2025/05/17

泉南歴史トピックス5  泉佐野顕如伝説の実相 ①ー鷺森旧事記により判明した真実ー

 


泉南歴史トピックス5  泉佐野顕如伝説の実相

①ー鷺森旧事記により判明した真実ー
もう6年も前になりますが、筆者が「泉佐野の歴史と今を知る会会報 第382号(2019年10月9日)」に投稿した論考を当ブログに再掲いたします。よろしかったらお読みください。(縦書きを横書きに変換しています。)

泉佐野顕如伝説の実相
―「鷺森旧事記」により判明した真実―

はじめに
 我が国の史学は、近現代において皇国史観・唯物史観と大きく振幅した反動からか、最近では実証主義に基づく歴史研究のあり方が主流となっている。
 この影響からか、昭和三十六年に発刊された「泉佐野市史」には「顕如の石山退去」(百六十二~百六十四頁)として紹介されていた「上瓦屋新川家顕如上人の蟄穴」その他の伝説は、平成になってから再度発刊された「新修泉佐野市史」では全くふれられていない。一方、当該伝説に関わる佐野川新川家と中庄新川家、貝塚新川家(卜半家)の関係を詳しく整理した「新川一門関係系図抄」(中世編五百六十五頁)を作成し登載するなど、中世末から近世初頭の泉佐野在地社会や宗教に関する実証的記述が大きく前進し充実している。
 標題の顕如伝説に関する現在の市の取扱いも、市ホームページ(「いずみさのなんでも百科」)において「顕如が退去した経路(陸路、海路,本市での途中休憩など)については実証するものはまだ発見されていません。」と丁寧な説明がなされている。
 里井家文書の市寄託等により、近世は岸和田藩領から外れていた佐野川流域地域(瓦屋、湊、中庄)の近世史がにわかに注目を集めているが、本小文は同地域に残る顕如伝説の史実性等について、筆者が調査する過程で発見した和歌山鷺森御坊の「鷺森旧事記」の記述により判明した事実について紹介するものである。

1.伝説と伝説地について
 まず泉佐野市域における顕如伝説と伝説地等について可能な限り取り上げてまとめてみた。
①佐野川北出の浜
 本願寺の大坂退去の際、顕如が海路大坂から泉佐野に来たとき着いたとされる場所。現湊・下瓦屋地区
②顕如松
 北出の浜にあった松に向かって助けてくれと願うと、幹が割れ顕如を隠したとされる。場所は①付近で明治中期まで現存していたと伝わる。
③信證寺
 北出の浜付近にあったとされる古くからの浄土真宗寺院。明治の初年に廃寺に。妙光寺佐藤師の『泉さの界隈の昔話』では「真祥寺の浦」(東洋製鋼(現いこらもーる)の西南付近)と。また、当該「信證(証)寺」の水盤が現在も下瓦屋の浄土真宗寺院「西方寺」に残る。)
④新川家顕如上人の蟄穴
 顕如が頼ったとされる上瓦屋新川家の裏藪にあって、顕如が隠れたとされる穴。その後、同藪内の約二十m離れた場所に変わったと伝わる。「顕如の隠れ井戸」とも。現上瓦屋地区)
⑤かなやの松
 北出の信證寺(真祥寺)の浦に上陸した顕如が佐野川にそって熊野街道との交差まで来たときに、登って形勢を見たところ「これはかなわぬ」と言ったと伝わる松の木。当初の「かなわぬの松」が「叶うの松」に、そして「かなやの松」に転化。
⑥かなやの辻
 松があった辻のことで、松は枯れても残った地名。佐藤師によれば近年まで(冊子が出された昭和四十年の近年まで)辻の角に同名の茶店があったと。旧中庄町の「叶松町」の地名由来にも。
⓻顕如上人袈裟掛の松
 熊野街道沿いの四つ池(市場の西南にあった四つの池)付近にあった二株の交差した松の木。泉南郡役所編「泉南紀要」で紹介。)
 以上のとおり、佐野川の河口から中流にかけて伝説地が分布しており、佐野川と熊野街道との交差後には熊野街道沿いにも伝説地が存在し、その分布は点から線をなしている。そして筆者が知る限りさらに下って、近隣の泉南市岡田浦の浄土真宗寺院「西光寺」にも顕如が石山退去時の天正八(一五八〇)年七月に立ち寄ったという伝説が残されている。
 筆者は以上のような伝説地の分布や連続性を考えるにつき、伝説の基となる何らかの史実が実際に存在したのではないかと以前から感じていた。一方、天皇の調停を受け入れ、信長の意を受けて鷺森に退去した歴史的経緯から、「北出の浜」や「隠れ井戸」「かなやの松」といったまるで逃亡記のような伝説のありように少々違和感も抱いていた。

2.石山合戦とその後の本願寺東西分派にいたる経緯
 伝説の真実をさぐり関係史料と向き合ううえでの必要から、大阪における石山合戦及びその後の本願寺関係の動向や歴史を概観しておきたい。
□元亀元年(千五百七十年)九月十七日 
 信長が本願寺の石山からの退去を命じる。顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦、石山合戦が開始された。しかし合戦末期には信長との講和を支持する穏健派と、さらに徹底抗戦を主張する強硬派に分裂していく。
□天正八年(千五百八十年)三月
 顕如は正親町天皇の仲介により信長との和議に応じる。
□天正八年(千五百八十年)四月
 顕如ら穏健派は石山本願寺から紀伊鷺森へ退隠する。教如は徹底抗戦を主張したため顕如から義絶されるが、なお石山本願寺に籠城する。
□天正八年(千五百八十年)八月二日
 教如、勅使近衛前久の退去説得に応じ明け渡して退去。直後に本願寺は火災となり焼失する。その後も強硬姿勢を緩めぬ教如は強硬派への支持を募る。
□天正十年(千五百八十二年)六月二日
 本能寺の変で信長が自害。
□天正十年(千五百八十二年)六月二十三日
 顕如、後陽成天皇から教如の赦免を提案される。同六月二十七日、教如は顕如より義絶を赦免され、顕如と共に鷺森に住し寺務を幇助する。
□天正十一年(千五百八十三年) 
 秀吉が石山本願寺跡地に大坂城を築城開始。同年、顕如、教如は和泉の貝塚に移転。(貝塚本願寺(後の願泉寺))
□天正十三年(千五百八十五年)五月
 本願寺は秀吉の寺地寄進を得て大坂の天満に移る。
□天正十九年(千五百九十一年)八月
 再び秀吉の寺地寄進を得て京都に御影堂を移転。翌二十年七月、阿弥陀堂を新築し本願寺は京都に移る。
□文禄元年(千五百九十二年)十一月二十四日 
 顕如入滅に伴い、教如が本願寺を継承。元強硬派を側近に置き、顕如と鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため教団内の対立に発展。(顕如の室如春尼(教如の実母)は顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示し、遺言に従って三男准如に継職させるよう直訴)
□文禄二年(千五百九十三年)九月十二日 
 秀吉は教如を大坂に呼び、十年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう命じる。これに対し周辺の強硬派坊官が譲状の真贋を言い立てて秀吉の怒りを買ったため「今すぐ退隠せよ」との命が下る。
□文禄二年(千五百九十三年)九月十六日 
 准如が本願寺第十二世宗主を継承。教如は本願寺北東の一角に退隠させられ「裏方」と称せられる。しかし退隠後も精力的に布教活動し、文書の発給や新しい末寺の創建を行う。
□慶長三年(千五百九十八年)八月十八日 秀吉没。
□慶長七年(千六百二年)
 関ケ原の合戦後、教如は家康から本願寺(七条堀河)のすぐ東に寺領(烏丸六条)を寄進され、翌八年(千六百三年)本願寺(東)が開かれた。
※筆者注。本願寺の動向と極めて関連が深く、泉州史の中で欠くことのできない
□天正五年(千五百七十七年)信長、雑賀攻め。
□天正十三年(千五百八十五年)秀吉、泉州・紀州攻め。
 があるが、ここでは本願寺における東西分派にいたる経緯に特化したためあえて含めなかった。

3.「鷺森旧事記」の発見
 今回、鷺森旧事記にたどりついたのは、和歌山市立博物館で展示されていた原本を見て、学芸員の方に質問したところ、当該史料の稿本が当博物館発行の「和歌山市史研究二十六号(平成十年三月)」に収録されているとご教示いただいたことによる。
 和歌山市史研究二十六号は、全五十一頁のうち、当時の館長の寺西貞弘氏の「鷺森別院所蔵「鷺森旧事記」について」という論考と「稿本鷺森別院本「鷺森旧事記」」の二つの文書で成り立っており、筆者のように古文書が全く苦手な人間でも翻刻されているため何とか読みこなせるものである。次はこの稿本鷺森旧事記を読む過程で発見した本伝説に関係する部分を紹介するものである。

4、鷺森旧事記における本伝説に関係する記載
□顕如の石山退去の実相(日時、ルート)
教如御異変之事
 「∸―――かくて御門主天正八年四月四日に、大坂御堂を御退寺ありて、泉州堺浦より御乗船ましませて、御真影と共に吹井浦につき、同十日に紀州宇治郷鷺森に御下着なり、」(「稿本 鷺森別院本 鷺森旧事記」22頁下段)
 ※筆者注。吹井浦は現在の岬町深日のことなので、顕如は泉佐野には寄港していない。なお、筆者が別に調査し、今日まで顕如の石山退去で記載のある唯一の史料とされてきた太田牛一「信長公記」では、「「本門跡大坂退出の事」として―――雑賀より迎え船を乞い、四月九日、大坂を退出さる。」とあり、堺から乗船したのは四月九日であると推測される。
□顕如伝説の史実性の有無
教如上人大坂退去之事
 「―――教如御切腹の外事なし、是によりて城の請取奉行矢部善七郎へ、いろいろと一命を乞給う、―――(略)―――七月二十八日御堂を善七郎に相渡し、天正八年八月二日未刻に大坂を御退去あり、―――(略)―――其日ハ泉州佐野川まで落着給へハ、佐野川の孫市といふもの夫婦、信者にて家の後なる塚穴に隠し、若や信長の討手の者もきたらむかと、深く用心しけれとも、迫来る人もなかりけれハ、紀州へ送り奉るなり」(同26~27頁)
教如上人御勘気之事
「かくて教如上人、天正八年八月三日、佐野川孫市御供申、紀州へ落着給へとも―――」(同28頁上段)
 ※筆者注。顕如伝説は本願寺石山退去の史実を反映した伝説であった。
しかし、顕如退去後四か月後に天皇、信長怒りの中で行われた「教如」のものであった。佐野川の孫市は教如に御供して紀州まで送り届けていた。なお、先に1で見た泉南市岡田浦「西光寺」に天正八(一五八〇)年七月に立ち寄ったという伝説は、当時の暦の事情等から考えて許容範囲であり、本伝説が顕如でなく教如のものだったことを裏付けるものである。

5、鷺森旧事記の史料的重要性
 和歌山市史研究二十六号は、3で記したように、巻頭に当時の館長の寺西貞弘氏の論考を掲載している。旧事記の史料的重要性はこの一文を読めば明らかとなるが、とりわけ紹介しておかなければならないのは、「鷺森旧事記の時代認識」の部分である。旧事記が記されたのは元禄六年(千六百九十三年)十二月、宗意師によってであるが、
 「永禄ころを境として、後代の編纂物によって語られる時代がそれ以前であり、それ以後は一次史料によって語られる時代として認識されていたといえるだろう。すなわち弘教や宗意にとっては、それ以前の歴史が遠い歴史であり、語られた時代であったが、それ以後は近い過去であり、まさしく自分が語るべき時代であると認識していたといえるだろう。」と述べられている点である。
 石山退去は天正年間の出来事であり、永禄以後である。宗意師にとっては「一次史料によって語られる時代」に属するし「近い過去であり、まさしく自分が語るべき時代」だったのである。その意味において泉佐野顕如伝説の実相をさぐるうえで極めて重要な、決定的な史料的価値をもつと筆者は思うのである。

6、おわりに  
―「教如」がなぜ伝説では「顕如」に転化したのか―
 教如の石山退去の史実が、なぜ顕如の伝説に転化したかの検討は、私も含めた泉州の郷土史家の今後の課題であろうが、その答えを出すには今回の調査以上の困難性が予想される。
ここでは何の根拠もない私の「現時点」での推論を示して本小文を閉じたい。
2で見たとおり、本伝説の背景となった本願寺「石山退去」は、江戸時代初頭に確定した本願寺東西分派に至る、約二十年間の歴史の端緒に位置付けられるものである。東西分立以降も近世を通じて、「本伝説のありよう」が泉州や紀北における東西両派の布教活動や勢力争いと無関係ではなかったと思われるのである。
泉州と紀北地域の東西両派の勢力は、具体的な数字を示すまでもなく西本願寺(浄土真宗本願寺派)が優勢である。西と東が分立し、別派となったうえでは浄土真宗本願寺派寺院やその檀那達にとっては、「教如伝説」ではまずかったのではないのだろうか。









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