2025/05/11

泉南歴史トピックス4 信達市場、唐金新田の謎にせまる②

泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる
②食野氏と俵屋新田、そして食野氏自身が開発した新田(「宮本常一氏」の研究と「川上実計氏・池田谷久吉氏」の研究について)


 手放された俵屋新田のあとを受けて、矢倉家や食野家が経営したことを記しましたが、このことは有名な民俗学者の宮本常一氏による『泉佐野における産業の発展過程の概要』(宮本常一著作集22、産業史三編、未来社、所収)の「5.新田開発」の中で、かなり詳細にふれられており、さらに食野氏自身が開発したいくつかの新田のことも具体的にふれられています。

  当該論考では「(食野氏が取得した)俵屋新田」を説明した後、「俵屋新田のほか新田については宝永の頃唐金氏によって信達の佐田新田がひらかれている。六町歩ほどの新田であるが、砂川に近い地味のやせたところであった。」と記され、そのあと「食野氏自身の開発による新田も少なくなかったが・・・」と続き、いくつかの新田をとりあげ具体的に説明されていることから、「唐金新田」には別の開発者がおり、後に唐金家が取得したということは文脈上、考えなくてよいように思われます。

 しかし、氏によれば「唐金氏の開発新田は信達の『佐田新田』」となっており、その記述の方が重要です。佐田新田の開発者については泉南市に以前から異説があるからです。(この点は後からふれたいと思います。)

 

 さらに重要な関係資料として「昭和二十五年十一月十五日 食野家関係史料 第一集」があります。これは泉佐野市役所内佐野史談會発行、編集兼発行者代表池田谷久吉氏によるもので市長の山本正平氏の序文があるガリ版刷り製本のものです。

 この本には、市企画調査室の「川上実計氏」による、「九 食野財力の農村地帯浸透の一例としての 「俵屋新田と食家」」があり、俵屋新田を食野グループが取得していく過程と食野自身が新田開発する過程を詳細に史料で調査した論考です。上記、宮本常一氏の論考もこれを参考にしているのではないかと思われます。

 さらにこの本には、「池田谷久吉氏」による、「八 唐金興隆」があり、この論考の中で「興隆は宝永四年信達町の長慶寺に高さ八尺一寸の石灯籠一基を同時に奉納している。之は当時開発されたと思われる現に佐野市の飛地で新家村と信達村との中間にある儘に佐田新田とも呼ばれている土地が唐金家の所有であった関係から氏神氏寺として寄進したものと想像して間違いはなかろう。」と 記しており、

  最後に「◎長慶寺石灯籠銘をそのまま紹介し、その注として、(これが重要)「信達町にある真言寺院にして金熊寺に奉献と同時に行はる。因に信達町内に新家より六尾への途中大口新田五町歩唐金新田壱町歩佐野の飛地として現存せりこれは唐金家の開発新田にして移住者の氏神氏寺として金熊神社及び長慶寺を選びたるにより各宝前に寄進したものと考えられる。また、「◎金熊寺石灯篭(信達神社)銘をそのまま紹介し、その注として、「表参道一の鳥居の背後右側にあり…現在火袋欠損・・・」とある。

 以上、宮本常一氏、川上実計氏・池田谷久吉氏の論考をみてきたが、宮本常一氏は食野家関係史料第一集を参考として論考を書いたのではないかと考えられ、とりわけ「宝永の頃唐金氏によって信達の佐田新田がひらかれている」との記述は、池田谷久吉氏の論考の影響を受けているのではないかと思料されるのです。



(上は「
宮本常一著作集22、産業史三編」下は「食野家関係史料 第一集」ともに泉佐野市図書館にあり

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