泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる
③佐田新田について
「清水明氏」と「北山理氏」と「山元六合夫氏」の研究
(このシリーズは①からお読みください)
さて、上の地図は府道大阪和泉泉南線と所謂、根来街道の交差点付近「佐田」の地図です。色分けされた地図ですが、ピンクが牧野、薄黄色が岡中、薄橙色が六尾で字が分かれています(市場は鶯色ですがこの箇所の範囲にはありません)。つまり、牧野、岡中、六尾の境界付近が「佐田」なのです。
また、佐田は金熊寺川が愛宕山にぶつかって大きく左、岡中側に蛇行する氾濫原といっていい土地で、見た目では分かりにくいのですが、右岸は左岸より標高が少し高くなっています。したがって愛宕山から海側にのびる長山(長岡)によって分断される泉南平野の大阪側に水を引くのはむつかしく、六尾のナメンジョに「築ノ井分水」ができたことが、信達荘の画期であったことは容易く想像できるのです。
佐田交差点の牧野側の山側には以前「俵池」があり、今は市により埋め立てられ「俵池グランド」になっています。また、海側には以前「池」があり、これが埋め立てられて「砂川高校(現:泉南支援学校)」になっています。実は筆者は相続した田地を岡中側に有しており、田はよく湿つき湧水が多く昔から蛇の多い土地なのです。したがって、宮本常一氏がいう「砂川に近い」ですが、「地味のやせたところ」という認識はありません。そのような土地柄なので、開発が遅れ近世になってから佐田新田として開かれることになったのだと思われます。
これは蛇足になりますが、その様な事情から根来方面から泉南側への近世初めのルート(三畑超え)は、金熊寺から六尾を経て直接新家に至るルートだったのです。(もちろん13号線はありません)これはれっきとした史料に裏付けられています(和歌山市史所収、浅野家文書)。また、泉南側から根来へのルートも新家清明寺代々記所収の「永禄元亀の絵地図」で「大道」が記され、松本芳郎氏の研究によって新家上村からイヤサカ池付近をへて六尾に至るルートが根来へのルートであったことが明らかにされています。所謂、大鳥居(オンドリ)からが起点になるのは、佐田新田の開発と時期を同じくするのではないでしょうか。
さて、前回②で「佐田新田の開発者について泉南市には以前から異説がある」と記しましたが、それは清水明氏の「泉南市域各地区の研究 1泉州岡田史考 湊佐治平家」(「わがまちの歴史と民俗」歴研通信集成第一集 泉南歴史研究会、所収」)です。清水氏は「三代目佐治兵衛の代には諸色問屋兼海運業を営み、千石船で諸国取り引きをする傍ら、牧野村を開拓して佐田新田を造成した。」とあります。(岡田の湊家は佐野中庄湊の日根対山の母親を輩出しており、明治の岡田銀行をおこしたりしているのです。(筆者))
また、「泉佐野の歴史と今を知る会」の北山理氏は阪南市波有手の古谷勘治郎家の当主に聴き取り調査を実施しており、佐田新田について、「明治に入って、岡田の人が所有していた佐田新田を勘一郎が買った。代金は三万三千三百円で、その代金を支払うために桑畑の瀧谷の立木を売った。勘一郎は佐田の池を作るなどした。佐田新田の小作は、波有手の人六軒に頼んだ。六軒の人の住む家も建てて、貸して住んでもらった。・・・」たと聴き取りの記録を残しています。
さらに、山元六合夫氏は「泉南地方における新興地主の新田経営」という論考をのこされており、(閲覧できますし、ダウンロードして印刷もできます。)。当論考は、近世末から近代にかけて波有手(ぼうで)の古谷勘治郎家の「勘治郎新田」と呼ばれた新田を研究されたものですが、佐田新田も同時期は古谷勘治郎家の新田であったことから「(3)佐田新田の歴史と経営」として詳しく言及されており、結論からいえば佐田新田の開発地主は唐金興隆ということになっているのです。
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