2025/05/04

泉南歴史トピックス3ー⑥ ゆきりの祖伝承で思うこと


泉南歴史トピックス3ー⑥を令和6年12月末に投稿したのですが、何かの理由で消えてしまいました。ゴミ箱に入れてしまったことはないと思うのですが、どうしても復旧することができませんでした。当ブログの投稿を継続するにつき、約4か月もお休みしたことをお詫びいたします。そして、「泉南歴史トピックス3ー⑥ ゆきりの祖伝承で思うこと」で記したことを何とか思い出してもう一度書きたいと思います。)


 冒頭の写真は、令和7年1月に「道光寺池」の「樋」付近で撮ったものです。そして、下の画像は令和6年12月末時点で投稿した時の冒頭画像に使った「農業絵図」という本の「水の番」という絵です。

 水田稲作では水の役割は極めて重要でした。そのため、水を共有する対岸の村々や上流・下流の村々の間で、しばしばすさまじい水争いが生じました。これは瀬戸内気候で雨が少なかった和泉だけでなく、全国的にそうだったのです。近隣の市場村には海合宮池から各田地に水を落とす詳細な順番を記した絵地図が小川家に残されています。水争いによって村内外でけが人が出ることもしばしばあり、時には死人が出ることもありました。村々では当番で水の番を立てたのです。

 各村にはそれぞれ水利をめぐる伝承があり、若いころに姉の婚家(金熊寺)に手伝いに行ったとき、姉の義父にあたる人から「白河上皇が熊野詣でした時に、金熊寺より上の村は下の村より一番早く水を引く権利をもらったんや」と聞いたことがあります。これを本家の叔父に言ったら「上の方の人らはいつもそう言うんやー。」とのこと。もちろんお墨付きなどはありません。こんなにシビアな水利に関することを、殿様の一存で前例を変えることはなかなか出来なかったのではないかと思います。

 さて、歴史地理学的に泉南市の地形や河川を見れば、和歌山県に源を発する金熊寺川は岡中の愛宕山にぶつかって大きく左に蛇行して岡中、幡代、男里に至り海にそそぎます。愛宕山から発する長山(長岡)山脈が泉南市の平野部を大きく分断していますが、六尾の「滑瀬」(ナメンジョ)にある「築の井分水(ゆ)」がいつの時代か(おそらく中世初めころでしょう)にできて、長山より大阪側の平野部に水を引くことができるようになったのだと思います。築の井分水からの水路(現在はパイプライン)で海営宮池等に貯めた水は、牧野、樽井、市場、大苗代、北野、中小路、岡田(陸)等の田地を直接、間接(皿池に貯めて)潤しているのです。

 私は、「築ノ井分水」の誕生、存在こそ、古代「呼於郷(おおごう)」を「信達荘」と呼ばれる中世荘園にかえたターニングポイントだと思っています。泉佐野市では早くから文献史学の研究が進んで「史料」で明らかとなっていることが、歴史研究が遅れているために実証されていないだけだと思っています。そして、少ない水を分け合う信達荘の村々の統一融和の営みが金熊権現庄宮座、国市座であったのだと思っています。

 しかし、古代から現在まで金熊寺川の水量は増えているわけではありません。
金熊寺川支流の堀河川をせき止めて圧倒的な貯水量の堀河ダムが建設されるまでは、慢性的に水不足だったのです。ちなみに泉南市史通史編の「3 堀河ダム」(767P)によれば、必要粗用水量915万㎥で不足水量は273万㎥(約30%)に及んでいたそうです。当時の村にとって田地への引水がどれだけシビアで切実なものだったかはこの数字からも明らかです。

 さて、道光寺池に関する伝承、ゆきりの祖の話にもどりますが、上の画像は今年の正月の「池祭り」の際に、池に御幣を立てた写真です。岡中・幡代・馬場三か村の共有池に今も池祭りの伝統が息づいているのです。少し前までは当番村の池守の家で終わってから御馳走で一杯やるのが続いていました。岡中では道光寺池からの水利は「信達田」といいますが、今年の池守さん(村の先輩)の話では、当番村の池守から今年も御馳走のパックが届いたそうです。三か村の融和を図る先祖からの伝統の営みに胸が熱くなるのは私だけでしょうか。(このシリーズ終わり。)




 






 


0 件のコメント:

コメントを投稿