2024/08/04

泉南歴史トピックス1-⑦泉南市内の王子社問題(追録)

 ―友人からの意見と私の回答―

1-⑥で本シリーズは終わったのですが、すぐに見てくれた私の友人(郷土史好き)から、貴重なご意見を頂きました。「「大阪府全誌」では、信達一ノ瀬王子は牧野の南口にあって長岡王子は岡中の走り掛けにあったと書いてあるではないか」とのこと。そのとおりです。だから、当地の王子社比定は混乱していると言っているのです。適当に特定の地誌類を見ても何も解決しないくらい混乱しています。地誌類を見るのなら全てを見る(不可能かもしれませんが----)。その結果混乱の極みにあることが分ります。特に大阪府全誌はどこの図書館でも置いてあるので、安易に考える人はこれに依拠してしまいます。地誌類のほとんどが、江戸時代や明治時代以降に書かれたものですが、王子社の名称も「長岡王子」、「信達王子」「信達一ノ瀬王子」「一ノ瀬王子」と四つもある。さらに厩戸王子から地蔵堂王子までに、これらが二つのもの、一つのもの、一つのもので同一とするもの、それぞれの場所比定も様々なのです。だからこそ、修明門院熊野御幸記の件の発見は重要なのです。「次長岡王子、次信達王子、次於雄山一瀬有御禊」は、単に私たちに王子が二つあったことと、その順番を教えてくれているだけではありません。「信達王子」「信達一ノ瀬王子」「一ノ瀬王子」の三つの呼称は信達と一ノ瀬で結ばれています。信達の一ノ瀬なのです。信達王子に参ってから禊をした一ノ瀬がどこにあるというのでしょうか、それを考えれば明白です。樫井川は厩戸王子の前だから金熊寺川しかないではないですか。そして、その金熊寺川は山中川(ニノ瀬)、菟砥川(三ノ瀬)と合一して男里川になる。だからこそ、N氏の紹介してくれた山中川を禊地とし、和泉鳥取駅付近に長岡王子があったとする説があるのならば、王子そのものにかかわる史料等を示すべきでしょう。

王子を巡る議論が混乱するのは、案外、このような我田引水の発想からのような気もします。そして、岡中西遺跡の意味と王子社比定を関連して考える議論は私のものですが、一ノ瀬でなぜ禊をしたのか、後鳥羽院はその後なぜ祓いをしたのか、それは川を過ぎれば「鬼木」、「鬼気」、「鬼来」る地であると信じられていたからだと思うのです。和泉鳥取はまだその先なのです。

(本シリーズをお読みの方は、1-①からの順にお読みください。)

(今回で本当にシリーズは終わりです。必要になれば何時でも追加いたします。)

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