が「意賀美神社」という知識があるから違和感がないだけで、村の人たちは「雨山の神さん」と思っているのと同じことだろうと思うのです。一方、泉佐野市上之郷の「意賀美神社」も江戸時代は全く別名でしたが、明治以降ずっと続いているため、今では有名な神社になっています。

(なお、余談ですが「雨山の神さん」は合祀後の今でも岡中、幡代、山中新家、自然田等の付近村民に崇敬されており、山中新家が近年新調した「やぐら」には「雨山の雨乞い神事」がきっちり彫り込まれています。)

(上の画像は、絵を描き始めたころの練習のスケッチ。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)