泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる
①大阪府全誌 巻ノ五 北信達村「大字市場」の項
もう何時のことだろうか、はっきりした記憶はないのですが、好きな郷土史の勉強、研究のためにしょっちゅう読んでいた、井上正雄著、「大阪府全誌 巻ノ五」の北信達村「大字市場」の項の最初に、「本地は古来日根郡に属し、もと信達荘のうちにして、大字大苗代・同牧野とともに信達宿と呼ばれ、御所村と称せしが、後市場村と改む。市場村と改めしは市場のありしに依れるものならん。字地に唐金新田といへるあり。・・・・」という記述をみつけ、聞いたことのない「唐金新田」という名称の新田が泉南市の信達市場にあったことを知ったのでした。
俵屋新田をはじめとする泉州の新田、とりわけ泉南市内の新田については、私のかなり以前からの調査・研究テーマで、いつも頭の片隅にあったのですが、そんなテーマがいくつもある中で、別テーマの勉強のなかでひょんなことで新しいことを発見することがしばしばあるものです。令和7年2月22日の泉南市民歴史倶楽部講演会で、貝塚市教委の曽我先生に講演をお願いしたのも、先生が早くから「俵屋新田」について研究され、新修泉佐野市史の当該箇所を執筆されたことも知っていたからです。
当日の講演会では泉南市の「国市場」や「樽井浜」「幡代川辺」のことは取り上げられましたが、信達市場の新田の話はありませんでした。そして参加者の多くの方からいろいろ質問がでて、市民の関心の高さがうかがえる結果ともなったのですが、私なりの市内新田関係調査の現在の到達点について、とりわけ俵屋新田「以外」の 新田について、調べた結果を発表する機会が必要かな、とも思っていました。
実はややこしいのですが、「俵屋新田」は17世紀当時の開発地主は、俵屋次郎右衛門その他計5家の共同によるものでしたが、開発した新田の経営という点では困難性が高かったようで、うまくいかずに当初の開発地主5家の中で最終的に地主として残ったのは俵屋の菊家だけなのです。
俵屋新田の開発後に転退した地主のあとを受けて、佐野の食野グループ(食野・唐金・矢倉の各家)が一部を購入し経営しているということで、「市場の唐金新田」も後世に唐金が購入し経営した可能性も考えなくてはいけないというややこしいものなのです。食野が廻船業や金融業だけでなく新田の開発や経営を行ったことは、此花区春日出新田(ここに有名な別荘も。(のちに横浜に移築され国宝にも))の例で有名です。
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