2025/05/17

泉南歴史トピックス5  続・泉佐野顕如伝説の実相 ②ー教如が顕如に転化したのは何故かー

 

(顕如影像)

泉南歴史トピックス5  続・泉佐野顕如伝説の実相

②ー教如が顕如に転化したのは何故かー
(このシリーズは①からお読みください)
 5年前に、筆者が第382号に続き「泉佐野の歴史と今を知る会会報 第387号(2020年3月11日)」に投稿した続編の論考です。続編も当ブログに再掲いたします。よろしかったらお読みください。(縦書きを横書きに変換しています。)
続・泉佐野顕如伝説の実相  ―教如が顕如に転化したのは何故か―

はじめに
 昨年の秋、会報第三八二号(二〇一九年十月九日付)に私の小文「泉佐野顕如伝説の実相 ―「鷺森旧事記」により判明した真実―」(以下、「前回小文」という。)を発表させていただいてから、少なくない読者から感想やご意見を頂戴した。
 私の予想では、一貫して西本願寺系の立場で記された「鷺森旧事記」の史料的価値についての意見が多いかと予想していたが、読まれた方々の主要な関心はそうではなく、史料を肯定的にとらえた上で、むしろ「おわりに」で提起した、ならば「なぜ伝説では教如が顕如に転化したのか」というテーマについてであった。
 ある続者からは「是非ともそれをライフワークとして究明すべし」という言葉まで頂いた。前回小文の発表後も継続して真宗関係についての情報収集や勉強を続けてきたのだが、「教如が顕如に転化したのは何故か」という視点で見つめていくと、「分派後の東派、西派の勢力争いから」という推論以外にもう一つの推論が頭の中にもたげてきた。それは、前回小文の「はじめに」でいみじくも触れた、伝説の舞台である佐野川新川家(総領家)をはじめとした新川家一門に関わることでもあった。
 本小文は、前回小文のような筆者の研究発表というよりは、最近における諸先学による真宗史研究の成果に学びながら、「なぜ伝説では教如が顕如に転化したのか。」を考えることを目的とするものである。

1、最近における真宗史研究の飛躍的進展
 このテーマを考えていくには、この間(概ね昭和末~平成年間)の、真宗史研究の動向に触れておかなければならない。まず一つ目は、今日「寺内町の研究」が飛躍的に進展し、各市の市史等で紹介されてきた従来からの生成過程等に多くの疑問が生じ、我が泉州においても気鋭の研究者達による新しい貝塚寺内史像が拓かれつつあることである。二つ目は、畿内真宗の研究者の方々が「大阪真宗史研究会」を組織し、多方面にわたる真宗の歴史的実態を解明する作業に取り組まれ、その研究成果が発表、蓄積されてきていることである。さらに三つ目は、平成二十五年(2013)が東本願寺をひらいた教如四百回忌に当たることから、これを機に大坂抱様(かかえざま)以降の流浪期や秀吉による退隠期の活動、関ケ原前後の詳細な動向など、今まで伝承や謎とされてきた事項、茶道をはじめとする文化面、当時の公家や武将等との交際から家族関係にいたるまで、教如に関する研究が極めて多面的な分野で飛躍的に進んだことである。
 なぜ伝説では教如が顕如に転化したのか、転化せざるをえなかったのかの推論のヒントは、このような諸先学による「研究成果の束」の中に既に存在しているのではないかと思われるのである。

2、貝塚寺内史研究の到達点
 私達が通常、貝塚寺内の成立史として参考にするのは、やはり地元の「貝塚市史(通史遍)」(以下、「市史」という。)四百十四頁「二、貝塚寺内の草創」以降の記述についてであろう。貝塚寺内や願泉寺、初代卜半斎了珍等の由緒や寺内取立ての経過等を事細かに説明している。ここで記されている事項は極めて多岐にわたり、逐一取り上げることはできないが、最も重要なのは「天正十五年五月十九日付、富田頼雄筆寺内基立書」(以下、「基立書」という。)をはじめとする基本史料群についてである。市史の記述は基本的に基立書等の基本史料を前提として、これを肯定的に捉えた上で記述されているといえよう。
 一方、市史の刊行後、約五十年を経た平成十九年に堺市博物館で開催された「貝塚願泉寺と泉州堺」と題する企画展の図録集(以下、「図録集」という。)の「基立書」の解説では、「—略—、基立書は貝塚寺内成立を語る際の根本史料とされてきたが、近年の研究成果により、後世に脚色されたと思われる部分が多く、その作成年代は天正十五年よりも下がるものと考えられている。また、作成者についても、署名にある富田頼雄ではなく、卜半家の領主権を正当化するために同家内部で作成された可能性が強いものと推定されている。」と説明されている。
 さらに、大澤研一氏による「図録集」の巻頭論考「泉州のなかの貝塚願泉寺」では、「―略―住僧がいなかったところに、根来寺より京都からの落人右京坊を迎え、卜半斎と改めて居住したのが願泉寺の濫觸といわれてきた。しかし、この由緒は全面的には信頼し難く、卜半斎については泉佐野の土豪佐野川新川家の出身で、根来寺で学んだ経歴をもっていたことが近年明らかにされている。―略―さて、天正十三年(1585)八月、本願寺が天満へ移転する際、顕如は「海塚坊」の留守居を一旦、津田左衛門に命じたようである。しかし、左衛門がそれを辞退したため、卜半氏に仰せ付けられたという―略―」と述べられている。なお、このような点については、翌、平成二十年に発刊された「新修泉佐野市史 通史遍中世」五百六十三頁以下で詳しく記されており、筆者が前回小文「はじめに」で触れた新川一門関係系図抄も登載されているのである。
 以上、「初代了珍は京都落人」、「右京坊は日野家末裔」という貝塚寺内の由緒は、今日では研究者間で見直されているのである。

3、秀吉による教如退隠命令
 さて、筆者は前回小文の2の中で、「□文禄二年(1593)九月十二日 秀吉は教如を大坂に呼び、十年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう命じる。これに対し周辺の強硬派坊官が譲状の真贋を言い立てて秀吉の怒りを買ったため「今すぐ退隠せよ」との命が下る。」と記したが、これは前段の如春による秀吉に対する「譲状を使った直訴」を原因とするものであるが、秀吉側の対応について関係史料を見ながらもう少し掘り下げてみたい。
 関白秀次の祐筆、駒井中務重勝の「駒井日記」によると、秀吉は教如に十一か条を挙げて失態を攻めたが、「第一条、大坂居据わられ候事。」(※筆者注、大坂抱様のこと)にはじまる詰問項目の中で、なぜか「第八条、当門主妻女の事。」という項目がある。
 常に議論の俎上にのぼる譲状の真贋は棚上げするとして、教如への譲状が無かったこともまた事実である。しかし、如春(顕如の妻で教如、准如の実母)はなぜ教如が継職してから一年近くもたってからこの様な行動に出たのだろうか。「石山退去の際両親に逆らったから」は尤もな理由だろう。その他、「如春は実母でなく継母説」、「末子の准如溺愛説」等々、様々な憶測が存在するが、今日の研究成果でなるほどと思われるのは先の「第八条、当門主妻女の事。」にまつわる話である。
 教如側近の宇野新蔵が書いた「覚書」によると、教如は正室の「東のかみ」(公家の久我氏の娘)がいるにもかかわらず、「おふく」という女性を溺愛し、その存在を隠しながら数人の子供をもうけていたのである。それに対し如春は「おふく」を嫉んでいたため、教如の禍根となる事を危惧した下間頼龍ら側近の連判状により別居処分となり、京都本願寺の東北からひそかに近江国長沢の福田寺に隠されたとされており、文禄二年(1593)閏九月のことなので秀吉からの処分の時期と重なるのである。
 「東のかみ」には子供がおらず、将来「おふく」が産んだ子が教如の後嗣になり本願寺を継ぐと、重用されなくなった旧顕如派は二度と浮かび上がれないという判断が、末子准如を立てた動機であるとされるのである。

4、教寿院如祐とはだれか
 教如の妻は四人いたとされる。まず一人目は朝倉義景の娘「三位殿」で、朝倉氏と本願寺の和議で婚約し、朝倉氏の滅亡を機に本願寺に嫁いだが天正八年、石山退去の際離別したとされる。二人目は久我通堅の娘で「東之督」だが結婚、離別の時期は判然としていない。三人目は教如の男子である尊如と観如ら二男七女の生母「おふく(教寿院如祐)」、四人目が東本願寺第十三世宣如の生母「妙玄院如空」であり、もとは「おふく」の娘「おねね」の乳母であったらしい。これらの中で最も教如の寵愛をうけたのが「おふく・教寿院如祐」であったとされている。
 さて教寿院如祐の出自については、史料が宇野新蔵の「覚書」しかないので長らく真宗史研究者間で謎とされてきたが、貝塚願泉寺七代、卜半了観作成の自家用の「手鏡」(延享三年(1746)成立)には、「教如が佐野川村と貝塚に滞在中、卜半斎了珍の妻祐西の姪が教如の子を産んだ。女子は花山院家へ嫁ぎ、男子は早世した観如上人である。貝塚には観如遺影が特別に下付されている。」と綴っており、この「卜半斎了珍の妻祐西の姪」が「おふく・教寿院如祐」なのである。
 卜半斎了珍の妻祐西は三善道喜の娘で、兄の「三善(新川)宮内大輔盛善」は天正年間に新川家一門に中庄新川家として加わり、本家の佐野川新川家から又七の娘を娶り、その間に生まれた甥の盛政が娘の宗貞を娶るなど、いわゆる交差いとこ婚の繰り返しによって新川一門衆の結束を図ったといわれている。
 ところで教如とおふくの長男尊如は生後二日で死去、二男観如は慶長二年(1597)に誕生し教如の法嗣として養育され、慶長十五年(1610)十四歳で得度したが、翌、慶長十六年(1612)に十五歳で早世してしまう。教如とおふくの落胆はいかがなものであっただろうか。十三世を継げなかった観如の画像は貝塚願泉寺のほか、おふくが産んだ観如の姉妹が嫁いだ寺にしか下付されておらず、全国で計四幅しか確認されていない。
 
5、東本願寺継職を巡る争い(本願寺肩衝事件)
 前回小文の2で筆者が示した「経緯」は慶長八年(1603)で終わったが、いま少し教如関係の歴史をたどってみたい。慶長十九年(1614)十月五日教如没。このとき東本願寺は妙玄院如空の産んだ幼い宣如を擁する一派と、教如と教寿院の外孫にあたる熊丸を擁する一派の間で係争が生じた。
 元和二年(1616)に教如三回忌法要が営まれたが、事件はこの時起こったとされる。東本願寺のホームページでこれを見ると「定衆の堺源光寺が「教寿院は宣如上人に対する態度が悪いので、本願寺を追い出す」と大声を上げて触れ回るという事件がおこりました。それを聞いた御堂衆の泉龍寺超賢は、教如上人の側近である宇野新蔵に「教寿院が宣如上人へ肩衝(かたつき)の茶入れを渡せば、継職問題は解決するだろう」と言ったことにより、その日の内に教寿院から宣如上人へ渡されました。」とある。肩衝の茶入れは教如が生前に教寿院に形身として贈っていたものだった。
 実はこれには話の続きがあり「惣門下中」より京都所司代、板倉伊賀守勝重に対し、「教寿院は宣如方に偽物の茶入れを渡した」との訴えがあり、伊賀守より宣如家臣団に茶入れを持参しての出頭命令がなされ、鑑定とともに宇野新蔵の査問も行なわれたのである。結果は一応本物だったといわれており、この騒動を経て十三世宣如が正式に継職したのであった。
 さて、教如が石山本願寺を退去した際、「鷺森旧事記」にも「茶入れ一つのみ懐に入れて退去した。」との記述があるが、この茶入れこそ教如が烏丸の東本願寺へ移る際、本願寺継承の正統性の証として、教如御輿の先頭に立てられ「安城の御影」「親鸞伝絵(康永本)」とともに『三種の御什物』の一つとなった天下の名品、「本願寺肩衝」なのである。

6、東叡山寛永寺公海とはだれか  
桜で有名な現在の東京上野「寛永寺」は、寛永二年(1625)天海大僧正により創立され、家康はじめ歴代将軍の帰依をうけ、徳川家安泰と万民平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された天台宗の寺院である。幕末に彰義隊が立てこもり戦場となったことでも知られるが、実は貝塚願泉寺の四代了周の寛永十三年(1636)以降、歴代住職は東叡山寛永寺で得度剃髪を受けているのである。願泉寺は本願寺東西分派以降も両本願寺と本末関係を保ち、昭和の戦後まで両派に属すという、真宗寺院でも極めて特殊な歴史を有するが、その願泉寺がなぜ天台宗の東叡山寛永寺の「御支配」寺院に位置付けられていたのであろうか。そして寛永寺の二代目公海大僧正から寛永十三年(1636)に「真教院」の院号を、寛文八年(1668)に「金涼山」の山号をそれぞれ下賜されているのである。
 これらを下賜した寛永寺二世公海こそ、教如と教寿院の娘で花山院忠長に嫁いだ教証院如頓が産んだ男子で、宣如と東本願寺十三世継職を争った幼名「熊丸」なのである。

7、新しい貝塚寺内史像から見えてくるもの
 以上2~6まで、本小文のテーマに関連する事項で、先学の研究で明らかとなってきている歴史を紹介してきたが、これらからは新しい貝塚寺内史像が見えてくるし、それに対する東西両本願寺の事情も窺えるものである。
 吉井克信氏は「―教如とおふく―」(「教如と東西本願寺」所収。)のなかでこれらを端的にまとめておられるのでそのまま紹介したい。「貝塚願泉寺初代の卜半斎了珍の出自は新川一門衆とりわけ佐野川新川家の出生と推測されている。―略―それにもかかわらず、卜半家とその周辺では、教寿院や卜半斎が新川一門衆の出身であると積極的に公表しにくい事情があった。卜半家とその周辺で称し始めた「初代了珍は京都落人」、「日野家の末裔」との主張と齟齬を生じて由緒が破綻しかねないためである。」とし、さらに「この特殊な事情は、東西両本願寺にとっても同様であった。本願寺にとって教寿院は、本願寺第十一世顕如の正室如春と対立して第十二世教如が豊臣政権によって退隠させられる危機的状況を生じさせ、東本願寺分立後も第十三世宣如の継職阻止を画策した経歴をもち、歴史上に位置付けにくい存在なのである。教如側室でなおかつ観如生母でありながら、東本願寺系の系図・系譜類にさえ出自を詳述しえない複雑な背景がうかがえよう。―略―それにもかかわらず、卜半家とその周辺で作成された「手鑑」「卜半従来仕来之覚」があえて教寿院にふれるのは、東西両本願寺に属しつつ東叡山寛永寺で住職が得度するという、貝塚願泉寺のもつ複雑で重層的な権威の源泉が、教寿院如祐を介した観如や公海との血縁関係を抜きに語れないためである。」と明快に論じている。

8、おわりに   
 さて、筆者は2で、基本史料である「基立書」等の先学達による研究結果を紹介したが、これらは近藤孝敏氏による「貝塚寺内の成立過程について―「貝塚寺内基立書」の史料批判を通じて―」(「寺内町の研究第三巻、地域の中の寺内町」所収。)(以下、「近藤論考」という。)がベースになっていると思料している。この近藤論考では基立書だけでなく付属史料の史料批判も行なわれており、ここでは「貝塚卜半性名家記」という史料(以下、「当該史料」という。)についてとりあげたい。
 当該史料は慶安元年(1648)に富田頼直が祖父から聞いた内容を記したという体裁をとりながら、前段では卜半家の来歴について記し、その後、顕如による寺号・山号・院号の下付について記しているが、ここでは後段の部分についての近藤論考の記述を紹介したい。
 「―略― 顕如から寺号・山号・院号が下付されたとする等、全く事実に反する記載が存在し、日付・署名とも信用することができない。特に院号は、この文書の作成年とされた慶安元年(1648)の十月に下付されており、さらに山号にいたっては二十年後の寛文八年(1668)になって初めて獲得したのであるから、明らかにこの文書は後世の偽文書である。このような致命的ともいえる大幅な時代錯誤が十七世紀の段階で生じるはずはなく恐らくはるか後年になって何らかの必要性から富田頼直に仮託して作成されたものであると推察される。—略―」。
 なぜ近藤論考の当該史料批判に筆者が注目するのか。それは、今では歴史的に明確な寛永寺二世公海による院号・山号下付を「顕如に仮託して説明する」ことを後世に行っている事例として注目するからである。
 そして、院号・山号の下付を顕如に仮託し転化したのと同様に、後世に教如の故事をも顕如に転化して物語化した可能性を類推するのである。
 思えば、大坂抱様が破綻して流浪の日々が始まった天正八年八月二日、大坂湾から新川家を頼って佐野川村(現泉佐野市上瓦屋)に来訪したのが物語の始まりだった。卜半、顕如、如春、教如、おふくらの没から四百年を経た今、信長、秀吉、家康らとわたりあって激動の戦国末期をしたたかに生き抜いた『教如』、そして歴史の陰に隠れてしまった『愛妻おふく』の物語として、泉佐野顕如伝説が現在によみがえることを願わずにはいられない。

《文中紹介以外の参考文献》
近藤孝敏 中世末~近世初頭の「中庄新川家文書」(『泉佐野市史研究(第9号)』所収。)、  遠藤一「教如と豊臣政権」、松金直美「東西分派後の東本願寺教団」、青木馨「文化人としての教如」、山口昭彦「本願寺肩衝」、(『教如と東西本願寺』所収。)、武田鏡村『本願寺はなぜ東西に分裂したのか』(扶桑社新書)、 川端泰幸「大坂本願寺戦争をめぐる一揆と地域社会」(『真宗教団の構造と地域社会』所収。)






泉南歴史トピックス5  泉佐野顕如伝説の実相 ①ー鷺森旧事記により判明した真実ー

 


泉南歴史トピックス5  泉佐野顕如伝説の実相

①ー鷺森旧事記により判明した真実ー
もう6年も前になりますが、筆者が「泉佐野の歴史と今を知る会会報 第382号(2019年10月9日)」に投稿した論考を当ブログに再掲いたします。よろしかったらお読みください。(縦書きを横書きに変換しています。)

泉佐野顕如伝説の実相
―「鷺森旧事記」により判明した真実―

はじめに
 我が国の史学は、近現代において皇国史観・唯物史観と大きく振幅した反動からか、最近では実証主義に基づく歴史研究のあり方が主流となっている。
 この影響からか、昭和三十六年に発刊された「泉佐野市史」には「顕如の石山退去」(百六十二~百六十四頁)として紹介されていた「上瓦屋新川家顕如上人の蟄穴」その他の伝説は、平成になってから再度発刊された「新修泉佐野市史」では全くふれられていない。一方、当該伝説に関わる佐野川新川家と中庄新川家、貝塚新川家(卜半家)の関係を詳しく整理した「新川一門関係系図抄」(中世編五百六十五頁)を作成し登載するなど、中世末から近世初頭の泉佐野在地社会や宗教に関する実証的記述が大きく前進し充実している。
 標題の顕如伝説に関する現在の市の取扱いも、市ホームページ(「いずみさのなんでも百科」)において「顕如が退去した経路(陸路、海路,本市での途中休憩など)については実証するものはまだ発見されていません。」と丁寧な説明がなされている。
 里井家文書の市寄託等により、近世は岸和田藩領から外れていた佐野川流域地域(瓦屋、湊、中庄)の近世史がにわかに注目を集めているが、本小文は同地域に残る顕如伝説の史実性等について、筆者が調査する過程で発見した和歌山鷺森御坊の「鷺森旧事記」の記述により判明した事実について紹介するものである。

1.伝説と伝説地について
 まず泉佐野市域における顕如伝説と伝説地等について可能な限り取り上げてまとめてみた。
①佐野川北出の浜
 本願寺の大坂退去の際、顕如が海路大坂から泉佐野に来たとき着いたとされる場所。現湊・下瓦屋地区
②顕如松
 北出の浜にあった松に向かって助けてくれと願うと、幹が割れ顕如を隠したとされる。場所は①付近で明治中期まで現存していたと伝わる。
③信證寺
 北出の浜付近にあったとされる古くからの浄土真宗寺院。明治の初年に廃寺に。妙光寺佐藤師の『泉さの界隈の昔話』では「真祥寺の浦」(東洋製鋼(現いこらもーる)の西南付近)と。また、当該「信證(証)寺」の水盤が現在も下瓦屋の浄土真宗寺院「西方寺」に残る。)
④新川家顕如上人の蟄穴
 顕如が頼ったとされる上瓦屋新川家の裏藪にあって、顕如が隠れたとされる穴。その後、同藪内の約二十m離れた場所に変わったと伝わる。「顕如の隠れ井戸」とも。現上瓦屋地区)
⑤かなやの松
 北出の信證寺(真祥寺)の浦に上陸した顕如が佐野川にそって熊野街道との交差まで来たときに、登って形勢を見たところ「これはかなわぬ」と言ったと伝わる松の木。当初の「かなわぬの松」が「叶うの松」に、そして「かなやの松」に転化。
⑥かなやの辻
 松があった辻のことで、松は枯れても残った地名。佐藤師によれば近年まで(冊子が出された昭和四十年の近年まで)辻の角に同名の茶店があったと。旧中庄町の「叶松町」の地名由来にも。
⓻顕如上人袈裟掛の松
 熊野街道沿いの四つ池(市場の西南にあった四つの池)付近にあった二株の交差した松の木。泉南郡役所編「泉南紀要」で紹介。)
 以上のとおり、佐野川の河口から中流にかけて伝説地が分布しており、佐野川と熊野街道との交差後には熊野街道沿いにも伝説地が存在し、その分布は点から線をなしている。そして筆者が知る限りさらに下って、近隣の泉南市岡田浦の浄土真宗寺院「西光寺」にも顕如が石山退去時の天正八(一五八〇)年七月に立ち寄ったという伝説が残されている。
 筆者は以上のような伝説地の分布や連続性を考えるにつき、伝説の基となる何らかの史実が実際に存在したのではないかと以前から感じていた。一方、天皇の調停を受け入れ、信長の意を受けて鷺森に退去した歴史的経緯から、「北出の浜」や「隠れ井戸」「かなやの松」といったまるで逃亡記のような伝説のありように少々違和感も抱いていた。

2.石山合戦とその後の本願寺東西分派にいたる経緯
 伝説の真実をさぐり関係史料と向き合ううえでの必要から、大阪における石山合戦及びその後の本願寺関係の動向や歴史を概観しておきたい。
□元亀元年(千五百七十年)九月十七日 
 信長が本願寺の石山からの退去を命じる。顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦、石山合戦が開始された。しかし合戦末期には信長との講和を支持する穏健派と、さらに徹底抗戦を主張する強硬派に分裂していく。
□天正八年(千五百八十年)三月
 顕如は正親町天皇の仲介により信長との和議に応じる。
□天正八年(千五百八十年)四月
 顕如ら穏健派は石山本願寺から紀伊鷺森へ退隠する。教如は徹底抗戦を主張したため顕如から義絶されるが、なお石山本願寺に籠城する。
□天正八年(千五百八十年)八月二日
 教如、勅使近衛前久の退去説得に応じ明け渡して退去。直後に本願寺は火災となり焼失する。その後も強硬姿勢を緩めぬ教如は強硬派への支持を募る。
□天正十年(千五百八十二年)六月二日
 本能寺の変で信長が自害。
□天正十年(千五百八十二年)六月二十三日
 顕如、後陽成天皇から教如の赦免を提案される。同六月二十七日、教如は顕如より義絶を赦免され、顕如と共に鷺森に住し寺務を幇助する。
□天正十一年(千五百八十三年) 
 秀吉が石山本願寺跡地に大坂城を築城開始。同年、顕如、教如は和泉の貝塚に移転。(貝塚本願寺(後の願泉寺))
□天正十三年(千五百八十五年)五月
 本願寺は秀吉の寺地寄進を得て大坂の天満に移る。
□天正十九年(千五百九十一年)八月
 再び秀吉の寺地寄進を得て京都に御影堂を移転。翌二十年七月、阿弥陀堂を新築し本願寺は京都に移る。
□文禄元年(千五百九十二年)十一月二十四日 
 顕如入滅に伴い、教如が本願寺を継承。元強硬派を側近に置き、顕如と鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため教団内の対立に発展。(顕如の室如春尼(教如の実母)は顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示し、遺言に従って三男准如に継職させるよう直訴)
□文禄二年(千五百九十三年)九月十二日 
 秀吉は教如を大坂に呼び、十年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう命じる。これに対し周辺の強硬派坊官が譲状の真贋を言い立てて秀吉の怒りを買ったため「今すぐ退隠せよ」との命が下る。
□文禄二年(千五百九十三年)九月十六日 
 准如が本願寺第十二世宗主を継承。教如は本願寺北東の一角に退隠させられ「裏方」と称せられる。しかし退隠後も精力的に布教活動し、文書の発給や新しい末寺の創建を行う。
□慶長三年(千五百九十八年)八月十八日 秀吉没。
□慶長七年(千六百二年)
 関ケ原の合戦後、教如は家康から本願寺(七条堀河)のすぐ東に寺領(烏丸六条)を寄進され、翌八年(千六百三年)本願寺(東)が開かれた。
※筆者注。本願寺の動向と極めて関連が深く、泉州史の中で欠くことのできない
□天正五年(千五百七十七年)信長、雑賀攻め。
□天正十三年(千五百八十五年)秀吉、泉州・紀州攻め。
 があるが、ここでは本願寺における東西分派にいたる経緯に特化したためあえて含めなかった。

3.「鷺森旧事記」の発見
 今回、鷺森旧事記にたどりついたのは、和歌山市立博物館で展示されていた原本を見て、学芸員の方に質問したところ、当該史料の稿本が当博物館発行の「和歌山市史研究二十六号(平成十年三月)」に収録されているとご教示いただいたことによる。
 和歌山市史研究二十六号は、全五十一頁のうち、当時の館長の寺西貞弘氏の「鷺森別院所蔵「鷺森旧事記」について」という論考と「稿本鷺森別院本「鷺森旧事記」」の二つの文書で成り立っており、筆者のように古文書が全く苦手な人間でも翻刻されているため何とか読みこなせるものである。次はこの稿本鷺森旧事記を読む過程で発見した本伝説に関係する部分を紹介するものである。

4、鷺森旧事記における本伝説に関係する記載
□顕如の石山退去の実相(日時、ルート)
教如御異変之事
 「∸―――かくて御門主天正八年四月四日に、大坂御堂を御退寺ありて、泉州堺浦より御乗船ましませて、御真影と共に吹井浦につき、同十日に紀州宇治郷鷺森に御下着なり、」(「稿本 鷺森別院本 鷺森旧事記」22頁下段)
 ※筆者注。吹井浦は現在の岬町深日のことなので、顕如は泉佐野には寄港していない。なお、筆者が別に調査し、今日まで顕如の石山退去で記載のある唯一の史料とされてきた太田牛一「信長公記」では、「「本門跡大坂退出の事」として―――雑賀より迎え船を乞い、四月九日、大坂を退出さる。」とあり、堺から乗船したのは四月九日であると推測される。
□顕如伝説の史実性の有無
教如上人大坂退去之事
 「―――教如御切腹の外事なし、是によりて城の請取奉行矢部善七郎へ、いろいろと一命を乞給う、―――(略)―――七月二十八日御堂を善七郎に相渡し、天正八年八月二日未刻に大坂を御退去あり、―――(略)―――其日ハ泉州佐野川まで落着給へハ、佐野川の孫市といふもの夫婦、信者にて家の後なる塚穴に隠し、若や信長の討手の者もきたらむかと、深く用心しけれとも、迫来る人もなかりけれハ、紀州へ送り奉るなり」(同26~27頁)
教如上人御勘気之事
「かくて教如上人、天正八年八月三日、佐野川孫市御供申、紀州へ落着給へとも―――」(同28頁上段)
 ※筆者注。顕如伝説は本願寺石山退去の史実を反映した伝説であった。
しかし、顕如退去後四か月後に天皇、信長怒りの中で行われた「教如」のものであった。佐野川の孫市は教如に御供して紀州まで送り届けていた。なお、先に1で見た泉南市岡田浦「西光寺」に天正八(一五八〇)年七月に立ち寄ったという伝説は、当時の暦の事情等から考えて許容範囲であり、本伝説が顕如でなく教如のものだったことを裏付けるものである。

5、鷺森旧事記の史料的重要性
 和歌山市史研究二十六号は、3で記したように、巻頭に当時の館長の寺西貞弘氏の論考を掲載している。旧事記の史料的重要性はこの一文を読めば明らかとなるが、とりわけ紹介しておかなければならないのは、「鷺森旧事記の時代認識」の部分である。旧事記が記されたのは元禄六年(千六百九十三年)十二月、宗意師によってであるが、
 「永禄ころを境として、後代の編纂物によって語られる時代がそれ以前であり、それ以後は一次史料によって語られる時代として認識されていたといえるだろう。すなわち弘教や宗意にとっては、それ以前の歴史が遠い歴史であり、語られた時代であったが、それ以後は近い過去であり、まさしく自分が語るべき時代であると認識していたといえるだろう。」と述べられている点である。
 石山退去は天正年間の出来事であり、永禄以後である。宗意師にとっては「一次史料によって語られる時代」に属するし「近い過去であり、まさしく自分が語るべき時代」だったのである。その意味において泉佐野顕如伝説の実相をさぐるうえで極めて重要な、決定的な史料的価値をもつと筆者は思うのである。

6、おわりに  
―「教如」がなぜ伝説では「顕如」に転化したのか―
 教如の石山退去の史実が、なぜ顕如の伝説に転化したかの検討は、私も含めた泉州の郷土史家の今後の課題であろうが、その答えを出すには今回の調査以上の困難性が予想される。
ここでは何の根拠もない私の「現時点」での推論を示して本小文を閉じたい。
2で見たとおり、本伝説の背景となった本願寺「石山退去」は、江戸時代初頭に確定した本願寺東西分派に至る、約二十年間の歴史の端緒に位置付けられるものである。東西分立以降も近世を通じて、「本伝説のありよう」が泉州や紀北における東西両派の布教活動や勢力争いと無関係ではなかったと思われるのである。
泉州と紀北地域の東西両派の勢力は、具体的な数字を示すまでもなく西本願寺(浄土真宗本願寺派)が優勢である。西と東が分立し、別派となったうえでは浄土真宗本願寺派寺院やその檀那達にとっては、「教如伝説」ではまずかったのではないのだろうか。









2025/05/12

泉南歴史トピックス4 信達市場、唐金新田の謎にせまる④

  泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる

「北山理氏」のもう一つの調査研究。そして念ずれば花開く。

(このシリーズは①からお読みください)



 「泉佐野の歴史と今を知る会」の北山理氏には本件に関するもう一つの調査研究があります。「佐野点描百景第八集 探訪食野・唐金乃面影 参」(「泉佐野の歴史と今を知る会」資料集九十九集、発行日 平成十七年十一月九日)です。

 この中の「信達神社と長慶寺」では「信達神社と長慶寺に宝永四(一七〇七)年、唐金興隆寄進の石灯篭が立つ。この石灯篭の寄進については、大口新田・唐金新田の存在がある。」とあり、これにつづく「泉南市信達の大口新田・唐金新田」では「食野家調査資料」に『注、(長慶寺は)信達町にある真言寺院にして、金熊寺に奉献と同時に行なはる。ちなみに信達町内に新家より六尾への途中、大口新田五町歩・唐金新田壱町歩、佐野の飛地として現存せり。これは唐金家の開発新田にして、移住者の氏神氏寺として金熊神社及び長慶寺を選びたるにより、各宝前に寄進したものと考えられる』とある。」そして

 「大口新田の場所については、JR阪和線和泉砂川駅の南の佐田交差点に家があったS・Kさん(原文は実名、筆者が変更)の平成十五年の話によると、和泉砂川駅の東南にあったと教えてくれた。現地に同行していないので、残念ながら場所の確定は出来ていない。Kさんは今年の初めに亡くなられたと聞く。」とされている。

 さて、佐田新田は和泉砂川駅の東南ではなく西南にあたる。佐田のS・Kさんが言うのだから佐田が正解で東南は誤記なのだろうか?、私の「大口新田・唐金新田計六町歩」探しが本格的にはじまったのである。大口とはおそらく地名だろう、「大口」とはどこなのだろうか?約2年くらい前からいつも頭の片隅にこの大口探しがインプットされたのです。

 私は、定年退職後に本格的に郷土史研究をやるようになって、この言葉を本当に実感する出来事に何度も遭遇しています。今回のテーマに関しても三度もこれを実感することがありました。

念ずれば花ひらく、その⑴

一回目は、泉南市図書館の二階の郷土史本の書架で別テーマの本をさがしていた時です。「ふるさとを知ろう 泉南市東地区」と題する泉南市立東小学校PTAと東幼稚園
PTAが出した郷土史本の表紙が「泉州金熊寺梅渓全図(明治32年)」をベースにつくられており、上記写真に付箋で記した所に「大口」があるではありませんか。分かりづらいですが、六尾から新家方面への途中の三叉に「大口」という表示を発見しました。やはり、S・Kさんの説明のとおり和泉砂川駅の東南方向にあたる場所なのでした。

念ずれば花ひらく、その⑵
 二回目は、別の日に同じように泉南市図書館の二階の郷土史本の書架にある「信達紀要」(信達町役場)を読んでいるときです。信達神社の説明に「賓道の入口に「宝永四年五月、唐金梅所寄附」と刻した石縶一基、苔むして建てられてある。梅所寄進の石灯籠は長慶寺にも一基あり、何れも同形のものである。」とし、「唐金梅所は佐野の豪士であり、土地の開墾に努力すると共に詩をよくした。砂川の北方大口新田と称する土地は梅所のところで、その所属は今も佐野町の飛地となっているが・・・」と信達紀要にもよく似た記述があることを発見したのです。

念ずれば花ひらく、その⑶
 一年ほど前に、痛い腰と足をおして「関空クラシックゴルフ倶楽部」のメンバーの方とコースをラウンドした際、ゴルフ場内の「佐野池」は「名前のとおり池は佐野らしいでー。」の一言が気になって、まさかと思いながら泉佐野市役所に電話して聞いたところ、何度かたらい回しにはされたものの、最後は固定資産税の担当の方が「泉佐野市土地情報システム」の存在をご教示くださったことにより、まさかと思われる驚愕の事実が判明したのである。

「ゴルフ場の佐野池の池敷とその水路敷、さらにゴルフ場の東側に本市の飛地があります。阪和道の市場橋の下、北と南に細くのびる土地です。(10ヘクタール(10町歩)以上)」というではないか!、職員の方はそれが大口・唐金新田であったことはもちろん知りません。私は以前に泉南市役所や泉南中学校の土地が俵屋新田、国市場の土地で、明治41年までは日根野村の飛地であったことを示しましたが、大口新田五町歩・唐金新田壱町歩、計六町歩の土地は現在においてもなお泉佐野市の飛地なのである。(市販の地図等では表示されていません。)

ということで、「泉佐野市地図情報システム」はこちらから。(「同意する」を押して橙色で囲まれた実線の中の土地が泉佐野市です)

 ところで話は戻るが、北山氏の聴き取りに応じた佐田のS・Kさんは、なぜ大口新田・唐金新田の場所をご存知だったのだろうか?、S・Kさん等の屋敷のある一角は、以前は葛畑村字堀河の方たちで、ダム建設で屋敷水没のために集団で移住してくださった通称「堀河村」と呼ばれている場所なのだ。そして、江戸時代は堀河と大口は根来街道の間道として一気通貫でつながっており、以前は新家方面や市場の長慶寺方面に行くには、この道を通ることが通常だった道だったからと思われるのである。(お菊伝承がもし史実ならば、この道を通ったに違いありません)

大阪府全誌、大字市場「字地に唐金新田といえるあり。」の謎はとけました。
私にはまだまだ同様の謎が他にもいくつもあるのです。以上終わり。




2025/05/11

泉南歴史トピックス4 信達市場、唐金新田の謎にせまる③

 泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる

③佐田新田について
「清水明氏」と「北山理氏」と「山元六合夫氏」の研究

(このシリーズは①からお読みください)
(泉南市の佐田交差点付近の地図)
さて、上の地図は府道大阪和泉泉南線と所謂、根来街道の交差点付近「佐田」の地図です。色分けされた地図ですが、ピンクが牧野、薄黄色が岡中、薄橙色が六尾で字が分かれています(市場は鶯色ですがこの箇所の範囲にはありません)。つまり、牧野、岡中、六尾の境界付近が「佐田」なのです。

 また、佐田は金熊寺川が愛宕山にぶつかって大きく左、岡中側に蛇行する氾濫原といっていい土地で、見た目では分かりにくいのですが、右岸は左岸より標高が少し高くなっています。したがって愛宕山から海側にのびる長山(長岡)によって分断される泉南平野の大阪側に水を引くのはむつかしく、六尾のナメンジョに「築ノ井分水」ができたことが、信達荘の画期であったことは容易く想像できるのです。

 佐田交差点の牧野側の山側には以前「俵池」があり、今は市により埋め立てられ「俵池グランド」になっています。また、海側には以前「池」があり、これが埋め立てられて「砂川高校(現:泉南支援学校)」になっています。実は筆者は相続した田地を岡中側に有しており、田はよく湿つき湧水が多く昔から蛇の多い土地なのです。したがって、宮本常一氏がいう「砂川に近い」ですが、「地味のやせたところ」という認識はありません。そのような土地柄なので、開発が遅れ近世になってから佐田新田として開かれることになったのだと思われます。

 これは蛇足になりますが、その様な事情から根来方面から泉南側への近世初めのルート(三畑超え)は、金熊寺から六尾を経て直接新家に至るルートだったのです。(もちろん13号線はありません)これはれっきとした史料に裏付けられています(和歌山市史所収、浅野家文書)。また、泉南側から根来へのルートも新家清明寺代々記所収の「永禄元亀の絵地図」で「大道」が記され、松本芳郎氏の研究によって新家上村からイヤサカ池付近をへて六尾に至るルートが根来へのルートであったことが明らかにされています。所謂、大鳥居(オンドリ)からが起点になるのは、佐田新田の開発と時期を同じくするのではないでしょうか。

(泉南歴史研究会「わがまちの歴史と民俗」)
 さて、前回②で「佐田新田の開発者について泉南市には以前から異説がある」と記しましたが、それは清水明氏の「泉南市域各地区の研究 1泉州岡田史考 湊佐治平家」(「わがまちの歴史と民俗」歴研通信集成第一集 泉南歴史研究会、所収」)です。清水氏は「三代目佐治兵衛の代には諸色問屋兼海運業を営み、千石船で諸国取り引きをする傍ら、牧野村を開拓して佐田新田を造成した。」とあります。(岡田の湊家は佐野中庄湊の日根対山の母親を輩出しており、明治の岡田銀行をおこしたりしているのです。(筆者))

(語り部の伝承第11集 「阪南市波有手庄屋 古谷勘治郎家」)

 また、「泉佐野の歴史と今を知る会」の北山理氏は阪南市波有手の古谷勘治郎家の当主に聴き取り調査を実施しており、佐田新田について、「明治に入って、岡田の人が所有していた佐田新田を勘一郎が買った。代金は三万三千三百円で、その代金を支払うために桑畑の瀧谷の立木を売った。勘一郎は佐田の池を作るなどした。佐田新田の小作は、波有手の人六軒に頼んだ。六軒の人の住む家も建てて、貸して住んでもらった。・・・」たと聴き取りの記録を残しています。

 さらに、山元六合夫氏は「泉南地方における新興地主の新田経営」という論考をのこされており、(閲覧できますし、ダウンロードして印刷もできます。)。当論考は、近世末から近代にかけて波有手(ぼうで)の古谷勘治郎家の「勘治郎新田」と呼ばれた新田を研究されたものですが、佐田新田も同時期は古谷勘治郎家の新田であったことから「(3)佐田新田の歴史と経営」として詳しく言及されており、結論からいえば佐田新田の開発地主は唐金興隆ということになっているのです。






































泉南歴史トピックス4 信達市場、唐金新田の謎にせまる②

泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる
②食野氏と俵屋新田、そして食野氏自身が開発した新田(「宮本常一氏」の研究と「川上実計氏・池田谷久吉氏」の研究について)


 手放された俵屋新田のあとを受けて、矢倉家や食野家が経営したことを記しましたが、このことは有名な民俗学者の宮本常一氏による『泉佐野における産業の発展過程の概要』(宮本常一著作集22、産業史三編、未来社、所収)の「5.新田開発」の中で、かなり詳細にふれられており、さらに食野氏自身が開発したいくつかの新田のことも具体的にふれられています。

  当該論考では「(食野氏が取得した)俵屋新田」を説明した後、「俵屋新田のほか新田については宝永の頃唐金氏によって信達の佐田新田がひらかれている。六町歩ほどの新田であるが、砂川に近い地味のやせたところであった。」と記され、そのあと「食野氏自身の開発による新田も少なくなかったが・・・」と続き、いくつかの新田をとりあげ具体的に説明されていることから、「唐金新田」には別の開発者がおり、後に唐金家が取得したということは文脈上、考えなくてよいように思われます。

 しかし、氏によれば「唐金氏の開発新田は信達の『佐田新田』」となっており、その記述の方が重要です。佐田新田の開発者については泉南市に以前から異説があるからです。(この点は後からふれたいと思います。)

 

 さらに重要な関係資料として「昭和二十五年十一月十五日 食野家関係史料 第一集」があります。これは泉佐野市役所内佐野史談會発行、編集兼発行者代表池田谷久吉氏によるもので市長の山本正平氏の序文があるガリ版刷り製本のものです。

 この本には、市企画調査室の「川上実計氏」による、「九 食野財力の農村地帯浸透の一例としての 「俵屋新田と食家」」があり、俵屋新田を食野グループが取得していく過程と食野自身が新田開発する過程を詳細に史料で調査した論考です。上記、宮本常一氏の論考もこれを参考にしているのではないかと思われます。

 さらにこの本には、「池田谷久吉氏」による、「八 唐金興隆」があり、この論考の中で「興隆は宝永四年信達町の長慶寺に高さ八尺一寸の石灯籠一基を同時に奉納している。之は当時開発されたと思われる現に佐野市の飛地で新家村と信達村との中間にある儘に佐田新田とも呼ばれている土地が唐金家の所有であった関係から氏神氏寺として寄進したものと想像して間違いはなかろう。」と 記しており、

  最後に「◎長慶寺石灯籠銘をそのまま紹介し、その注として、(これが重要)「信達町にある真言寺院にして金熊寺に奉献と同時に行はる。因に信達町内に新家より六尾への途中大口新田五町歩唐金新田壱町歩佐野の飛地として現存せりこれは唐金家の開発新田にして移住者の氏神氏寺として金熊神社及び長慶寺を選びたるにより各宝前に寄進したものと考えられる。また、「◎金熊寺石灯篭(信達神社)銘をそのまま紹介し、その注として、「表参道一の鳥居の背後右側にあり…現在火袋欠損・・・」とある。

 以上、宮本常一氏、川上実計氏・池田谷久吉氏の論考をみてきたが、宮本常一氏は食野家関係史料第一集を参考として論考を書いたのではないかと考えられ、とりわけ「宝永の頃唐金氏によって信達の佐田新田がひらかれている」との記述は、池田谷久吉氏の論考の影響を受けているのではないかと思料されるのです。



(上は「
宮本常一著作集22、産業史三編」下は「食野家関係史料 第一集」ともに泉佐野市図書館にあり

2025/05/10

泉南歴史トピックス4 信達市場、唐金新田の謎にせまる①

 泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる

①大阪府全誌 巻ノ五 北信達村「大字市場」の項


 もう何時のことだろうか、はっきりした記憶はないのですが、好きな郷土史の勉強、研究のためにしょっちゅう読んでいた、井上正雄著、「大阪府全誌 巻ノ五」の北信達村「大字市場」の項の最初に、「本地は古来日根郡に属し、もと信達荘のうちにして、大字大苗代・同牧野とともに信達宿と呼ばれ、御所村と称せしが、後市場村と改む。市場村と改めしは市場のありしに依れるものならん。字地に唐金新田といへるあり。・・・・」という記述をみつけ、聞いたことのない「唐金新田」という名称の新田が泉南市の信達市場にあったことを知ったのでした。


 俵屋新田をはじめとする泉州の新田、とりわけ泉南市内の新田については、私のかなり以前からの調査・研究テーマで、いつも頭の片隅にあったのですが、そんなテーマがいくつもある中で、別テーマの勉強のなかでひょんなことで新しいことを発見することがしばしばあるものです。令和7年2月22日の泉南市民歴史倶楽部講演会で、貝塚市教委の曽我先生に講演をお願いしたのも、先生が早くから「俵屋新田」について研究され、新修泉佐野市史の当該箇所を執筆されたことも知っていたからです。


 当日の講演会では泉南市の「国市場」や「樽井浜」「幡代川辺」のことは取り上げられましたが、信達市場の新田の話はありませんでした。そして参加者の多くの方からいろいろ質問がでて、市民の関心の高さがうかがえる結果ともなったのですが、私なりの市内新田関係調査の現在の到達点について、とりわけ俵屋新田「以外」の 新田について、調べた結果を発表する機会が必要かな、とも思っていました。


 実はややこしいのですが、「俵屋新田」は17世紀当時の開発地主は、俵屋次郎右衛門その他計5家の共同によるものでしたが、開発した新田の経営という点では困難性が高かったようで、うまくいかずに当初の開発地主5家の中で最終的に地主として残ったのは俵屋の菊家だけなのです。


 俵屋新田の開発後に転退した地主のあとを受けて、佐野の食野グループ(食野・唐金・矢倉の各家)が一部を購入し経営しているということで、「市場の唐金新田」も後世に唐金が購入し経営した可能性も考えなくてはいけないというややこしいものなのです。食野が廻船業や金融業だけでなく新田の開発や経営を行ったことは、此花区春日出新田(ここに有名な別荘も。(のちに横浜に移築され国宝にも))の例で有名です。



2025/05/07

zenちゃんに代わり3/29の例会(佐野町場)を報告(後編)。


 右に曲がって左に曲がって、また右に曲がると西法寺の「お籠寄せ」です。興正寺門跡の籠を寄せたところですが、当寺の歴史を知るにはネットに頼りましょう。「興正寺」はここから。そして、 「西法寺」はここから。(つまり・・・、分かりやすいのは前に行った富田林御坊は明治9年の興正派分派に従い、浄土真宗興正派として残ったけれど、西法寺は西本願寺の直参になったということ。)
(おかごよせあと)

(西法寺)


 江戸初期に 、京都西本願寺興正寺の准尊上人によって開かれ、「さの御坊」と呼ばれました。食野家が敷地を寄進し、食野家先祖供養の寺として多大の援助を行いました。境内には樹齢1000年ともいわれる幹回り4メートルの見事なイブキがありました。当日は本堂にはあがりませんでしたが、二十四孝の彫刻や聖徳皇の扁額などのお宝があります。(イブキは本当に素晴らしかった。!!)
 寺の屋根瓦は新しいものですが、一番上の棟瓦には「菊水の紋」がはいっています。これは食野家の墓域の中心にあった紋表示と関連があるのかもしれません。食野家の先祖は楠正成の子孫の大饗(おおあえ)氏で、饗の下だけとって食としたと聞いたことがあります。

(開かずの門。西法寺の西楼門)
 
 正面の門を出て、本当の「むか新創業地」はこの辺当たり・・・。と言いながら右そしてまた右に曲がると西法寺西楼門、通称「開かずの門」です。この門はこの先にある食野家専用であることからそう呼ばれたとか。

                  (妙安寺)

 西法寺西楼門の角を左にまっすぐ行くと、浄土真宗本願寺派の妙安寺です。庄屋の藤田氏や食野・唐金家の屋敷に近く、支援があったようです。
 少し行って右に曲がると、泉佐野市立第一小学校。
           
           (昔の泉佐野市立第一小学校、食野家本家跡)


 食野次郎左衛門(佐太郎)家(本家)の屋敷は第一小学校の場所にありました。吉左衛門家ほか分家の屋敷はその周辺にあったと伝えられます。
 食野、唐金家関係の経営、文化、逸話・伝承等を説明しだしたらきりがありませんが、現在小学校の校門前に有名な松と井戸に関する説明板があります。それによれば佐野の盆踊り「佐野くどき「食野長者物語」」は、この井戸が以前あった場所のまわりで踊られたのが始まりと記されています。
(囃子)イ ッヤー ソイチャエーエエ ソイチャエ (チン チンテンシャン)
    ソーリャー トコドッコイショー
    大名あまたあるけれど 紀州は五十と五万石
    こわいものとてあるまいと ハーコリャサイ
    思えばしたり将軍家より こわいお方がござるそな
    そりゃまた誰ぞと尋ねたら ハーコリャサイ
    和泉の国は佐野の浦 食野長者というお方
    そりゃまた何故と聞いたなら ハーコリャサイ
    先祖代々不義理して 積り積もった百万両
    されば街道素通りゃできぬ ハーコリャサイ    (以下略)

 食野家跡から孝子越え街道方面に抜ける道沿いに「望楼のある建物」と「佐野最初の鉄筋コンクリート三階建て」の建物が現存しています。米の粉を作る工場で、望楼から沖の船との連絡合図を送ったらしいです。隣の三階建てはこれも米粉工場だったそうです。(撮った写真が見当たりません。申し訳ありません。佐野町場らしいユニークなスポットなのでぜひ見ておいてください。)

     (元「朝日湯」、現市教委文化財保護課 建物敷地は元唐金家本家跡)

 孝子越え街道を和歌山方向に少し行ったところが、元「朝日湯」です。土曜日ですが、職員の方がおられたので少し見せてもらいました。
                  (元泉陽銀行)

 いよいよ翼通りのアーケード下に戻ってきました。
元泉陽銀行の建物です。明治28年の設立当初は街道と車みちが交差する角にありました。(お多福石を思い出してください)
 当建物には大正10年に当時のモダン建築として建設移転、ところが昭和2年(1927)に大恐慌が起こって工場閉鎖や倒産が続出、泉陽銀行も努力しましたが昭和7年に破産しました。その後、和泉銀行佐野支店、近畿相互銀行佐野支店となりましたが、最近では商店、接骨院等として今もつかわれています。
             (若宮地蔵(子安地蔵))

 旧国道㉖を跨ぎ、新地方面にもどってきました。
若宮地蔵(子安地蔵)です。寛政3(1791)年の建立と古いものです。初地蔵は1月23・24日、お餅を供えて講中にお下がりを分けます。子安・子育て・水子供養の地蔵さんです。戦前は芸者さんが、戦後はカフェやバーのママさんが技芸上達・商売繁盛を祈願したとか。
 以前回ったときには、「見番跡」の建物が残っていましたが、今回の例会ではありませんでした。映画館は「国見館」だった建物が複合商業施設として残っていました。
          (新地通り商店街付近の地図)

 例会終了後、zenちゃんがお休みだったので、報告せねばと思いながら遅くなって申し訳ありませんでした。しかし、終了後すばらしい資料に出会いました。上図は新修泉佐野市史に掲載されている「新地の商店街 イメージ復元図」です。ご参照ください。

以上報告終了です。




 















zenちゃんに代わり3/29の例会(佐野町場)を報告(中編2)。

 (野出墓地の食野、唐金家の墓碑の真ん中にあった紋?の石)


ところで、野出墓地の食野、唐金家の墓碑域の中心に据えられていた石は何だったのでしょうか。紋どころなのでしょうか。周囲は菊に違いないと思うのですが、真ん中は少し風化していて判りづらくなっています。

(野出墓地から明厳寺方面へ)
野出墓地から町場の中心部にもどってきますと、ものすごく背の高い大きな木がある広い屋敷があります。「岸和田藩七人庄屋」の一人、佐野村 藤田十郎太夫家の屋敷跡です。 少し行くと広場に船の大きな舳先が置いてありました。
              (黒水押(くろみおし)の船)
 これは、「黒水押(くろみおし)」といって、泉州、佐野浦の船(木造船)の特徴で、保存されている黒水押から見てかなり大きな船のもののようです。泉州佐野浦黒水押は瀬戸内を超えて遠く五島、対馬に進出し、太平洋を東上して房総半島にも住み着いた中世から近世、近現代まで続く佐野漁民の伝統のシンボルなのです。(保存した方の思いが伝わってくるようです。)
                (井源地蔵)

 ちょっと寄り道して角を左(海側)に曲がると、わかりにくいですが地蔵さんがあります。「井源地蔵」といって、足の悪い人が地蔵さんにお願いしたら治ったといいます。(腰痛からの左足痛と痺れが残り、リハビリ中の私はお参りしたかったのです。)
 ぐるっと回って明厳寺方面を目指すと、大きな庄屋門があります。(実は「ありました」。今は撤去済みで屋敷は工事中。)この明厳寺横の庄屋屋敷はもう一方の岸和田藩七人庄屋、佐野村 吉田久左衛門家の屋敷跡です。

       (吉田久左衛門家の屋敷跡の右隣が明厳寺)
  昇龍山明厳寺と号し、浄土真宗本願寺派。蓮如上人書といわれる六字名号が伝わっているとか。(この辺はスマホカメラの調子が悪かったのか、撮った写真が写っていませんでした。お許しください。「黒水押」の実物もたしかに撮ったんやけどなー。次の「大河内家」も「御旅所」も、そして「大将軍湯」もー。がっかりです。)
 上の地図の画像の右下あたり、三角の土地の北角に「お旅所」の表示があります。春日神社のお旅所らしいです。

(大将軍湯(閉店中))

 道を真っすぐ少し行くと、大将軍湯跡です。「国指定文化財大将軍湯」はこちらから。耐震化等の課題のため閉めていますが、将来は銭湯として復活し来街者に入ってもらう計画とか。佐野町場は「銭湯」の町で昭和40年頃は13軒もあったそうです。
 少し行くと進路の反対の左に新川家住宅が見えます。左に寄り道して「日限地蔵」にお参りに。この地蔵は海南市の有名な「日限地蔵尊」を勧請したものとか。(最近老眼と乱視がひどくなりPCも疲れます。ここもお参りしたかった私に付き合わせて申し訳ありませんでした。)
 
 大将軍湯跡のちょっと先、左手がもと「佐野町役場」跡、今は本町長生会館。
もと佐野町役場

 (3/29佐野町場例会の報告、中編2はここまで)

2025/05/06

zenちゃんに代わり3/29の例会(佐野町場)を報告(中編1)。

 (よく見てください下の方に「お多福石」)

 春日神社を終えて旧新川家住宅(ふるさと町屋館)に移動途中にある「お多福石」。明治28年に佐野村の人達によって「泉陽銀行」が設立されました。当時初代頭取の山本藤部氏の屋敷に建てられた金庫蔵の石積みに刻まれました。(当時、家や塀の土台になる石積みにはお多福や鶴亀、扇などめでたい刻みを入れるのが流行ったようです。)

(ふるさと町屋館「新川家住宅」)

 懐かしい雰囲気の散髪屋さんの角を曲がれば泉佐野市が整備した「ふるさと町屋館 新川家住宅」です。「カギの手平面構造」や「食い違い四間取り」など、佐野の民家の特徴をそなえ建てられてから200年以上たっています。当新川家は「中庄新川家」の分家で、湊村から移り住み醤油屋業を営み、後に呉服・織物などを扱う諸国問屋と小売業を兼ねていました。



 倉は壁いっぱいに食野、唐金家をはじめとする「佐野町場」に関する様々な資料が展示されています。かなり大きい倉は時には「新川塾」や「古文書講座」などのミニ講演会にも使われます。NPО法人の泉州佐野にぎわい本舗が運営しており、当日は新川家の一階、二階の隅々、調度、骨董まで詳しく説明してくださいました。誠にありがとうございました。
(陶器ギャラリー)
 新川家を出て海岸方向へ、「覚野兵蔵家の倉」を過ぎたら、ステキな陶器ギャラリーがあります。一度覗いてみては。ご主人が焼かれるようです。今日は入らず海岸部に向かいます。

(昭和26年頃の「いろは蔵」、中は「魚市場(×は引き違いで食野の紋)」、下は現在)



 白黒写真は古い「いろは蔵」と「魚市場」。カラー写真は現在「リニューアルされた蔵」。
通りには食野家をはじめ、唐金家、矢倉家といった廻船業を営んだ蔵が50棟近くあったことから「いろは(48)蔵」といわれており、昭和35年ころは20棟程度残っていたとか。今は散見されるのみですが、住宅、タオル工場、作業場などに転用されています。

        (いろは蔵通り近くの「なかせ寄場」にある「力石」)

 佐野浦は遠浅のため、大きい船は沖に停泊し、艀(はしけ、小さい船)で沖中士達が積み荷の上げ下ろしのため働きました。「なかせ」の人達が寝泊まり、休憩、船待ちをする施設が「寄場」と言われたのです。沖中士の人達が暇なとき、石を担いで力自慢を競ったのが「力石」です。大きい石で40貫(150キロ)、小さい石で32貫(120キロ)あるらしいです。昔は村相撲が流行ったわけがわかりましいた。

       (野出墓地入口付近にある焔魔堂(この下の角に地蔵あり))


 佐野町場を歩くなら、中心から少し離れていますが必ず「野出墓地」まで行かれることをお勧めします。道の右手が墓地ですが、左手に「野出地蔵(通称「夜泣き地蔵」)」があります。漁師の朝は早いので乳児が夜泣きすると睡眠の妨げになります。お母さんは子を抱いて夜泣きしないようにお願いしに来ました。写真は地蔵さんの上側にあるリニューアルされた「焔魔堂」です。(こわいよー。)

           (野出墓地、右側が六観音、左側が六地蔵)

 野出墓地には食野、唐金や村相撲の親方の墓碑などがあります。六地蔵、六観音は元禄時代の大きなものです。食野、唐金など商人の墓石はサイコロ型の花こう岩、農家や職人たちの墓は長方形の和泉砂岩、力士などは自然石が多く、戦没者の墓碑、明治以降の大型墓碑など多種、多様な墓碑が約5000基あるといわれています。

               (食野、唐金家の墓碑)


 当日は参加者全員で「佐野の浦太夫(上方で有名な佐野の浄瑠璃語り名人)」たちが師匠の絹太夫のために建てた墓と、「三界萬霊塔※と刻まれた墓碑」を探してどちらも見つけることができました。
 ※三界萬霊塔には「この萬霊塔は、天保八年の大飢饉のときに多くの人が餓死したので、その遺族の悲しみは今になっても尽きない。今年は七回忌になるので、供養のために人々が心を合わせて施餓鬼大供養を発願した。」と建立の趣旨が記されています。

                                                                           (三界萬霊塔
 和泉砂岩で剥離が激しかったのですが、最近、有志により修復されたそうです。

            (野出墓地位置図:新修泉佐野市史より)

 佐野町場は典型的な「在郷町」(ざいごうまち)といわれます。野出墓地で佐野町場のことを少し学習しました。
・城下町は武士を中心として発達した町です。→(例)岸和田
・門前町・寺内町は僧を中心として発達した町です。→(例)貝塚
・在郷町の定義は様々ですが、一般的には「江戸時代に、農村部に成立した商工業集落」とされ、農民・漁民・商人・職人など様々な「庶民が中心」のまち佐野町場にはぴったりです。また、「中心となる施設」が無いことも要件にいれる見方もあります。そういえば岸和田城や願泉寺みたいなランドマークは佐野にはないですよね。野出墓地には在郷町、佐野町場の歴史と文化がつまっているのです。

(3/29佐野町場例会の報告、中編1はここまで)



























2025/05/05

zenちゃんに代わり3/29の例会(佐野町場)を報告(前編)。



(昭和26年泉佐野駅海側)


(駅前商店街)
 南海泉佐野駅を出発。カラー舗装と街路灯で綺麗になった駅前商店街を北上。左手側は「新地通り」、国見館や電気館という映画館がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?。本日の最後に戻ってきます。「メガネのヨシノ」は最近まであったのですが~。旧国道の角に昭和29年まで泉佐野警察署があったと聞きますがわたしは知りません。
(昭和30年頃 駅前商店街)

 若いころよく来た「溝端書店」はどこだったのでしょうか。ここに来ればほしい本は何でもあった気がします。昭和30年代には「明星」「平凡」の売り上げが府下で一番だったらしいです。発売日には仕事帰りの女子工員が長蛇の列となって、山積みにした本があっという間に売り切れたといいます。

(昔の上善寺前商店街)

 孝子越え街道(浜街道)まで来ると「翼通り商店街」(本通り商店街と上善寺前商店街)のアーケードの下に入ります。翼通りの名は関空の開港に由来するそうです。昔の写真と比べると全くさみしくなりました。昭和16(1946)年に旧国道㉖が開通するまでは国道だったのです。上善寺前商店街を過ぎると春日通り商店街になりますが、ここから「例会下見記事」もご参照ください。

            (近世は浄土宗中本寺だった上善寺)

 泉州地方最大の「泉州大仏黒仏」、境内には西国三十三観音を祀った「観音堂」や「水掛観音」といわれる石仏のお堂もありました。お寺の大きい庫裏にも入れてもらいました。
(水掛観音)

 上善寺を過ぎて「むか新跡」を通ってぐるっと回れば「車みち」(山手から海岸(今はりんくうタウン)に至る道)。昔は浜で積み下ろしする荷を載せた「荷車」がさかんに往来したようです。今は「迷宮都市佐野町場」を何とかするため、道路拡幅を計画中。道に接する多くの土地が空地状態になっています。そのためか以前歩いた時の道標等が無くなっているものもありました。(あとで泉佐野市文化財保護課(朝日湯跡)で聞くとちゃんと保存してあるとのこと。さすがー。)

(「子護地蔵」食野氏道標地蔵)


「嘉永5(1852)年壬子年食氏」とあり、豪商食氏の建立です。下部に「右大川」「左犬鳴」と彫られた道標です。上善寺の土塀を撤去して春日通り商店街をつくるときまでは孝子越え街道沿いにありました。街道(商店街)をちょっと行くと、下見で報告した「(仮の)熊文商店」の向かいに元気な「天ぷら屋」さんがあります。参加者の一人に聞くと「おいしくて流行ってるんやー」とのこと。下町の元気なお店、なぜか嬉しくなりました。

(日蓮宗 永福山妙浄寺)

(梵鐘は唐金利範などの寄進、泉佐野市指定文化財)


 次は日蓮宗の永福山妙浄寺、梵鐘鋳工は堺の池田氏、鐘銘は榊原篁州。天和2(1682)年、佐野の豪商、唐金利範、利重、利興の三兄弟が春日大明神(春日神社)に奉納したが、明治の神仏分離で妙浄寺に移って生き残り、また太平洋戦争時の供出にもまぬがれた、泉佐野市内最古の鐘。

(春日神社)

   妙浄寺の向かいは前編のハイライト、「春日神社」(春日大明神)です。坂上刈田麻呂が奈良春日神社から勧請したのが始まりといわれ、(タケミカズチノカミ、アマノコヤネノミコト、アマノオクシノミコト、イワイシノミコト、ヒメオオミカミ )の五座を祀っています。佐野村内にあった27社は明治41年の神社合祀で当社に合祀されました。翌42年には東鳥取村にあった八幡神社、稲荷神社も合祀されていますが、ちょっと今の私には理由が分かりません。神社合祀令だけでなく明治の合祀の実相、実態を勉強する必要があります。

(拝殿前、柱の石(しめかけ石)岸和田「寺田甚与茂」「寺田元吉」。寺田兄弟が寄進)

 (食野・唐金の灯篭)

 この他にも合祀された神社の鳥居、水鉢、佐野浦船頭中が寄進した水鉢、西南戦争の戦没者の招魂碑、日露戦争戦没者の忠魂碑、コレラ過と闘った村長の顕彰碑などがありました。
 ここで触れなくてはいけないのは、「春日神社の太鼓台祭り」のことです。当日は詳しく説明できませんでしたのでお許しください。(日根神社に行って、枕祭りを語らないのと一緒のことになりますヨネ。)
(佐野春日神社の太鼓台祭り、神輿渡御)


 春日神社の祭神は上記五座で、特に「海神」に対する信仰とは結び付きません。しかし、被合祀神社の中には漁師の方たちとの関係を感じさせるものもあり、中でも明治41年に合祀された住吉神社は代表的な海神系神社です。「泉佐野の歴史と今を知る会」の樋野修司先生は、明治初期の旧佐野役場文書や合祀関係史料の研究によって、今日の春日神社祭礼(太鼓台祭り)は、神社合祀以前は中世「佐野網」の伝統を受け継ぐ佐野漁民「住吉神社の祭礼」として営まれていたことを明らかにされたのです。

(3/29佐野町場例会の報告、前編はここまで)