2024/08/18

泉南歴史トピックス1-⑧泉南市内の王子社問題(追録2)


 ―発信する側の自覚と責任の問題。敬愛する歴史語り部T氏のことー 

今から 15、6 年前くらいに知り合った先輩女性から連絡をいただきました。当時、私は定年退職を前にして、泉州の教師の方々を中心とする「未知(路)の会(みちのかい)」という歴史街歩きのグループに入れていただき、会を主宰されるT氏に歴史を語ることの素晴らしさを教えていただきました。氏は熊野語り部活動をはじめとして、郷土史や歴史民俗について自分で歩いて探求した内容を積極的に発信し、講演活動や自家本の発行など幅広く活躍され、未知の会が100 回を迎えて終了するまで、本当に勉強させていただいた最も敬愛する歴史語り部です。先輩女性からの話とはその頃のエピソードにまつわる話なのです。 T氏は 2001年4月8日に、「大阪府下の熊野古道と王子社」という自家本(非売品)を出版され、府下図書館等に寄贈されています。各種地誌類や先に紹介した 「熊野古道みちしるべ」も随所で引用し、自分の足で現地に赴き調べた結果をまとめた素晴らしい本で、観光案内をされているグループでは、この本を参考にされて いることが多いのではないでしょうか。 その後、先輩N氏は 2005年~6 年に「泉佐野の歴史と今を知る会 会報第 215 号~222 号」に「長岡王子をさがす」を連続投稿し、泉南市内の王子社の比定についてT氏の説(馬頭=信達一ノ瀬王子。岡中鎮守社(神明神社)=長岡王子)とは違う説(馬頭=長岡王子。街道L字のS邸付近=信達一ノ瀬王子)を発表されたのです。未知の会メンバーの中ではいろいろな話が飛び交いましたが、どんな分野の研究者間でも当然ありうることとは思いつつ、私はN氏説を支持していたためT氏がどう考えているかは関心があったのです。


今から 10 年前の 2014 年4月27日、未知(路)の会、第 97 回「熊野古道:和泉砂川~山中渓」のT氏作成レジュメがここにあります。T氏は馬頭観音を長岡王子、街道L字(走り掛け)のS邸付近を信達一ノ瀬王子、金熊寺川を一ノ瀬と説明されました。N氏の研究成果を自説に取り入れて説明されたのです。T氏とN氏、二人を知る私の心には、真剣に調べ研究する者同士の、お互いをリスペクトする清々しい二人の姿があります。

そう言いながらも、自説を改めなければならなかったT氏の心の内には苦渋があったでしょう。しかし、もし私が当事者でありN氏説が正しいと考えるようになってしまったら、やはり自説を改めて皆さんに説明してしまうと思います。それは何故か、いろいろ考えてみるのですが、うまくは言えませんが、究極「地域や郷土の歴史に対する愛情」ではないでしょうか、自分が大切にしたい地域の歴史への思いに嘘はつけない。それが「語り部」なのです。先輩女性からの電話の話題はその頃のことです。

(本シリーズをお読みの方は、1-①からの順にお読みください。)

(今回で本当にシリーズは終わりです。必要になれば何時でも追加いたします。)



2024/08/04

泉南歴史トピックス1-⑦泉南市内の王子社問題(追録)

 ―友人からの意見と私の回答―

1-⑥で本シリーズは終わったのですが、すぐに見てくれた私の友人(郷土史好き)から、貴重なご意見を頂きました。「「大阪府全誌」では、信達一ノ瀬王子は牧野の南口にあって長岡王子は岡中の走り掛けにあったと書いてあるではないか」とのこと。そのとおりです。だから、当地の王子社比定は混乱していると言っているのです。適当に特定の地誌類を見ても何も解決しないくらい混乱しています。地誌類を見るのなら全てを見る(不可能かもしれませんが----)。その結果混乱の極みにあることが分ります。特に大阪府全誌はどこの図書館でも置いてあるので、安易に考える人はこれに依拠してしまいます。地誌類のほとんどが、江戸時代や明治時代以降に書かれたものですが、王子社の名称も「長岡王子」、「信達王子」「信達一ノ瀬王子」「一ノ瀬王子」と四つもある。さらに厩戸王子から地蔵堂王子までに、これらが二つのもの、一つのもの、一つのもので同一とするもの、それぞれの場所比定も様々なのです。だからこそ、修明門院熊野御幸記の件の発見は重要なのです。「次長岡王子、次信達王子、次於雄山一瀬有御禊」は、単に私たちに王子が二つあったことと、その順番を教えてくれているだけではありません。「信達王子」「信達一ノ瀬王子」「一ノ瀬王子」の三つの呼称は信達と一ノ瀬で結ばれています。信達の一ノ瀬なのです。信達王子に参ってから禊をした一ノ瀬がどこにあるというのでしょうか、それを考えれば明白です。樫井川は厩戸王子の前だから金熊寺川しかないではないですか。そして、その金熊寺川は山中川(ニノ瀬)、菟砥川(三ノ瀬)と合一して男里川になる。だからこそ、N氏の紹介してくれた山中川を禊地とし、和泉鳥取駅付近に長岡王子があったとする説があるのならば、王子そのものにかかわる史料等を示すべきでしょう。

王子を巡る議論が混乱するのは、案外、このような我田引水の発想からのような気もします。そして、岡中西遺跡の意味と王子社比定を関連して考える議論は私のものですが、一ノ瀬でなぜ禊をしたのか、後鳥羽院はその後なぜ祓いをしたのか、それは川を過ぎれば「鬼木」、「鬼気」、「鬼来」る地であると信じられていたからだと思うのです。和泉鳥取はまだその先なのです。

(本シリーズをお読みの方は、1-①からの順にお読みください。)

(今回で本当にシリーズは終わりです。必要になれば何時でも追加いたします。)

泉南歴史トピックス1-⑥泉南市内の王子社問題(長岡王子、信達王子)


 ―長岡王子、信達王子、私の説明(続き)―

もう一つの信達一ノ瀬王子の方は、岡中に「王子庭」があって寺社奉行に届け出た元禄時代の史料が残っています。これは和泉国寺社覚にも反映しています。そして、明治初めの日根郡中村和絵図という村保有の立派な地図があり、これにもはっきり載っています。その後、明治 43 年の神社合祀で信達神社に合祀されましたが、今は合祀された三社一緒に村に戻され鎮守の樟の下で祀られています。こちらの方は史料的にはかなり充実しているといえるでしょう。そして決定的なことを言いますが、私の青年時代くらいまでその場所付近には合祀後の石祠があって、私自身がそれを毎日目撃していました。実は、阿倍野王子神社の宮司さんの長谷川靖高さんが書いた「熊野王子巡拝ガイドブック」という本に、「厩戸王子の石禿倉(いしほくら)は今は合祀先の、一岡神社の境内社「市杵島神社」として祀られている」と紹介されていますが、実際に一岡神社で見てみたら、私が見た岡中の祠もこれによく似ていたという記憶があります。

ただし、史料では「王子庭」や「王子社」と表記され、正直、信達一ノ瀬王子跡だという自覚はありませんでした。なに王子かは分からなかったのです。しかし、それをはっきりさせてくれたのが先輩Nさんの見つけた「修明門院熊野御幸記」の記述です。次長岡王子、次信達王子、次に雄山一瀬(金熊寺川)で禊をしたという記述によって、岡中の王子庭は信達一ノ瀬王子だとはっきり考えるようになりました。そして

約 36 年前に発見された岡中西遺跡は、これらのことを裏付ける重要な発見だと思っています。そしてもう一つ、岡中、山中を過ぎて雄山を越えれば「山口王子」です。この山口王子をうたった歌に「長岡、信達も過ぎぬれば、あの彼方是方の峰つづき、雲の幾重ぞ外に見えし、葛城山の山中、山口の王子に来けらし」(「宴曲抄」鎌倉時代成立)。次長岡王子、次信達王子、は修明門院熊野御幸記の記述だけではないのです。』というところだろうか。(本シリーズ終わり。平成 30 年に泉南市図書館でお話しさせていただいた内容を整理し、加筆したものです。)


泉南歴史トピックス1-⑤泉南市内の王子社問題(長岡王子、信達王子)


―長岡王子、信達王子、私の説明―


市民から聞いた話なのだが、この地を案内する方たちが当該地を「信達一ノ瀬王子」と案内されるので、その市民は「長岡王子でしょ。近くの墓地も長岡墓地よ。」と言ったら、「それは市に言ってください、私たちは市が信達一ノ瀬王子と言っているから、そのように案内しています。」と返答したというのだ。私はそれを聞いてがっかりした。その時説明された方が、比定混乱の実情を知ったうえで、自分で十分調べて考えた結果として「信達一ノ瀬王子」であると案内したのならば、それはそれでよいと思うし尊重したいとも思うが、「市が言っているから」はないだろう。ということで本シリーズ最後に、私なりの説明を紹介したいと思う。(長くなるがお許しいただきたい。もちろん馬頭付近での実地の口頭案内ではここまで詳しくは困難です。)

『市内の王子社の比定は以前から混乱しています。私は、先輩の郷土史家によって当地付近が「長岡王子」であり、岡中の紀州街道L字部分付近に「信達一ノ瀬王子」があったという説を支持しています。ただし、長岡王子についてはこの付近であったとは思いますが、現在の切通しは阪和線盛り土工事の時に、大きく削られて以前の街道と道筋が変わっています。村の古老の話によれば、もう少し幡代側、厚生福祉C側に元々の道があり、その道の傍らに小さな祠か地蔵のようなものがあったとする(複数の)伝承があります。(つづく)





2024/08/03

泉南歴史トピックス1-④泉南市内の王子社問題(長岡王子、信達王子)



―西氏の調査とその後の影響。問題は「字、走り掛け」の所在―

そんな中、現代の熊野古道ブームの火付け役となった名著といわれる一冊の本がある。戦後、熊野街道九十九王子の本格的調査に乗り出し、何度も足で踏査した結果をまとめた、西律氏(田辺市本宮町の郷土史家)の「熊野古道みちしるべ―熊野九十九王子現状調査録」(当初ガリ版刷り昭和58年、活字本昭和 62 年)である。西氏は当地の混乱した王子社比定のなかで、岡中の「王子庭」の存在にも気づかれていた。そして、泉南市に「王子庭」の所在地、「字、走り掛け」がどの地域なのかを照会し、市からは「岡中の樟を中心とする地域」という回答も得ている。(樟は「字長前寺」だが、「字走り掛け」が樟に近い地域であることに間違いはない。)しかし、「字走り掛け」の所在をなぜか馬頭観音付近と信じ切っていたことが原因で、市の回答に基づくその後の調査を行わなかった。そして「信達・長岡王子は一ノ瀬王子の別称に他ならない」という結論になってしまっている。氏が市の回答をもとに、(本当の)字走り掛け周辺の悉皆調査を実施していたならば、岡中の和絵図(と残されていた石祠)に到達していた可能性は高いと考えられる。(詳しくは「みちしるべ」31~33P参照)

その後の熊野九十九王子関係本は、この本を少なからず参考にして書かれたことにより今日の事態は確定してしまった。 一か所論を前提とした結果で、地誌類の多くが紀州街道牧野南口付近(馬頭付近)を比定地として長岡、信達、信達一ノ瀬、一ノ瀬と名称が入れ替わっているのが現状なのだ。さて、時は経て市自体が出す熊野街道マップ等にも、牧野の馬頭観音付近を信達一ノ瀬王子と表示する事態となったが、N氏をはじめとする郷土史愛好家や市民から批判が出るので、現在市は前に出ることなく、現地には「伝信達一ノ瀬王子」という地元の標柱が立ち、マップ等作製の主体は観光協会となっている。(つづく)





泉南歴史トピックス1-③泉南市内の王子社問題(長岡王子、信達王子)



 ―N氏の論考をフォローする新たな史料― 

前回の泉南歴史トピックス 1-②で泉南市民歴史倶楽部のN氏の論考を紹介したが、論考中「信達王子(信達一ノ瀬王子)」の当該地区とされる岡中地区(明治 17 年までは日根郡中村)の歴史愛好者間では、N氏の調査結果を裏付けるさらに確かな別史料を有している。村の先輩にあたるY氏から写しをとらせていただいた寺文書(仮に「林昌寺文書」)の中には、村役(庄屋、年寄)から岸和田藩寺社奉行あてに提出した「元禄四年未二月十八日寺社御改帳控」(年貢の村高から「除地」扱いしてもらうための届出の控え)があり、この中で明確に「王子庭」が届出されているのである。そして近世を通じて何年かに一度、各村から寺社奉行あてに提出され集約されたものが、いわゆる「和泉国寺社覚」(和泉志、昭和 32 年、所収)なのであり、 もちろんここには日根郡中村の「王子庭」も搭載されている。 では何故、ここまで史料的にも明らかな「中村の王子庭(王子社)」が歴史の闇に消えてしまったのか。様々な要因が考えられるが、明治43年 9 月12日に、「大字岡 中同字走り掛の無格社王子神社」は「字長前寺の神明神社」と「字雨山の意加美神 社」とともに信達神社に合祀(大阪府全志等)されてしまったことがあげられる。しかし、戦後になってこの三社は岡中地区の要望で、岡中にもどり三社合殿で岡中鎮守 の神明神社、大楠のもとに戻したのである。戻した時に王子社と意加美神社も元々の場所にもどしていたら今日の事態は生じていなかっただろう。そんな中、各種地 誌類にも混乱が生じ、場所比定も様々となってしまった。(つづく)







泉南歴史トピックス1-②泉南市内の王子社問題(長岡王子、信達王子)



―本当は解決済みの王子社問題―

前回の泉南歴史トピックス 1-①で「当地域の混乱する王子社の比定----」と書いたが、実は今から 19 年前に泉南市民歴史倶楽部会員のN氏(郷土史家)が「泉佐野の歴史と今を知る会、会報第 215 号~222 号」に連続投稿した論考、「長岡王子をさがす」の中で、ほぼ完全に整理し発表されている。史料を丹念に読み解きながら、市内をはじめ近隣市町を含めた実地調査と丹念な聴き取り調査の結果、それまでの比定混乱を克服している。氏はこれを小冊子ファイルにまとめ、岸和田以南の近隣図書館に寄贈されているのでぜひ一度ご通読いただきたい。いつか必ず通説化し論考の妥当性を歴史に刻むことだろう。 しかし論考中の話題が多岐にわたることから、氏の許しを得て研究成果のポイントを要約すれば、①「修明門院熊野御幸記」における「次長岡王子、次信達王子、次於雄山一瀬有御禊」の一節の発見、②先輩郷土史家達の貴重な成果物である「泉南市旧字名地図」における現、馬頭観音の場所が「牧野字長岡」であることの発見、③現、岡中地区所蔵で、字走り掛けの王子社を示した「日根郡中村和絵図」(明治初年頃成立)の発見であろう。とりわけ①は大苗代の厩戸王子から山中渓の地蔵堂王子までに王子社は一つだけなのか(同じものなのか)、二つあったのかに決着をつける極めて貴重な発見なのである。しかし、発表から20年近くたった現在、ますます「熊野古道・熊野詣ブーム」が広がるなかでも各種出版物、各種報道、観光案内などで氏の論考は顧みられていない。そこで論考の存在を再度周知した次第である。 (つづく)






泉南歴史トピックス1-① 岡中西遺跡発見の歴史的意味



 ―発見された中世の井戸や建物跡が教えてくれるもの―


今から約 35 年前に市民の連絡で発掘調査された「岡中西遺跡」。場所は金熊寺男里線と近世紀州街道(熊野街道)の交差点付近で、現在はローソン信達岡中店駐車場前となっている。金熊寺川の左岸沖積段丘上に立地し、鎌倉時代にまで遡る遺構群らしい。ここで特筆すべきは、石組み井戸と建物跡が発見され、井戸からは「呪符」や「独楽」が発見されたことである。呪符の「急急如律令」の文字は疾去鬼(疾く鬼よ去れ)の意で、流行する病や災いを防ぐために記されている。独楽は駒につうじ当時の人々は、最高速の乗り物に騎乗する鬼神が流行病を運んでくると考えていたらしい。中世にはここで何らかの祭祀が行われたのだろう。今でも金熊寺川より西の地区には「鬼木、鬼来」という字名が広範に残るのである(鬼木田、鬼木池、鬼来橋)。遺跡発見から見えてくるものはこれだけではない。承元四年(1210)、藤原頼資が記した「修明門院熊野御幸記」では「次長岡王子、次信達王子、次於雄山一瀬有御禊(次に雄山一瀬(金熊寺川)で禊をされた)」とあり、また永暦元年(1201)、藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」では「払暁出道参信達一ノ瀬王子、又於坂中祓(信達一ノ瀬王子に参拝し、その後坂中(鬼木池下のスベリ坂)で祓いをされた)」とあることとも符合する。そして、金熊寺川約2キロ上流の信達神社「疫神社」は、大阪府全誌等で「疫神社は延喜式の臨時祭に見ゆる畿内の堺に置かれし十處疫神中の一ならんという。」とされており、古代街道筋から考えて当地にあった祭祀施設が、後世に信達庄惣社たる信達神社(金熊権現)に祀られたのかもしれない。当地域の混乱する「王子社」の比定や、信達神社「疫神社」を考える上でも重要な手がかりを与えてくれたのである。(つづく)