(顕如影像)
泉南歴史トピックス5 続・泉佐野顕如伝説の実相
②ー教如が顕如に転化したのは何故かー
(このシリーズは①からお読みください)
5年前に、筆者が第382号に続き「泉佐野の歴史と今を知る会会報 第387号(2020年3月11日)」に投稿した続編の論考です。続編も当ブログに再掲いたします。よろしかったらお読みください。(縦書きを横書きに変換しています。)
続・泉佐野顕如伝説の実相 ―教如が顕如に転化したのは何故か―
はじめに
昨年の秋、会報第三八二号(二〇一九年十月九日付)に私の小文「泉佐野顕如伝説の実相 ―「鷺森旧事記」により判明した真実―」(以下、「前回小文」という。)を発表させていただいてから、少なくない読者から感想やご意見を頂戴した。
私の予想では、一貫して西本願寺系の立場で記された「鷺森旧事記」の史料的価値についての意見が多いかと予想していたが、読まれた方々の主要な関心はそうではなく、史料を肯定的にとらえた上で、むしろ「おわりに」で提起した、ならば「なぜ伝説では教如が顕如に転化したのか」というテーマについてであった。
ある続者からは「是非ともそれをライフワークとして究明すべし」という言葉まで頂いた。前回小文の発表後も継続して真宗関係についての情報収集や勉強を続けてきたのだが、「教如が顕如に転化したのは何故か」という視点で見つめていくと、「分派後の東派、西派の勢力争いから」という推論以外にもう一つの推論が頭の中にもたげてきた。それは、前回小文の「はじめに」でいみじくも触れた、伝説の舞台である佐野川新川家(総領家)をはじめとした新川家一門に関わることでもあった。
本小文は、前回小文のような筆者の研究発表というよりは、最近における諸先学による真宗史研究の成果に学びながら、「なぜ伝説では教如が顕如に転化したのか。」を考えることを目的とするものである。
1、最近における真宗史研究の飛躍的進展
このテーマを考えていくには、この間(概ね昭和末~平成年間)の、真宗史研究の動向に触れておかなければならない。まず一つ目は、今日「寺内町の研究」が飛躍的に進展し、各市の市史等で紹介されてきた従来からの生成過程等に多くの疑問が生じ、我が泉州においても気鋭の研究者達による新しい貝塚寺内史像が拓かれつつあることである。二つ目は、畿内真宗の研究者の方々が「大阪真宗史研究会」を組織し、多方面にわたる真宗の歴史的実態を解明する作業に取り組まれ、その研究成果が発表、蓄積されてきていることである。さらに三つ目は、平成二十五年(2013)が東本願寺をひらいた教如四百回忌に当たることから、これを機に大坂抱様(かかえざま)以降の流浪期や秀吉による退隠期の活動、関ケ原前後の詳細な動向など、今まで伝承や謎とされてきた事項、茶道をはじめとする文化面、当時の公家や武将等との交際から家族関係にいたるまで、教如に関する研究が極めて多面的な分野で飛躍的に進んだことである。
なぜ伝説では教如が顕如に転化したのか、転化せざるをえなかったのかの推論のヒントは、このような諸先学による「研究成果の束」の中に既に存在しているのではないかと思われるのである。
2、貝塚寺内史研究の到達点
私達が通常、貝塚寺内の成立史として参考にするのは、やはり地元の「貝塚市史(通史遍)」(以下、「市史」という。)四百十四頁「二、貝塚寺内の草創」以降の記述についてであろう。貝塚寺内や願泉寺、初代卜半斎了珍等の由緒や寺内取立ての経過等を事細かに説明している。ここで記されている事項は極めて多岐にわたり、逐一取り上げることはできないが、最も重要なのは「天正十五年五月十九日付、富田頼雄筆寺内基立書」(以下、「基立書」という。)をはじめとする基本史料群についてである。市史の記述は基本的に基立書等の基本史料を前提として、これを肯定的に捉えた上で記述されているといえよう。
一方、市史の刊行後、約五十年を経た平成十九年に堺市博物館で開催された「貝塚願泉寺と泉州堺」と題する企画展の図録集(以下、「図録集」という。)の「基立書」の解説では、「—略—、基立書は貝塚寺内成立を語る際の根本史料とされてきたが、近年の研究成果により、後世に脚色されたと思われる部分が多く、その作成年代は天正十五年よりも下がるものと考えられている。また、作成者についても、署名にある富田頼雄ではなく、卜半家の領主権を正当化するために同家内部で作成された可能性が強いものと推定されている。」と説明されている。
さらに、大澤研一氏による「図録集」の巻頭論考「泉州のなかの貝塚願泉寺」では、「―略―住僧がいなかったところに、根来寺より京都からの落人右京坊を迎え、卜半斎と改めて居住したのが願泉寺の濫觸といわれてきた。しかし、この由緒は全面的には信頼し難く、卜半斎については泉佐野の土豪佐野川新川家の出身で、根来寺で学んだ経歴をもっていたことが近年明らかにされている。―略―さて、天正十三年(1585)八月、本願寺が天満へ移転する際、顕如は「海塚坊」の留守居を一旦、津田左衛門に命じたようである。しかし、左衛門がそれを辞退したため、卜半氏に仰せ付けられたという―略―」と述べられている。なお、このような点については、翌、平成二十年に発刊された「新修泉佐野市史 通史遍中世」五百六十三頁以下で詳しく記されており、筆者が前回小文「はじめに」で触れた新川一門関係系図抄も登載されているのである。
以上、「初代了珍は京都落人」、「右京坊は日野家末裔」という貝塚寺内の由緒は、今日では研究者間で見直されているのである。
3、秀吉による教如退隠命令
さて、筆者は前回小文の2の中で、「□文禄二年(1593)九月十二日 秀吉は教如を大坂に呼び、十年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう命じる。これに対し周辺の強硬派坊官が譲状の真贋を言い立てて秀吉の怒りを買ったため「今すぐ退隠せよ」との命が下る。」と記したが、これは前段の如春による秀吉に対する「譲状を使った直訴」を原因とするものであるが、秀吉側の対応について関係史料を見ながらもう少し掘り下げてみたい。
関白秀次の祐筆、駒井中務重勝の「駒井日記」によると、秀吉は教如に十一か条を挙げて失態を攻めたが、「第一条、大坂居据わられ候事。」(※筆者注、大坂抱様のこと)にはじまる詰問項目の中で、なぜか「第八条、当門主妻女の事。」という項目がある。
常に議論の俎上にのぼる譲状の真贋は棚上げするとして、教如への譲状が無かったこともまた事実である。しかし、如春(顕如の妻で教如、准如の実母)はなぜ教如が継職してから一年近くもたってからこの様な行動に出たのだろうか。「石山退去の際両親に逆らったから」は尤もな理由だろう。その他、「如春は実母でなく継母説」、「末子の准如溺愛説」等々、様々な憶測が存在するが、今日の研究成果でなるほどと思われるのは先の「第八条、当門主妻女の事。」にまつわる話である。
教如側近の宇野新蔵が書いた「覚書」によると、教如は正室の「東のかみ」(公家の久我氏の娘)がいるにもかかわらず、「おふく」という女性を溺愛し、その存在を隠しながら数人の子供をもうけていたのである。それに対し如春は「おふく」を嫉んでいたため、教如の禍根となる事を危惧した下間頼龍ら側近の連判状により別居処分となり、京都本願寺の東北からひそかに近江国長沢の福田寺に隠されたとされており、文禄二年(1593)閏九月のことなので秀吉からの処分の時期と重なるのである。
「東のかみ」には子供がおらず、将来「おふく」が産んだ子が教如の後嗣になり本願寺を継ぐと、重用されなくなった旧顕如派は二度と浮かび上がれないという判断が、末子准如を立てた動機であるとされるのである。
4、教寿院如祐とはだれか
教如の妻は四人いたとされる。まず一人目は朝倉義景の娘「三位殿」で、朝倉氏と本願寺の和議で婚約し、朝倉氏の滅亡を機に本願寺に嫁いだが天正八年、石山退去の際離別したとされる。二人目は久我通堅の娘で「東之督」だが結婚、離別の時期は判然としていない。三人目は教如の男子である尊如と観如ら二男七女の生母「おふく(教寿院如祐)」、四人目が東本願寺第十三世宣如の生母「妙玄院如空」であり、もとは「おふく」の娘「おねね」の乳母であったらしい。これらの中で最も教如の寵愛をうけたのが「おふく・教寿院如祐」であったとされている。
さて教寿院如祐の出自については、史料が宇野新蔵の「覚書」しかないので長らく真宗史研究者間で謎とされてきたが、貝塚願泉寺七代、卜半了観作成の自家用の「手鏡」(延享三年(1746)成立)には、「教如が佐野川村と貝塚に滞在中、卜半斎了珍の妻祐西の姪が教如の子を産んだ。女子は花山院家へ嫁ぎ、男子は早世した観如上人である。貝塚には観如遺影が特別に下付されている。」と綴っており、この「卜半斎了珍の妻祐西の姪」が「おふく・教寿院如祐」なのである。
卜半斎了珍の妻祐西は三善道喜の娘で、兄の「三善(新川)宮内大輔盛善」は天正年間に新川家一門に中庄新川家として加わり、本家の佐野川新川家から又七の娘を娶り、その間に生まれた甥の盛政が娘の宗貞を娶るなど、いわゆる交差いとこ婚の繰り返しによって新川一門衆の結束を図ったといわれている。
ところで教如とおふくの長男尊如は生後二日で死去、二男観如は慶長二年(1597)に誕生し教如の法嗣として養育され、慶長十五年(1610)十四歳で得度したが、翌、慶長十六年(1612)に十五歳で早世してしまう。教如とおふくの落胆はいかがなものであっただろうか。十三世を継げなかった観如の画像は貝塚願泉寺のほか、おふくが産んだ観如の姉妹が嫁いだ寺にしか下付されておらず、全国で計四幅しか確認されていない。
5、東本願寺継職を巡る争い(本願寺肩衝事件)
前回小文の2で筆者が示した「経緯」は慶長八年(1603)で終わったが、いま少し教如関係の歴史をたどってみたい。慶長十九年(1614)十月五日教如没。このとき東本願寺は妙玄院如空の産んだ幼い宣如を擁する一派と、教如と教寿院の外孫にあたる熊丸を擁する一派の間で係争が生じた。
元和二年(1616)に教如三回忌法要が営まれたが、事件はこの時起こったとされる。東本願寺のホームページでこれを見ると「定衆の堺源光寺が「教寿院は宣如上人に対する態度が悪いので、本願寺を追い出す」と大声を上げて触れ回るという事件がおこりました。それを聞いた御堂衆の泉龍寺超賢は、教如上人の側近である宇野新蔵に「教寿院が宣如上人へ肩衝(かたつき)の茶入れを渡せば、継職問題は解決するだろう」と言ったことにより、その日の内に教寿院から宣如上人へ渡されました。」とある。肩衝の茶入れは教如が生前に教寿院に形身として贈っていたものだった。
実はこれには話の続きがあり「惣門下中」より京都所司代、板倉伊賀守勝重に対し、「教寿院は宣如方に偽物の茶入れを渡した」との訴えがあり、伊賀守より宣如家臣団に茶入れを持参しての出頭命令がなされ、鑑定とともに宇野新蔵の査問も行なわれたのである。結果は一応本物だったといわれており、この騒動を経て十三世宣如が正式に継職したのであった。
さて、教如が石山本願寺を退去した際、「鷺森旧事記」にも「茶入れ一つのみ懐に入れて退去した。」との記述があるが、この茶入れこそ教如が烏丸の東本願寺へ移る際、本願寺継承の正統性の証として、教如御輿の先頭に立てられ「安城の御影」「親鸞伝絵(康永本)」とともに『三種の御什物』の一つとなった天下の名品、「本願寺肩衝」なのである。
6、東叡山寛永寺公海とはだれか
桜で有名な現在の東京上野「寛永寺」は、寛永二年(1625)天海大僧正により創立され、家康はじめ歴代将軍の帰依をうけ、徳川家安泰と万民平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された天台宗の寺院である。幕末に彰義隊が立てこもり戦場となったことでも知られるが、実は貝塚願泉寺の四代了周の寛永十三年(1636)以降、歴代住職は東叡山寛永寺で得度剃髪を受けているのである。願泉寺は本願寺東西分派以降も両本願寺と本末関係を保ち、昭和の戦後まで両派に属すという、真宗寺院でも極めて特殊な歴史を有するが、その願泉寺がなぜ天台宗の東叡山寛永寺の「御支配」寺院に位置付けられていたのであろうか。そして寛永寺の二代目公海大僧正から寛永十三年(1636)に「真教院」の院号を、寛文八年(1668)に「金涼山」の山号をそれぞれ下賜されているのである。
これらを下賜した寛永寺二世公海こそ、教如と教寿院の娘で花山院忠長に嫁いだ教証院如頓が産んだ男子で、宣如と東本願寺十三世継職を争った幼名「熊丸」なのである。
7、新しい貝塚寺内史像から見えてくるもの
以上2~6まで、本小文のテーマに関連する事項で、先学の研究で明らかとなってきている歴史を紹介してきたが、これらからは新しい貝塚寺内史像が見えてくるし、それに対する東西両本願寺の事情も窺えるものである。
吉井克信氏は「―教如とおふく―」(「教如と東西本願寺」所収。)のなかでこれらを端的にまとめておられるのでそのまま紹介したい。「貝塚願泉寺初代の卜半斎了珍の出自は新川一門衆とりわけ佐野川新川家の出生と推測されている。―略―それにもかかわらず、卜半家とその周辺では、教寿院や卜半斎が新川一門衆の出身であると積極的に公表しにくい事情があった。卜半家とその周辺で称し始めた「初代了珍は京都落人」、「日野家の末裔」との主張と齟齬を生じて由緒が破綻しかねないためである。」とし、さらに「この特殊な事情は、東西両本願寺にとっても同様であった。本願寺にとって教寿院は、本願寺第十一世顕如の正室如春と対立して第十二世教如が豊臣政権によって退隠させられる危機的状況を生じさせ、東本願寺分立後も第十三世宣如の継職阻止を画策した経歴をもち、歴史上に位置付けにくい存在なのである。教如側室でなおかつ観如生母でありながら、東本願寺系の系図・系譜類にさえ出自を詳述しえない複雑な背景がうかがえよう。―略―それにもかかわらず、卜半家とその周辺で作成された「手鑑」「卜半従来仕来之覚」があえて教寿院にふれるのは、東西両本願寺に属しつつ東叡山寛永寺で住職が得度するという、貝塚願泉寺のもつ複雑で重層的な権威の源泉が、教寿院如祐を介した観如や公海との血縁関係を抜きに語れないためである。」と明快に論じている。
8、おわりに
さて、筆者は2で、基本史料である「基立書」等の先学達による研究結果を紹介したが、これらは近藤孝敏氏による「貝塚寺内の成立過程について―「貝塚寺内基立書」の史料批判を通じて―」(「寺内町の研究第三巻、地域の中の寺内町」所収。)(以下、「近藤論考」という。)がベースになっていると思料している。この近藤論考では基立書だけでなく付属史料の史料批判も行なわれており、ここでは「貝塚卜半性名家記」という史料(以下、「当該史料」という。)についてとりあげたい。
当該史料は慶安元年(1648)に富田頼直が祖父から聞いた内容を記したという体裁をとりながら、前段では卜半家の来歴について記し、その後、顕如による寺号・山号・院号の下付について記しているが、ここでは後段の部分についての近藤論考の記述を紹介したい。
「―略― 顕如から寺号・山号・院号が下付されたとする等、全く事実に反する記載が存在し、日付・署名とも信用することができない。特に院号は、この文書の作成年とされた慶安元年(1648)の十月に下付されており、さらに山号にいたっては二十年後の寛文八年(1668)になって初めて獲得したのであるから、明らかにこの文書は後世の偽文書である。このような致命的ともいえる大幅な時代錯誤が十七世紀の段階で生じるはずはなく恐らくはるか後年になって何らかの必要性から富田頼直に仮託して作成されたものであると推察される。—略―」。
なぜ近藤論考の当該史料批判に筆者が注目するのか。それは、今では歴史的に明確な寛永寺二世公海による院号・山号下付を「顕如に仮託して説明する」ことを後世に行っている事例として注目するからである。
そして、院号・山号の下付を顕如に仮託し転化したのと同様に、後世に教如の故事をも顕如に転化して物語化した可能性を類推するのである。
思えば、大坂抱様が破綻して流浪の日々が始まった天正八年八月二日、大坂湾から新川家を頼って佐野川村(現泉佐野市上瓦屋)に来訪したのが物語の始まりだった。卜半、顕如、如春、教如、おふくらの没から四百年を経た今、信長、秀吉、家康らとわたりあって激動の戦国末期をしたたかに生き抜いた『教如』、そして歴史の陰に隠れてしまった『愛妻おふく』の物語として、泉佐野顕如伝説が現在によみがえることを願わずにはいられない。
《文中紹介以外の参考文献》
近藤孝敏 中世末~近世初頭の「中庄新川家文書」(『泉佐野市史研究(第9号)』所収。)、 遠藤一「教如と豊臣政権」、松金直美「東西分派後の東本願寺教団」、青木馨「文化人としての教如」、山口昭彦「本願寺肩衝」、(『教如と東西本願寺』所収。)、武田鏡村『本願寺はなぜ東西に分裂したのか』(扶桑社新書)、 川端泰幸「大坂本願寺戦争をめぐる一揆と地域社会」(『真宗教団の構造と地域社会』所収。)
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