(昭和26年泉佐野駅海側)
(駅前商店街)
南海泉佐野駅を出発。カラー舗装と街路灯で綺麗になった駅前商店街を北上。左手側は「新地通り」、国見館や電気館という映画館がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?。本日の最後に戻ってきます。「メガネのヨシノ」は最近まであったのですが~。旧国道の角に昭和29年まで泉佐野警察署があったと聞きますがわたしは知りません。(昭和30年頃 駅前商店街)
若いころよく来た「溝端書店」はどこだったのでしょうか。ここに来ればほしい本は何でもあった気がします。昭和30年代には「明星」「平凡」の売り上げが府下で一番だったらしいです。発売日には仕事帰りの女子工員が長蛇の列となって、山積みにした本があっという間に売り切れたといいます。
(昔の上善寺前商店街)
孝子越え街道(浜街道)まで来ると「翼通り商店街」(本通り商店街と上善寺前商店街)のアーケードの下に入ります。翼通りの名は関空の開港に由来するそうです。昔の写真と比べると全くさみしくなりました。昭和16(1946)年に旧国道㉖が開通するまでは国道だったのです。上善寺前商店街を過ぎると春日通り商店街になりますが、ここから「例会下見記事」もご参照ください。
(近世は浄土宗中本寺だった上善寺)
泉州地方最大の「泉州大仏黒仏」、境内には西国三十三観音を祀った「観音堂」や「水掛観音」といわれる石仏のお堂もありました。お寺の大きい庫裏にも入れてもらいました。(水掛観音)
上善寺を過ぎて「むか新跡」を通ってぐるっと回れば「車みち」(山手から海岸(今はりんくうタウン)に至る道)。昔は浜で積み下ろしする荷を載せた「荷車」がさかんに往来したようです。今は「迷宮都市佐野町場」を何とかするため、道路拡幅を計画中。道に接する多くの土地が空地状態になっています。そのためか以前歩いた時の道標等が無くなっているものもありました。(あとで泉佐野市文化財保護課(朝日湯跡)で聞くとちゃんと保存してあるとのこと。さすがー。)(「子護地蔵」食野氏道標地蔵)
(日蓮宗 永福山妙浄寺)
(梵鐘は唐金利範などの寄進、泉佐野市指定文化財)
次は日蓮宗の永福山妙浄寺、梵鐘鋳工は堺の池田氏、鐘銘は榊原篁州。天和2(1682)年、佐野の豪商、唐金利範、利重、利興の三兄弟が春日大明神(春日神社)に奉納したが、明治の神仏分離で妙浄寺に移って生き残り、また太平洋戦争時の供出にもまぬがれた、泉佐野市内最古の鐘。
(春日神社)
妙浄寺の向かいは前編のハイライト、「春日神社」(春日大明神)です。坂上刈田麻呂が奈良春日神社から勧請したのが始まりといわれ、(タケミカズチノカミ、アマノコヤネノミコト、アマノオクシノミコト、イワイシノミコト、ヒメオオミカミ )の五座を祀っています。佐野村内にあった27社は明治41年の神社合祀で当社に合祀されました。翌42年には東鳥取村にあった八幡神社、稲荷神社も合祀されていますが、ちょっと今の私には理由が分かりません。神社合祀令だけでなく明治の合祀の実相、実態を勉強する必要があります。
(食野・唐金の灯篭)
この他にも合祀された神社の鳥居、水鉢、佐野浦船頭中が寄進した水鉢、西南戦争の戦没者の招魂碑、日露戦争戦没者の忠魂碑、コレラ過と闘った村長の顕彰碑などがありました。
ここで触れなくてはいけないのは、「春日神社の太鼓台祭り」のことです。当日は詳しく説明できませんでしたのでお許しください。(日根神社に行って、枕祭りを語らないのと一緒のことになりますヨネ。)
(佐野春日神社の太鼓台祭り、神輿渡御)
春日神社の祭神は上記五座で、特に「海神」に対する信仰とは結び付きません。しかし、被合祀神社の中には漁師の方たちとの関係を感じさせるものもあり、中でも明治41年に合祀された住吉神社は代表的な海神系神社です。「泉佐野の歴史と今を知る会」の樋野修司先生は、明治初期の旧佐野役場文書や合祀関係史料の研究によって、今日の春日神社祭礼(太鼓台祭り)は、神社合祀以前は中世「佐野網」の伝統を受け継ぐ佐野漁民「住吉神社の祭礼」として営まれていたことを明らかにされたのです。
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