2026/03/16

(続)坂本先生が拓いてくれた地平。重要なのは考古学と文献史学の統合!



(かいづか文化財だよりテンプス9号。平成12年10月31日発行)

⚫️重要なのは考古学と文献史学の統合!

 わたしは前回の投稿「2026/2/28坂本先生が拓いてくれた地平とは」で、昭和63年(1988)泉南市信達岡中の「林昌寺」の本堂裏駐車場から少し入った竹藪から「林昌寺瓦窯跡」が発見されたことを示しました。


 
 この瓦窯跡からは焼土や瓦片が大量に出土したのですが、ロストルとよばれる平窯で出土した軒丸瓦、丸・平瓦。なかでも平安時代末期の所産となる「複弁蓮華文軒丸瓦」は一度破断してしまった范型を接合しており、痕跡が瓦当面に明確に残る特徴を持つと報告されています。



 一方、その前年にあたる昭和62(1987)年には、同じ岡中の「ちんじゅさん」(岡中神明神社や天然記念物の大楠で有名)内の「ちびっこ広場」を設置するための発掘調査が行われており、軒丸瓦や中世の寺院跡らしき遺物も発見され、結果としてここで出土した瓦はその同范瓦であるとのことです(泉南市文化財年報№1.1995.3泉南市教委)。
 つまり、発掘調査での出土は前後しているのですが、「ちびっこ広場」(岡中遺跡中心地)から発見された瓦片は「林昌寺瓦窯跡」で焼かれたものであり、中世の寺院跡らしき遺物に使われていたものと推定されるわけです。これが泉南市(役所)における埋蔵物調査の結果です。


 そして、前回投稿で示したとおり、今回(2028/2/28)の坂本先生の御講演によって、承安4.9.23(1174年)の「吉記(きっき)」(吉田経房によって書かれた日記)と、健保5.6.23(1217年)の「頼資卿熊野詣日記」(藤原頼資によって書かれた日記信達弥勒堂」が出てくることをご紹介しました。(先生作成の「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)ではNo.21とNo.29)
 さらにわたしは、天保十四(1843)年の泉州日根郡寺社覚の日根郡中村(岡中)に『浄土宗、本寺、中之庄村大光寺、「今断絶」法然寺、除地寺平地七百六拾七坪、彌勤堂、鎮守、天照大神社』とあることから、吉田経房や藤原頼資が熊野詣の時に立ち寄った弥勒堂が「ちんじゅさん」内の「ちびっこ広場」にあったのではないかと推定しました。


⚫️貝塚市の「加治・神前・畠中遺跡」の発掘調査

 さて、冒頭の画像は「かいづか文化財だよりテンプス」の第9号、平成12年10月31日発行の表紙です。



 テンプス第9号の2ページには、「貝塚市初!平安時代後期の瓦窯を発見!」として、貝塚市役所近くで畠中長楽寺からスグ、府道貝塚中央線左側の発掘地を図示しています。
 発掘調査の詳しい内容は、表紙から2ページ、3ページに写真、地図、図示で紹介されているのですが、結論としてこの瓦窯跡は「平安時代後期の瓦窯」であると結論付けされています。


 大切なのはこれだけでなく、テンプス第9号4ページの記載です。(これがさらに重要です)

 拡大して読めない方のために、左側から右側にかけて記されていることをそのままご紹介します。

(左側)
瓦窯で焼かれた瓦はどこで使われていた?
「今回の調査では、大量の瓦が出土しており、平安時代後期の瓦が大半を占めます。当時、瓦を使用する建物は寺院であり、大量の瓦は寺院の屋根に葺かれていたと考えられます。調査地周辺には「コギ堂」という字名が残っています。これは、古文書に記述のある「近義堂(こぎどう)」という寺院のことと考えられます。発掘調査で「近義堂」と考えられる建物の遺構は発見されていません。しかし、当時の瓦窯は寺院の建立や修理の時につくられることが多いことから「近義堂」が調査地近くに存在したことが確実となりました。」


(右側)
「近義堂」とは?
「藤原経房の日記「吉記(きっき)」、承安4(1174)年9月23日の条に「古木堂」、藤原定家の日記「明月記(めいげつき)」建仁元(1174)年10月7日の条に後鳥羽上皇が昼食をとった「コ木ノニ王堂」が記録されており、皇族や貴族等の熊野詣の宿泊・休憩所として利用された寺と考えられています。字名は残っていますが発掘調査では発見されていない、まぼろしの寺です。」


※筆者注、①藤原経房と吉田経房とは同一人物。②藤原定家「明月記(めいげつき)」とは有名な「後鳥羽院熊野御幸記」と同一文書。
※筆者注、貝塚市は畠中の瓦窯跡の発見により、付近の字名地や発掘地周辺を近義堂推定地に比定しています。泉南市では林昌寺瓦窯跡と、その瓦片が岡中遺跡中心地(ちびっこ広場)から出土していますが、その後の解明がなされていません。



⚫️泉佐野市、日根荘の長福寺跡
 わたしがもう一つ近くの例を紹介するとしたら、お隣泉佐野市の日根荘に九条政基が滞在した現在の下大木、「長福寺跡」の例です。泉佐野市では早くから官民が活発に「政基公旅引付」(1501〜4年の前関白、九条政基の滞在日記)の文献調査・研究が行われてきました。そのなかで下大木の「字チョークジ」が「旅引付の長福寺」ではないかと言われてきました。


 しかし、平成10年(1998)の日根荘の国史跡指定時には、「長福寺跡」はその構成文化財ではありませんでした。その後、「字チョークジ」付近の発掘調査が行われ、みごとに長福寺跡」が出現したのです。
 そして、現在「日本遺産 日根荘」を構成する16の構成文化財の一つとなっています。

 
 以上、貝塚市や泉佐野市の事例を紹介しましたが、ここで重要なのは発掘調査し結果を残すだけでなく、その文化財の(歴史的)意味を総合的に明らかにしていく作業です。そのためには「発掘調査」だけでなく「歴史学(文献史学)」の知見・機能が統合してあってこそ、貴重な歴史遺産を後世に残していけるのであり、それが結果として「都市格の向上」(例:世界遺産、日本遺産)にも活用することが出来るのです。


 泉南市にはこのような機能が欠けていたことが残念でなりませんが、今からでも遅くはありません。欠けている機能を補う方法は、個々の自治体による人の採用だけでなく、高いレベルでの歴史学(文献史学)とのネットワークによる方法論で対応することも出来ると思うのです。



2026/03/06

2026/2/28坂本先生が拓いてくれた地平とは

 



        (「中世の根来寺と泉南」講演会2026/2/28(土))

⚫️新しい地平

 私は当日、先生の講演終了後に「坂本先生の御講演は、『泉南市の中世の歴史』について、新しい地平を拓いてくださった」と申し上げました。参加者の皆さんの中には「何を大袈裟なことを言っているのか」と思われた方もおられるかと思います。
 もとより泉南市の中世の歴史は、今日までも上皇や法王の熊野御幸や高野参籠に関わる文書群により解明された歴史を中心に語られてきました。


 また、中世後期の歴史という点では、「政基公旅引付」(1501〜1504の九条政基の日根荘滞在日記)や「日輪山清明寺代々記」(新家上村清明寺)の記述を中心に語られ、昭和62年に刊行された「泉南市史通史編」もこれらの記録や文書群の上に立って編まれたものですし、昭和57年の「同史料編」はその関連史料をまとめたものです。


 今回の坂本先生のお話は、これら市史発行から40年を経た今日、日本文献史学の新たな研究動向を踏まえたものだと思ったからでした。
 それは配布された3種類の資料の全てに反映されていますが、例えば「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)は、160種類にもわたる関係史料を、年月日・史料名と「キーワード」を付して作成いただいており、これらの内容がスライド集や特出しの配布史料にも反映され、講演もこれらに基づいて進めてくださったからです。


 例えば、「高野山文書」(御室御所参籠日記)は新家荘の中世史に関わる史料ですが、市史史料編への搭載はなく、通史編でもとりあげられていません(田尻町史では搭載)。また「醍醐寺文書」は史料編に搭載され、通史編でも取り上げられてはいるものの、内容はその後十分掘り下げられているとは言えないものです。


 今回の先生のおはなしが、加納や上男保・下男保・新荘・本荘など「新鮮な話や固有名詞」がいっぱいだったのは、信達荘の荘園領主たる醍醐寺三宝院(大伝法院座主)の記録(「醍醐寺文書」にスポットをあててくださったからなのです。お隣の日根荘については、若い研究者達による研究が日進月歩のように進んでいます。我が泉南市においても、応永の乱の信達荘への影響などとともに、今後の史学研究の進展を待ちたいところです。
(2026/3/8追加)
※「醍醐寺文書」とは。
※近年における「醍醐寺文書」に関する研究動向(論文)はこちら。
(2026/3/10追加)
※読者から上記文中の応永の乱がわからないとの連絡がありました。「応永の乱」はこちらから。もっと詳しいのはここからも。

⚫️信達弥勒堂(しんだちみろくどう)のこと

 さて、私が一番に注目し、気になり、今後も究明したいのが、先生のスライド5枚目「信達荘の寺社と村を探る中に出てくる「・信達の弥勒堂:林昌寺?(林昌寺縁起によるとかつて弥勒堂があった『市史』)」という1行です。弥勒信仰はこちらから。ここからも。
 

 泉南市史通史編の第二章 和泉国における荘園制の展開、第五節 金熊寺衆徒の願文、175P末から176Pの「林昌寺の縁起」には、『林昌寺は躑躅山の山号をもち、最盛期には・・・・・の三院六坊があって、三院が学侶方、六坊が行人方に所属しているとしている(林昌寺霊像伝記)。学侶、行人の組織は高野山の寺院組織と同じで・・・・、林昌寺もミニ高野山の僧侶組織を採っているのである。』続いて、『林昌寺の縁起によると、・・・・・、三間四面の弥勒堂・・・・・などの堂塔を構えた。』とあります。
 その後の176P「行基伝説と泉南」のとおり、私もこれらは所謂泉州における(行基)伝承の一端と考えるものですが、今回の先生のお話に触れてこれら伝承の基となる林昌寺の歴史(もっと広く岡中(日根郡中村)の歴史)をさらに解明したい欲求にかられるのです。


 先生作成の「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)には、No.21承安4.9.23、1174年、史料名「吉記」に「信達宿、信達宿弥勒堂」が出てきます。(吉記(きっき)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿、吉田経房(よしだつねふさ)によって書かれた日記です)。
 また、No.29健保5.6.23、1217年、史料名「頼資卿熊野詣日記」((よりすけきょうくまのもうでにっき)にも「信達弥勒堂」が出てきます。(「頼資卿熊野詣日記」は藤原頼資(ふじわらよりすけ)自身が生涯20回にわたって行った熊野詣の日記ですが、頼資による「修明門院熊野御幸記」の承元4.4.24、1210年(先生の史料No.は27)では、長岡王子のあとに信達王子に参り、その後、雄山一ノ瀬(金熊寺川)で禊をした記述により、信達王子(信達一之瀬王子)が「岡中(中村)の字走り掛け」に存在したことを証明してくれた貴重な文献史料です。)(※これらのことをお知りになりたい方は、当ブログ「信達一ノ瀬王子のこと」を御覧ください。)


 いずれにしてもこれらの史料からは、平安時代末期の源平合戦から鎌倉時代にかけての社会情勢がよく分かるものですが、この中に「信達弥勒堂」が登場する意味はまことに大きいのです。信達、中でも中村(今日の岡中)の中世まで遡る歴史は先生が最初に示された、スライド5枚目「信達荘の寺社と村を探る中に出てくる「中村ヒシリ(聖)町:?」に関わる重要な歴史なのです。

 
 さて、この「信達弥勒堂」に関わる情報が、市史通史編「林昌寺の縁起」だけでなく、「天保十四(1843)年、泉州日根郡寺社覚」にも存在します。和泉国日根郡中村(現、泉南市信達岡中)には、江戸時代の何時頃までか浄土宗の「法然寺」という寺があり、寺社覚には、『浄土宗、本寺、中之庄村大光寺、「今断絶」法然寺、除地寺平地七百六拾七坪、彌勤堂、鎮守、天照大神社』とあります。


 寺社覚には続いて『真言宗、本寺、山州嵯峨仁和寺、地蔵堂守躑躅山 林昌寺、除地寺平地壱万千四百坪、地蔵堂、鐘撞堂、「一名岡寺」「寛永十八年中興」、薬師堂、愛宕山権現社、石鳥居』とあり、現代の林昌寺の記述となっているのですが、問題の「弥勒堂」は法然寺があった「ちんじゅさん」の一部であったことになっているのです。


 ちんじゅさんには「ちびっこ広場」(岡中遺跡の中心地)がありますが、実は昭和62(1987)年に設置のための発掘調査が行われ、軒丸瓦や中世の寺院跡らしき遺物も発見されました。

(明治初年頃の「日根郡中村和絵図(村保管)」では、当地と横の墓地が「法念寺」となっています。)
 法然寺墓地は平成29年に元興寺文化財研究所が調査しており、最古のものとして天正三(1575)年銘の五輪塔地輪が一点、その次が1621~1630年のものが三点判明しています。
 一方、真言宗の「林昌寺」は信長・秀吉の焼打ち(雑賀攻め、根来攻め)にあって全山が灰燼に帰しましたが、歴史的な遺物がいくつもあり、本堂裏の駐車場から少し入った竹藪からは昭和63年に「林昌寺瓦窯跡」が発見されました。

 
 この瓦窯跡から焼土や瓦片が大量に出土したのですが、ロストルとよばれる平窯で出土した軒丸瓦、丸・平瓦。なかでも平安時代末期の所産となる「複弁蓮華文軒丸瓦」は一度破断してしまった范型を接合しており、痕跡が瓦当面に明確に残る特徴を持つのですが、同范瓦は岡中遺跡(ちんじゅさん、ちびっこ広場)で出土しているのです。(泉南市文化財年報№1、1995.3泉南市教委)

 その意味において、当該平安時代末期のちびっこ広場同范瓦は、法然寺の寺域(ちんじゅさん)にあった彌勤堂」のものである可能性が大きくなってきました。
 さらに、上記の考古学的知見と合わせて、当該「ちんじゅさん」と金熊寺川の間の地区は古くから「堂裏(どううら・どぶら)」と呼ばれ、この川辺は地元では「どぶら川」と称され、さらにその同業(どうぎょう(葬祭相互扶助組織))約20軒は今日でも「どぶらどうぎょう」と呼ばれるなど、民俗学的な視点からも「お堂」にまつわる地域の伝統が残っているのです。
 今後も、「信達弥勒堂」に関する歴史探索が進むことを切に願うものです。

◼️この小文に関連するページを紹介いたします。




(2026/3/10追加)
⚫️私がなぜ信達弥勒堂のことにこだわるのか

 当ブログを投稿して、読んでくれた読者から電話がありました。(その方はメールでなく何時も電話です。しかし熱心な読者です)。話の中身は二点、「応永の乱とは?」これについてはネット上に情報がありますので、リンクを張りました。もう一点は「私がなぜ弥勒堂にこだわるのか」という点です。それは単純に「(泉南市)信達にとって誠に古い歴史の証だから」故です。


 弥勒菩薩で有名なのは、いわずと知れた京都太秦の広隆寺にある国宝指定第一号の「宝冠弥勒」でしょう。弥勒菩薩の仏像を祀るお堂や寺院は、古いものや比較的新しいものも含めてたくさんあります。これからでも作ろうとすれば作れます。


 私が大切にしたい、また皆さんにも大切にしていただきたいのは、単なる「弥勒堂」ではなく、平安時代末期の承安4年9月23日(1174)に、吉田経房が書いた日記(「吉記」)に「信達宿弥勒堂」が出てくる、弥勒堂があったという事実なのです。
 さらにその43年後、鎌倉時代初期の健保5年6月23日(1217)の、藤原頼資が書いた「頼資卿熊野詣日記」にも「信達弥勒堂」は出てくるのですから、これはもう鉄板の歴史的事実ということでしょう。


 少し簡単に日本仏教の流れについてふれて見たいと思います。
日本仏教における信仰の変遷は、人々の「救い」に対する切実な願いの変化とともにありました。それは、その時代の歴史的な背景も大きく影響しています。


 まずは、釈迦如来に対する信仰ですが、6世紀の仏教伝来から奈良時代にかけて、仏教は主に「国家の安寧(鎮護国家)」を祈るためのものでした。釈迦はこの世で悟りを開いた唯一の師として、国を導く聖なる存在とされ、飛鳥寺や法隆寺の本尊が釈迦如来であるように、まずは仏教の基礎として受け入れられたのです。


 平安時代に入ると、釈迦の死後、正しい教えが廃れる「末法(まっぽう)」への不安が広がり始めました。釈迦が去った後の「仏のいない時代」を生きるため、未来の救世主である弥勒菩薩への信仰が盛んになったのです。弥勒は、56億7千万年後の未来に現れて人々を救う菩薩です。
 空海が弥勒の住む「兜率天(とそつてん)」に上がったという伝承から、密教とも結び付き、修行者が「未来の救い」を待つ信仰として広まりました。


 そして、11世紀、ついに「末法」の世が到来したと信じられ、さらに戦乱や飢饉が相次ぎました。「自力で悟る」ことが絶望的な状況のもとで、誰でも救われる教えが求められ、信じれば極楽浄土へ導く阿弥陀如来への信仰です。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで死後に極楽に行けるという、他力本願の教えが爆発的に広まりました。遠い未来を待つのではなく、阿弥陀は死後すぐの救済を約束したため、貴族から庶民まで広く浸透したのです。


 私流の単純化した見方でみますと、この流れは仏教が「国を守るためのもの」から「個人の死後のためのもの(救済)」に変化していく流れでもあります。弥勒信仰はこの中間期、端境期ともいえると思います。(間違っていればお許しください。)(※なお、現世利益を求める「観音信仰」は別途、仏教伝来期から盛んでした。)


 さて、泉州の(泉南の、信達の)歴史に戻りますが、初出の1174年といえば、上皇や法王達の熊野三山への参拝が絶頂期に達する頃ですが、実は白河上皇の初熊野詣(1090〜)とほぼ同時期から高野参籠も盛んになっており、以後皇族や公家達の高野参籠も盛んになっていきます。


 とりわけ、私達が注視したいのは坂本先生が「泉南市中世史料一覧」(裏表2枚)でも取り上げてくれている、高野山文書(御室御所高野山参籠日記)、1147〜1150年の覚法法親王の高野山参籠です。これらは日根湊(現田尻漁港に比定される)から上陸し、御室仁和寺領新家荘で一泊ののち高野へ向かう記録ですが、「信達弥勒堂」の初出記録とほぼ同時期であることから重要なのです。


 根来の歴史は、覚鑁(かくはん)が保延6年(1140)に高野山より弘田荘の豊福寺(後の根来寺建立地)に止宿したことにはじまりますが、後に頼瑜(らいゆ)が高野山から大伝法院を根来に移したのは正応元年(1288)なのですから、信達荘はもちろんまだ根来寺領ではありません。


 その意味において、歴史軸、時間軸に照らしても「信達弥勒堂」は根来の影響下で出来たということでなく、それ以前の熊野御幸や高野参籠の歴史の中で存在したものと考えられるのです。
 要は「信達弥勒堂」は根来寺の歴史よりさらに古いものなのです。
 そして、泉南市の熊野街道を語る際、単純に上皇達の熊野御幸だけでなく、高野参籠の歴史もほぼ同時期、すこし遅れて存在したことを肝に命じておかなくてなならないと思い返したのでした。

※今回追加記事(3/10)と一部関連する記事(1147〜1150年の覚法法親王の高野山参籠の関係が載っている当ブログのページ)はこちらから。


(2026/3/11追加)

 昨日、追加記事を書いた際に書き忘れていた重要なことがあります。
第四代御室門跡覚法法親王の高野山参籠の日記、久安三年(1147)から同六年までの四年間の五度にわたる日記ですが、
 第一回目の行程は以下のとおりです。
※(往路)久安三年5月2日京都~窪津~住吉(泊)、3日住吉~日根湊~新家(泊)、4日新家~埴崎~名手(泊)、5日名手~慈尊院~高野山中院。
※(復路)久安三年5月21日高野山~名手(泊)、22日名手~新家(泊)、23日新家~日根湊~住吉~大渡(船中泊)、24日大渡~山崎(船中泊)、25日山崎~仁和寺

 仁和寺領新家荘で一泊して次の日は埴崎を経由して名手で一泊。この埴崎とは「吐前王子」の吐前です(現在のJR和歌山線の「布施屋」駅付近)。(したがってルートは熊野街道です。当時、三畑越え(根来街道)はまだあったのか、無かったのかも分かりません)。吐前からは紀の川の川船に乗ったのでしょう。そして、名手からは慈尊院(九度山)を経由して高野山へという行程です。

 私が何を言い忘れたのか。皆さんはお気づきでしょう。信達の「弥勒堂」が、慈尊院同様に今も残っていたら、間違いなく世界遺産に登録されていると思うのです。


(2026/3/14追加)
  
 当ブログを読んでくれた読者から指摘(メール)がありました。皆さん結構たくさん読んでくださっていて嬉しいです。「吉記を書いたのは藤原経房の間違いでは?!」という内容です。
 そうです。藤原経房、吉田経房です。同一人物です。藤原(吉田)経房は朝廷の日記を書く専門職の家に生まれました。詳しくは。こちらから。






 
 





 








2026/02/14

我らがヒーロー。根来小密茶(こみっちゃ)ここにあり!

 

(浮世絵:太平記英雄傅 根来小水茶(筆者所有の写))

 上の画像は、筆者所有の浮世絵「太平記英雄傅 根来小水茶」です。さて、みなさん泉南地方でお住まいの方で「こみっちゃ」をご存知の方はどれほどおられるでしょうか。
 まずは、「根来寺HP、根来寺ミニ知識」を御覧ください。
 また、ウィキペディアにも「コミチャ」として出ていますし、「根来小密茶」で検索すると多くのサイトで登場しているのです。


 昭和100年にもなると、地元(根来)でもほとんど語られなくなった小密茶ですが、世界的な博物学者・民俗学者である「南方熊楠」も「こみっちゃ」についての論考を書いているほど紀北や泉南では有名な存在だったのです。


 上の「根来寺ミニ知識」では、「地元では今から100年ほど前、近隣の子供たちに父母や村人がよく「こみっちゃ」の話を聞かせていた・・・・・」と紹介しています。こみっちゃはエライ坊さんで、根来焼き討ちの際に大活躍した地元の英雄です。だから紀北、根来地域には「根来小密茶」の子孫・親戚を自称する人達がたくさんいたのです。どうも「こみっちゃ」は実在の人物のようなのです。


 さて、ここまでは根来の話ですが、私は我が泉南市にも「こみっちゃ」の子孫・親戚を称する人達が大勢いることを知っています。主に信達地区の家(〇〇姓)の方が多いのですが、泉南での伝承も根来同様に今では忘れ去られようとしています。

(信達紀要)

 そこで今回は、泉南市(町)が合併で出来るまで存在した信達町(昭和16〜31年)が昭和28年に発行した「信達紀要(金田天絃編)」に掲載されている「根来寺と信達庄」(97〜99P)の記事をご紹介します。(◼️の『』内は原文のまま)
 

◼️『戦国時代。根来寺には俗に根来の小密茶と云われた豪勇無双の僧が居って本願寺と深いつながりを持っていた。境内に百余の寺坊があり、各寺にはそれぞれ屈強な僧兵が居住して其の数実に万余と云われた。その坊の一つ杉坊の法橋見加は牧野の人で、根来寺は織田信長の臣羽柴秀吉に攻め滅ぼされた際、牧野に帰って居住していた。』と、なぜか根来小密茶の話が牧野の法橋見加の話になってしまうのです。そして、

 『古書に曰く「根来山杉坊法橋見加は根来没落の後、旧里信達の牧野に住す。見加の弟左衛門、同じく牧野に住し、その子孫を左太郎と云う。左衛門に弟二人あり、一人は垂井に、一人は江戸に出て御旗本となり三百俵程賜る。その子孫を杉金蔵と云う。金蔵大阪御加番に来りし際、牧野へ尋ね来たり縁者と逢へり。」とある。「又根来合戦に有る牧野左門慶加は左衛門見加の事也。」』と。


◼️さらに、『素屋孫六 素屋孫六は根来方の一人として牧野に住んでいた。・・・(中略)・・・戦国時代から大阪方と紀州方の関所の一つとして双方から重要地視しられ、根来街道と紀州街道の分岐点である大鳥居付近には物見櫓が建てられて見張所が置かれた程である。だから根来寺の寺僧は信達庄内に幾人もの味方をもっていた事に不思議はなく・・・(中略)・・・その中の一人孫六は全身それ力と云った剛勇無双の豪士であった。・・・(中略)・・・』


 『・・・根来征伐の軍を差し向けるやこのことを聞いた孫六は、スワ一大事也と直ちに晒染(鉄分を含んで赤色を帯びた粘土とそこから湧く錆色の水で染めたもの)の鉢巻に、青竹を斬って足でしごきそのまま襷にかけ、角鋭き牝牛を引き出して其れに打ち乗り、根来街道を一目散に根来寺へ急を告げるべく駆け出した。然し、秀吉の兵は早くも納経山(お菊山)を越えて、磐回畑(つづら畑、今の葛畑)から風吹峠付近に・・・(中略)・・・獅子奮迅の勢いで戦い続け、やっと風吹峠の頂上に駆け上がり、・・・(中略)・・・悲壮な最期を遂げたのである。今尚孫六の墓は風吹峠旧道の頂上近くにあり、その子孫は大阪に居住して居る。現在の◯◯、◯◯(筆者変更)姓の中には素屋孫六の流れを吸む家が多い。』と紹介されています。

 そして、この物語を聞いた尾竹国観が書き残したとされる下の挿絵(素屋孫六)が文中に挿入されています。

素屋孫六


(2/18追加)
上の「根来寺HPの根来寺ミニ知識」中で紹介されている、「根来衆人物紹介・奥小密茶」というネット記事はこちらから。
(この記事を書いている方は誰でしょうか?、旧信達町の皆さんで子供の頃から知っている方は多いと思いますよ。)



               




 

 


 


 


 

2026/01/30

日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?(後編)


「日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?」は「前編」からお読みください。 

(根来寺坊院復元模型 和歌山県立博物館。「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」図録集より) 


 前編では、「契約状」の時代が、同時に経済力を持つ有力な村人(地侍)が生まれてくる時代と重なっていることを示し、熊取町の中家を例として一族の師弟を根来寺の「成真院」の僧としていたことをあげ、「根来寺は泉南地方や紀州の地侍が村のわくを越えて連携する拠点として成長し、経済力・政治力の維持・拡大をはかる一つの軍事勢力となっていったことを紹介しました。


(「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」71P下より、「根来寺伽藍復元図(14世紀)より)1300年代


(同71P上より、「根来寺伽藍復元図(16世紀)より)1500年代


◼️根来寺の武力はどのように構成されていたのか
 さて、和歌山県立博物館の図録集「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の68Pからは、『三 根来寺坊院の生活』として、

 「室町時代後期頃から、根来寺の山内には僧侶たちが暮らす坊院が増加しました。その総数は四百五十を越えていたようです。これは根来寺が地域の巨大権力となり、周辺の土豪たちが寺内に基盤を持つことで、根来寺の力を背景に権益を守ろうとしたことによるものです。この坊院での暮らしを彷彿とさせる資料が近年の発掘で続々と見出されています。・・・」と紹介しています。


 上記の伽藍復元図では、1300年代の様子と1500年代の様子が復元されていますが、下の16世紀(1500年代)のものでは、大伝法院を取り巻く平地だけでなく、根来寺の北に広がる和泉山脈の谷だにの奥深くまで、その坊院が大きく広がっている様子がうかがえるのです。根来寺に残る「根来寺伽藍古絵図」は、近世になってから描かれたものですが、描かれている内容は中世の根来寺を類推することのできるものです。


(根来寺伽藍古絵図。「根来寺文化講演会&シンポジウム「中世根来の実像を探る」の掲載資料

 以上のことは、和歌山県立博物館「特別展 根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」の図録集(平成十四年(二〇〇二)十月五日発行)の大河内智之先生による巻頭論考の「二 根来寺の隆盛」内(7P上段)で、


 「・・・十六世紀ではこの総数は四百五十を越えていたようである。先に見てきたように根来寺の経済基盤が安定し、地域の巨大権力になるにつれて、紀北及び泉南地域の土豪勢力が相次いで根来寺に寄りそい、自らの勢力維持のための後楯としていた。たとえば日前宮領荘官の林家に関する資料(林家文書・和歌山市立博物館蔵(33))では、根来寺院家が加地子の集積を行ったり、高利貸を行っている様子がよく分かる。
 
 荘園制の解体期にこういった盛んな経済活動を行って頭角を現した新興勢力が寄り集まったことで、根来寺総体としての性格は、かつての学問寺院ではなく、戦国的な領主へと変化していく。こういった新興勢力は根来寺では行人方と呼ばれる身分におかれ、学侶の下位におかれていたが、軍事力と経済力をもっているが故に、次第に実質的な経営を握るようになったいわゆる根来衆・根来僧兵とはこの行人たちのことであるが、彼らは基本的に修験道の行者であり、戦時には長髪で鎧・兜を身につけていたのであって、一般に喧伝される頭巾をかぶった黒衣のイメージは誤ったものである。」と説明してくださっています。「根来寺の武力は如何に構成されていたのか?」その答えがこれなのです。

(参考)
 ※以前に当ブログで書いた「閼伽井坊少納言」も参考として御覧ください。


◼️根来寺の所領(勢力範囲)


「根来寺の歴史と文化 ー興教大師覚鑁の法灯ー」図録集45P参考ー3 「根来寺領荘園の推移」より。【凡例】として、🟢当初からの根来寺領、 🔵元弘の勅裁によって失われた寺領、🔴南北朝期以降、増加した所領」


 上図の解説が、153Pに載っています。「参考ー3根来寺領荘園の推移  根来寺の所領は、大伝法院・密厳院に付属する荘園として、その成立の当初から立券されていた・・・・・の諸荘園と、南北朝期以降、大般若経の四季転読料として寄進された信達荘(現泉南市)や、加地子名主識(かじしみょうしゅしき)の集積によって地主的な支配を強めていった諸荘園とに大別される。・・・・後者の荘園への進出は時期的にそうした荘園の喪失(元弘の勅裁によって失われた荘園、筆者)と入れ替わりに、根来寺が獲得した新所領であった。ただし、こうした所領は耕地片からあがる加地子米を取得する権限を集積したもので、年貢・公事を賦課しうる荘園領主としての権限を持ち得ていたわけではない。しかし、根来寺が豊かな経済力を背景に泉南地域に進出していったことは、この地域の政治情勢にも大きな影響を与えた。」と説明してくれています。


 ※ここで面白いHPをご紹介します。中世も時代が進み後期になればなるほど、生産力も上がってきて、「荘園領主の年貢」よりも、加地子名主識の集積」の方が大きくなってくる例もあるのです。


 地図で分かりにくかったらいけませんので、和泉南部の「🔴南北朝期以降、増加した所領」を明示しておきます。北から🔴近木荘(貝塚)、🔴麻生荘(貝塚)、🔴鶴原荘(泉佐野)、🔴熊取荘(熊取)、🔴日根荘(泉佐野)、🔴佐野荘泉佐野)、🔴長滝荘(泉佐野)、🔴吉見荘(田尻)、🔴信達荘(泉南)、🔴箱作荘(阪南)、🔴深日荘(岬)

 康正三年(1457)六月廿六日に、和泉国日根郡の九人の武士が一味する契約を結んだ和泉国日根郡国人等契約状」にでてくる九人の武士達の根拠地、勢力範囲と思われる地域の多くは根来寺が獲得した新所領になっています。


 もちろん上記の和泉南部の荘園が、根来寺新所領になっていった時期は、「契約状」を結んだ時期よりも下ることが多かったのではないかとは思いますが、それぞれの地域の内部では、それ以前から頭角を現してきた新興勢力が、根来寺という強力な結集軸を持つなかで、それまでの守旧勢力(守護被官や国人)に対峙する勢力として成長してきた時期と重なると思えるのです。

 「契約状」を結んだ年代と、史料に残る和泉南部への浸出の時期の単純比較ではなく、和泉南部荘園内の村々における新興勢力の台頭こそ着眼しなければならない点だとおもいます。前編で紹介した略年表を見てください。

1417 日根荘で百姓請が実現
1428 【正長の土一揆おこる】
1429 日根野村・入山田村が九条家の支配となる。が、部分的に押領される
1446 十二谷池の分水・管理につき日根野・井原・檀婆羅密寺村が契約
1457 日根野加賀守秀盛ら九人衆、一揆契約を結ぶ

 百姓請の実現や正長の土一揆、村々による十二谷池の分水・管理契約など、「惣村」の成長こそが、村々における新興勢力の台頭につながっているのであり、これらの拠り所、結集軸が根来寺だったのではないでしょうか。


◼️「知の拠点」としての根来寺
 そしてそれは、単なる軍事力、経済力という点だけでなく、宗教勢力としてのイデオロギーや学問、技術、文化といった様々なことが紀北・泉南地域に大きく浸透してきた時期だと思うのです。中世の寺社、とりわけ僧侶の活動は多岐にわたり、社会基盤の構築に不可欠な存在でした。

○土木・建築技術
 寺院や神社の造営・修復には高度な建築技術が必要でした。僧侶(「大工」と呼ばれる役職)は、木造建築の構造設計、資材調達、現場監督といった役割を担っていました。また、大規模な土木工事にも関わりました。
・治水事業:洪水対策のための堤防建設や、灌漑用水路の整備
・架橋技術:橋の建設、維持管理
・港湾整備:交通の要衝となる港の整備

○知識と教育
 中世では文字の読み書きができる者が限られており、僧侶は貴重な知識人でした。大陸から伝わった最新の学問、天文学、数学、医学などの知識は、寺院を通じて流入し蓄積されました。建築や土木工事の計算、暦の作成などに不可欠でした。

○金属加工・鋳造技術
 仏像や梵鐘の鋳造には、高度な金属精錬・加工技術が必要でした。これらの技術職人集団と寺院は密接に結びついていました。

○社会経済活動
 僧侶は「勧進」と呼ばれる手法で広く寄付を集め、橋や寺院などの公共事業の資金を調達する能力も持っていました。

 以上のように、中世の寺院は単なる信仰の場ではなく、当時の最先端技術と知識が集まる「知の拠点」であり、彼らの活動が社会基盤や文化を築くうえで大きな役割を担ったといえるのです。
 私は、少し時代は下りますが、鉄砲の伝来が根来寺からということは、その象徴的な出来事だと思っています。「契約状」を結んだ九人の武士達にとって、根来寺は様々な意味で恐怖と魅力の新興勢力であったに違いありません。
(おわり)


 


 















 





2026/01/26

日根郡国人等契約状の謎。一揆の目的は?根来寺との関係は?(前編)

  


(1457年、和泉国日根郡国人等契約状。「ふるさとの中世〜日根荘の人々〜」より)

 上の「和泉国日根郡国人等契約状」(以下、「契約状」と略す。)は、康正三年(1457)六月廿六日に和泉国日根郡の九人の武士が一味する契約を結んでいる連判状です。名前を見ていきますと、


鳥取備中守         光忠(花押)
淡輪河内入道      沙弥道本(花押)
箱作肥前入道      沙弥道春(花押)
鳥取備後入道      沙弥寿枩(花押)
籾井(樫井)伊豆入道  沙弥道永(花押)
新家新二郎         影頼(花押)
籾井(樫井)幸持丸代    慶重(花押)
上郷二郎左衛門尉      光景(花押)
日根野加賀守        秀盛(花押)


 つまり日根野、上之郷から鳥取、淡輪まで日根郡の武士が「一味同心」の「一揆」を結んでいます。
 一揆といえば、近世の百姓一揆のような集団闘争をイメージしがちですが、ここでは英語の「アライアンス」=同盟のようなものと思ってください。この一揆を裏切ると神罰が下るという契約状です。
 私は以前からこの一揆の意味(何を一揆(同盟)したのか)について深い関心をもっていました。それは、一言でいえば我が「信達荘」の武士(国人)が含まれていないからです。


 この「契約状」を紹介してくれている「ふるさとの中世 日根荘の人々」(ふるさとの中世編集委員会発行=泉佐野市教職員組合と泉佐野の歴史と今を知る会で構成)という冊子は、今から約30年前に作成されたものですが、「全国に誇る日根荘遺跡を地元の小中学校でも教えられるようにと、「教材の手引となる冊子を」と作成されたものです。故郷の歴史を次代に伝える冊子として、「分かりやすいけれどきっちり専門性を備えている」その内容たるや全国でも屈指のものと言ってよいと思います。みなさん是非一度手にとって読んでみてください。


 さて、「ふるさとの中世」35Pでは、この「契約状」についてその具体的な契機や目的は不明ですし、彼らが共同で行った行動の記録は現在のところ見つかっていません。しかし戦国時代の前夜を考える重要な動きであることは間違いないでしょう。」と記されています。また、64Pの全体の「略年表」では、「契約状」が結ばれた前後の出来事は以下のようになっています。


1417 日根荘で百姓請が実現
1428 【正長の土一揆おこる】
1429 日根野村・入山田村が九条家の支配となる。が、部分的に押領される
1446 十二谷池の分水・管理につき日根野・井原・檀婆羅密寺村が契約
1457 日根野加賀守秀盛ら九人衆、一揆契約を結ぶ
1467 【応仁の乱が起こる(〜1477)】
1490 根来寺衆ら出陣し井原村を占領。九条家に日根野荘代官を要求
1500 泉佐野市域を中心に根来寺衆らと和泉国守護勢との戦闘続く(〜1504)


        
      
(「連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代」)

なお、廣田浩治先生は「和泉惣国一揆の展開」という講演記録(「連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代」(泉佐野の歴史と今を知る会・編)28P〜所収)の中で、同じく当該「契約状」(史料No.4)を紹介してくれており、

「・・・やっぱり幕府や守護に対抗するための一揆でしょう。・・・(中略)・・・鳥取氏は、これ以前に守護から討伐されて、たぶん何人か討ち取られていますので、まあ端的に言うと、鳥取氏を守るための一揆であったかも知れない・・・。」(37P下段)とおっしゃっています。


この「契約状」は、康正三年(1457)六月廿六日に作られていますが、この時期は京都を舞台に多くの武士が戦うことになった「応仁の乱」(1467〜)の前夜に当たる時代です。南北朝動乱がおさまって幕府や守護の権力が一応ととのってくると、守護に従っていた各地の武士(国人層)達は、「押領」した荘園の返還を迫られていきます。
 例えば日根荘でも荘園領主の九条家の訴えによって、将軍や守護何度も日根荘の回復措置をとるのですが、一時回復してもまた武士(佐竹和泉入道や日根三郎衛門入道)が抵抗、押領するという繰り返しが行われています。このような中で各地の武士と将軍・守護との対立が深まっていきます。一方、村人達もまとまりを強めて(惣村)、武士たちの支配を動揺させていくという極めて複雑な社会状況を生み出していたのです。
 

 このような社会の状況からみていくと、「契約状」は廣田先生がおっしゃるように幕府や守護(和泉国守護は細川氏)に対抗するため日根郡の国人達の一揆なのかも知れません。しかし、それ以外の可能性は考えられないのでしょうか?。



◼️私なりの検討
 今回のタイトルとした日根郡国人等契約状の謎。つまり一揆の目的は何なのか?、ということの私なりの検討・推論に入っていきたいと思います。
 なお、康正三年(1457)は年号が変わって長禄元年(1457)でもあります。まず、「契約状」で、一揆を交わした和泉国日根郡国人達の根拠地、勢力範囲と思われる地域を図示してみました。

 赤い線で囲んだア〜キまで、ア日根野、イ上之郷、ウ樫井、エ新家、オ鳥取、カ箱作、キ淡輪になります。(もちろん、各地域には其々の荘園等があり、荘園領主が存在します。例えば新家荘=仁和寺領、鳥取荘=伊勢神宮領、箱作荘=賀茂社領、等)




さらに、黒い線で囲んだ1〜6は根来寺領の荘園になります。1弘田荘、2石手荘、3岡田荘、4山崎荘、5直川荘、6山東荘。なお、和泉国日根郡の「信達荘」は建武四年(1337)に足利尊氏が大伝法院(根来寺)に寄進していますので、和泉国の中の唯一のオフィシャルな根来寺領荘園です。根来寺は⚫️です。


 そして、ピンクの線で囲んだA〜Fは根来寺の(オフィシャルな根来寺領荘園ではありませんが中世後期に獲得した(紀伊国内(紀北))の支配所領です。A池田荘、B田中荘、C丹生谷村、D名手荘、E小倉荘、F田屋荘、G栗栖荘、H和佐荘、I岩橋荘、J和田荘、K安原郷、L薬勝寺、M木本西荘、Ñ加太荘、Oカセ田荘、P渋田荘。(其々の獲得年代は不詳です。)

※根来寺の所領関係は、「歴史の中の根来寺 教学継承と聖俗連環の場(トポス)、山岸常人編」中の「五 中世根来寺権力の実像 「一揆」「惣国」「都市」再考」廣田浩治」の172P表3、根来寺関係紀伊北部地図地名一覧」によりました。
 なお、根来寺の西には日前宮もあり、東には粉河寺や高野山も近接していてそれぞれの寺社領もあるわけです。


◼️押さえておきたいこと(時代背景)
 戦国時代のはじまり(「契約状」のころ)から、終焉(秀吉の全国統一)までの歴史は、別の言い方をすれば「荘園制が崩れていく過程」といっていいと思います。
 「ふるさとの中世」36・37Pでは、

「もともと室町幕府は将軍と守護大名あるいは地方の武士との対立を含む不安定な政府でした。・・・・・。さらに守護家内部や将軍家での分裂も起こって、一層、政治が不安定になっていきます。1467年には京都を舞台に多くの武士が戦う応仁の乱が起こることになります。この事件を機に幕府の権威はますます地に落ち、戦乱は全国に広がっていきました。

 この背景には村の人たちが力をつけ、まとまりを強め、要求を掲げて土一揆を起こしていったことがあります。後には一向宗(浄土真宗)の信仰を基礎にした一向一揆もおこってきます。各地の武士のなかにはその村の人たちの力を利用して守護の支配を覆す戦いを試みる者もあらわれ、また逆に村の支配が困難になったために守護家に頼り村との戦いを進める武士もいました。・・・・・・、どのような荘園や領地であろうと村の人たちの一揆を軍事的に押さえ、村ぐるみ実力で支配する新しい戦国大名が伸びてきます。・・・・・・・・・・・・・」としています。


 さて、以上の時代背景を踏まえながら、上の地図に示した和泉南部、紀伊北部の地域を考えますと、守護大名(細川・畠山)から戦国大名になった者や、守護の被官や国人から下剋上して戦国大名に成長したもの(途中まででも)はいるでしょうか、どうもみあたりません。

 一つだけ思い当たるのは、日根野型兜で有名で、戦国末期に大名となった「日根野氏」ですが日根野弘就は庶流で、美濃の齋藤氏に仕えてその後、大名に成長しましたが、和泉国日根郡を本拠とした日根野氏は近世には農民として残ったようです。


◼️和泉南部・紀伊北部という地域性、特殊性
 「ふるさとの中世」52・53Pでは更に、「根来寺の動向」として
「根来寺(和歌山県岩出町)は南北朝内乱の初期の1337年に足利尊氏に信達荘(泉南市)を寄進されて和泉国に足がかりを得ています。その後の根来寺は、各村で成長する有力な人たちを信徒にすることによって発展していきます。ちょうど百姓たちの新しい村が成立し、領主への年貢などが固定化され(33P)(百姓請・地下請のこと、筆者)、経済力を持つ有力な村人(地侍)が生まれてくる時代と重なっています。
 

 熊取町の中家は、室町時代に成長し根来寺とかかわりをもった地侍のよく知られた例です。多くの土地を買い集めてそれぞれの耕作者から領主に収める以外の年貢(加地子)を得、また麹の販売権なども手に入れ、同時に一族の師弟を根来寺の「成真院」の代々の僧としています。また、・・・。これら根来寺の子院の僧も金融業をいとなみ、加地子を集めたり、荘園の代官となったりしていきます。

 根来寺は泉南地方や紀州の地侍が村のわくを越えて連携する拠点として成長し、経済力・政治力の維持・拡大をはかる一つの軍事勢力となっていきます。・・・」と。
 どうも、根来寺のこと抜きには「契約状」の意味の検討は難しいようです。


 そして、「戦国時代になると守護家の対立とも関連しながら根来寺は軍事行動を頻繁におこしていきます。1484年には粉河寺衆とともに水間寺(貝塚市)・神於寺(岸和田市)を攻撃し、1490年にも和泉国に出陣して井原村を占領しています。その時には九条家に日根野荘の代官職を要求し、後に根来寺閼伽井坊と東智院がそれぞれ九条家方・富小路家方の代官となったようです。

 根来寺のこれらの行動は根来寺僧や地侍の経済的権利や社会的地位を強め、逆に守護やその家臣となっている武士の荘園支配を弱めていきます。ですから1500年には守護方が軍事行動を起こし根来寺方は一旦敗北しますが、その後1501年から1504年にかけては日根野・上之郷・長滝・佐野・嘉祥寺などで守護方と根来寺方との戦闘がおきます。」と続きます。


 しかし、ここで見ておかなければいけないのは、根来寺の和泉南部での軍事行動は現在発見されている史料では、応仁の乱後(戦国時代になってから)であるという点です。根来寺は何時頃から大きな軍事力をもち軍事行動をとるようになってきたのでしょうか。


◼️和歌山県史の記述を中心とした検討



 「和歌山県史、中世」の386P〜『長禄の根来合戦』では、「・・・長禄元年(1457)(筆者注、「契約状」の康正三年(1457)でもある)ごろから、近畿地方はふたたび干魃の傾向がつづいた(熱田公「寛正の飢饉と大和」)。」と記されています。当時の日本社会では天変地異や戦乱がつづくと年号を変えて災いを断ち切ろうとすることが多々あったのです。


 続いて「根来寺と守護領八カ荘(当時の紀伊国守護は畠山義就、筆者)との用水相論(水論、筆者)がふたたびおこり、根来寺から、八カ荘の用水井を破壊するようなこともあったようである。永享五年か、その後いつかの時期に、岩手荘辺を取水口とする用水井が掘られていたが、干魃を前に根来寺側が実力行使にでたものであろう。」としています。

 実は、約20年前の永享五年(1433)には、既に根来寺領と守護領八カ荘の間で用水路をめぐる相論が起こっていることが「満済准后日記」に記されています。なお、同年(永享五年(1433))には、根来寺・粉河寺が連合して高野山を攻めてもいます。(「粉河寺旧記」)


 さて、和歌山県史の記述に戻りますが、
 「長禄四年(1460)五月、守護(この時は畠山義就)は、口郡守護代遊佐豊後守盛久、奉公人かと思われる神保近江入道、木沢山城守の重臣三人を使節として根来寺に派遣し、用水井を復すこと、および根来寺寺僧の中で、守護畠山氏の亡臣某に味方する者を、根来寺に退けるよう命じた。三使者は、多くの軍勢をつれていた。したがって守護からの三使者派遣は、用水相論の交渉といった性格のものではなく、武力による威嚇、あるいは攻撃であった。

 
 なお、亡臣某に味方する寺僧とは、当時すでに、守護家の家督をめぐる争いがはじまっており、当時の守護畠山義就の反対派を支持する寺僧をいうのであろう。用水問題にからめて、政治問題・軍事問題の解決をめざして、守護代らが根来寺におしかけてきたのである。」としています。(参考として「畠山家の内紛」をご覧ください。)


 和歌山県史はつづいて、「守護の武力に対して、根来寺も武力でこたえた。三使者は・・・切腹、余兵は紀ノ川を渡って敗走しようとしたが、・・・紀ノ川は増水しており、守護方の軍勢一千二十余人が溺死した。」(禅僧太極の日記「碧山日録」)と。


 そして、『長禄の根来合戦』の最後に、「・・・それぞれほぼ同時の記録であって、信頼度はかなり高い。」(※筆者注、ほぼ同時の記録とは「経覚私要抄」「大乗院寺社雑記事」「碧山日録」「粉河寺旧記」)

 「室町時代の紀州で戦われた最大の合戦であった。根来寺の大勝は、根来寺の武力を天下に知らしめることになった。そして、守護の大敗は、守護畠山家の分裂を混迷にみちびき、それが応仁の乱へとつながっていく・・・。一紀州史にとどまらない、日本歴史の転換点として、長禄の根来合戦は、大きな意義を有しているのである。」としています。


 以上、長禄元年(1457)ごろから、近畿地方に干魃がつづく中、根来寺と守護領八カ荘との用水相論に端を発した、守護畠山義就と根来寺に起きた長禄四年(1460)の『根来合戦』について、和歌山県史の記述を中心に見てきましたが、守護の武力を大敗させた根来寺の武力はいつ頃から醸成されたのでしょうか。またその武力は如何に構成されていたのでしょうか
 守護(畠山氏)の軍勢を700〜1000名も戦死させた『長禄の根来合戦』の時代以前から当然、当該軍事力は醸成されていたと見るべきでしょう。1433年には当該用水相論が一度起こっていますし、同年に高野山を攻めてもいるのです。

 わたしはこれらの点を検討することが今回の問題(契約状」の謎。一揆の目的)に迫ることに繋がるのではないかと考えています。(つづく・後編はここから

2026/01/09

幕末・明治と「何が似てきたと思うのか」




泉市歴ブロブの「草莽崛起(そうもうくっき)!。中瑞雲斉立つ。」(「草莽崛起」と略す)は、ブログ開設以来最高の閲覧数を記録しました。草莽崛起はこちらから。

 見ていただいた方々から、(12/25追加④)記事に記した、『瑞雲斎が京都に出て活動した時代と、私たちが現在(2025)遭遇している時代が非常に似かよってきている』、『これについては誤解があったらいけませんから、また何かの機会に言葉で説明いたします。』と書いたことについて、「何が似てきたというのか?、誤解は常にある。書くべきだ。」とお叱りを頂戴しました。

 そう言われれば記事を発信する限り、見ていただく方によって取り方は様々です。私の「歴史」に対するスタンス、歴史を見つめる立ち位置は、『「戦前の皇国史観」や「戦後一時期全盛となった唯物史観」のように「最初に(考え方、思想に基づく)結論ありき」ではなく、歴史をありのまま見つめたい』と思っていることを表明して、「何が似てきたと思うのか」ということについて書きたいとおもいます。


◼️厳しい安保環境

 瑞雲斎が京都に出た時代(所謂、元治元年前後、広く幕末の頃)と現在が何が似てきたか、これは一言で言えば「日本の厳しい安保環境」です。私達は中学、高校で(大学でも専攻しなかったら)日本史の所謂「近現代史」を殆ど学んでいません。よく学年度末までに、近現代史までたどり着かなかったことが原因と言われますが、教師や学校・文部省としてこれほど無責任なことはないでしょう。

 皆さんは幕末(文久元年(1861)2月)の「ロシア軍艦対馬占領事件」(ポサドニック号事件)をご存知でしょうか?。黒船来航は有名ですが、これは対馬の浅茅湾の一角の「芋崎」というところに、ロシア軍艦が勝手に上陸して、兵舎や港まで作ってしまって半年間も不法に滞在した事件です(ここからも)。

 この事件はイギリス艦隊の干渉もあって、8月にようやく対馬から退去しましたが、これは幕府の外交能力の限界と列強間の対立が、日本の領土問題に直接影響を与えた出来事として、幕末動乱期の重要な事件の一つです。そして、現代でも日本の島嶼部(とうしょぶ)の防衛問題は深刻になってきています。

草莽崛起」では「すなわち軍備増強して、艦隊・大砲を備え、蝦夷からカムチャッカ・オホーツク、琉球・朝鮮、満州・台湾・フィリピンへと「進取の勢」を示すことが重要であり、その上で辺境を守れば国を保つことができる、とする。それがなくては諸国が争い集まる渦中にいて衰えない国は幾つもない、必ず衰えてしまうという吉田松蔭「幽因録(の現代訳)」を紹介しましたが、これは欧米列強の浸出に対峙しうる政略として、危機の時代を生きぬくために松蔭なりに考えた認識を示すものでした。


◼️そして「主権線」と「利益線」

 さて、吉田松陰の門下生である山県有朋は、1890年の第一回帝国議会における総理大臣演説「外交政略論」で、欧米列強に対峙するなかで国家独立の方途を確立するための方法論を提示しました。それは、

 国家の主権が及ぶ「主権線(領土)」を守るだけでなく、その安全に密接に関わる周辺地域(特に朝鮮半島)を確保・防衛し、日本の独立と安全を維持しようとする考え方です。清国との対立の中でロシアの南下を阻止し、朝鮮の中立化を図るための防衛戦略とされたのですが、次第に強硬路線へと転換して軍事力行使も辞さない方向へ向かいました。

 つまり、主権線の安全に直結する、国境線外の周辺地域を日本の「利益線」とみなしたのです。この利益線論は、日本の大陸進出政策の先駆けとなり、日清・日露戦争、そしてその後の対外政策に大きな影響を与えたのです。しかし、日本が領土外に利益線を求めることで、他国との衝突を招き、最終的には敗戦へと繋がる道筋を作ったという評価もあります。


 この「利益線」論と同様な論理が、世界の各所で今また活発になっていると思うのが、私のもう一つの「似てきたと思う点」です。しかし、主権線外に位置する周辺地域や国々にとって、これほど迷惑なことはありません。今日の世界で通用させてはいけない理屈だと思うのです。

 それにしても、利益線というかどうかは別として、台湾有事は日本にとっても重大な事態だとは思いますが、日本人はもうあのバシー海峡を忘れたのでしょうか。わたしたちは二度と「バシー海峡」を慟哭の海峡にしてはならないのです。人の命を何よりも大切にし、殺されることも殺すことの恐ろしさも十分知っている私達は、少し遠回りすることを知っています。


(1/23追加)

◼️そして「万国公法」(国際法)について

 もう一つ、吉田松陰の門下といっても間違いではない桂小五郎(後の木戸孝允)の明治元年(1868)11月の日記では、万国公法は主権国家間の調整統合をはかるためのもので、キリスト教文明を基盤とした規範体系であるとみなしたうえで、「兵力調わざるときは万国公法も元より信ずべからず。弱に向かいて候ては大いに公法を名として利を謀るもの少なからず。ゆえに余、万国公法は弱国を奪う一道具」と論断しています。

 国際法は欧米列強の浸出に向き合う日本人にとって、「キリスト教国、白人種、ヨーロッパ州」という特権掌握国民が己の権利を主張してアジア・アフリカを植民地とするためのものでしかなかったと言えるのかも知れません。


 また、明治中期に新聞「日本」を創刊し、文豪正岡子規を支援した陸羯南(くが かつなん)は、「原政及び国際論」のなかで「国際法なるものは実に欧州諸国の家法にして世界の公道にはあらず。この家法の恵を受けんと欲せば、国を挙げて欧州に帰化するよりほかに復た手段あるべからず」と論難します。


 このように、「開国和親」をかかげて文明化による近代国家形成を、万国公法の秩序の下で、欧化によって目指さなければならなかった「大日本帝国」の選択はある意味必然だったのかもしれません。しかし、その後(130〜150年後)の世界の歴史は所謂「国際法」を大きく発展させてきました。(国際法の歴史はここから


 幕末の日本の状況は、まさに木戸孝允が書いたように「キリスト教国・・」という特権掌握国である欧米列強の中での、植民地化の対象であるアジアの小国であったわけですが、現在の世界の情勢はまるで幕末・明治の時代に先祖返りしたように、国連の安保常任理事国である大国が、これまで人類が到達してきた「国際法」のルールを自ら踏みにじるようになってきています。

 現在の国際法をめぐる世界の状況も、これまた幕末・明治と非常に「似てきた点」なのですが、ひとつ大きく違う点があります。現在の日本はアジアの小国ではないという点です。そして「日本国憲法 前文」をもって国際社会を生きる日本は、今こそ率先して国際法を遵守し、国連を中心とした国際協調の一翼を十分に担うべきではないでしょうか。