―発見された中世の井戸や建物跡が教えてくれるもの―
今から約 35 年前に市民の連絡で発掘調査された「岡中西遺跡」。場所は金熊寺男里線と近世紀州街道(熊野街道)の交差点付近で、現在はローソン信達岡中店駐車場前となっている。金熊寺川の左岸沖積段丘上に立地し、鎌倉時代にまで遡る遺構群らしい。ここで特筆すべきは、石組み井戸と建物跡が発見され、井戸からは「呪符」や「独楽」が発見されたことである。呪符の「急急如律令」の文字は疾去鬼(疾く鬼よ去れ)の意で、流行する病や災いを防ぐために記されている。独楽は駒につうじ当時の人々は、最高速の乗り物に騎乗する鬼神が流行病を運んでくると考えていたらしい。中世にはここで何らかの祭祀が行われたのだろう。今でも金熊寺川より西の地区には「鬼木、鬼来」という字名が広範に残るのである(鬼木田、鬼木池、鬼来橋)。遺跡発見から見えてくるものはこれだけではない。承元四年(1210)、藤原頼資が記した「修明門院熊野御幸記」では「次長岡王子、次信達王子、次於雄山一瀬有御禊(次に雄山一瀬(金熊寺川)で禊をされた)」とあり、また永暦元年(1201)、藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」では「払暁出道参信達一ノ瀬王子、又於坂中祓(信達一ノ瀬王子に参拝し、その後坂中(鬼木池下のスベリ坂)で祓いをされた)」とあることとも符合する。そして、金熊寺川約2キロ上流の信達神社「疫神社」は、大阪府全誌等で「疫神社は延喜式の臨時祭に見ゆる畿内の堺に置かれし十處疫神中の一ならんという。」とされており、古代街道筋から考えて当地にあった祭祀施設が、後世に信達庄惣社たる信達神社(金熊権現)に祀られたのかもしれない。当地域の混乱する「王子社」の比定や、信達神社「疫神社」を考える上でも重要な手がかりを与えてくれたのである。(つづく)
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